第3話 裏切りのはじまり――狩猟試験と“消える死”
第三の試練は、朝の鐘と同時に告げられた。
石の回廊に集められた百人の生徒の前で、アルトが軽く肩をすくめる。
「狩猟。制限時間内に獲得点を競う。対象はモンスター、そして参加者各自に与えられた“タグ”だ。協力も裏切りも自由。勝ち方に書式はない」
ざわめきが走る。背中に貼り付けられた薄い金属板が、それぞれのタグだ。触ると微弱な熱を持ち、心臓の鼓動に合わせて淡く点滅している。
モンスターを倒せば点になる。人のタグを奪っても点になる。つまり、同じ班の背中にも点が貼ってある。
「相互不可侵協定を提案します」
茉莉がすぐ手を挙げた。板切れに太い線を引き、声を通す。
「同じ集団に刃を向けない。違反者は除名。試練中の支援も打ち切る」
賛成の手が上がる。よかった、という小さな安堵があちらこちらで揺れた。
けれど、悠真は喉の奥でもう一つの音を聞いた。
除名。ここでそれはほとんど死に等しい。水も食料も、連結視界の連携も、寝床も、目が届かない場所から順に消える。
言葉が強すぎる。線を引くのは必要だ。だが、刃の研ぎ方を誤ると、線はいつか首を切る。
「茉莉、宣言の文言を少し緩めないか。違反者の救済手順を入れておくとか」
「いまは時間がない。曖昧にしたら、もっと血が出る」
茉莉の焦りが、観察者の視界にだけ白い縁取りで見える。正しさを守る速さが、わずかに危うい。
回廊の大扉が開く。風が吹き込む。
草の匂い。土の匂い。遠くを鳥が飛ぶ影。
石灰岩のアーチがいくつも連なる野外フィールドが広がっていた。草丈は膝。ところどころに鬱蒼と茂る低木。薄い霧。
俺たちは四班連携のまま、戦闘班を矢面に出し、探索班が左右の死角を取る。医療班は中央に控え、保護班が背後の荷を守る。
「時間は二刻。解散」
アルトの声と同時に、広場の鐘が鳴った。
散開。
足音が草を折り、露が裾を濡らす。
観察者の視界に線が走る。味方の視線の蛇行、腕の硬さ、指の末端の冷え。
躊躇が増えると、射線が生まれる。
嫌な感覚がした。右の丘。低く身を伏せた影。狙いは背中だ。弓の弦がわずかに沈む。
「五度、右に寄る」
悠真は小さな動作で蓮の肩を叩く。
全体の進路を、ほんの五度だけずらした。
狙撃線から抜ける。その瞬間、離れた場所で怒号が上がった。別班同士が衝突し、鳥が一斉に飛び立つ。
矢はそっちへ吸い寄せられ、木の幹に乾いた音を立てた。
「助かった」
蓮が短く笑い、棒を肩で回す。
「お前の合図、わかりやすい」
草陰から牙のある獣が飛び出した。
肩のライン、重心の沈み。右前脚に古傷。跳ぶ角度は浅い。
「頭じゃない、膝」
蓮が棒を低く差し入れ、獣の膝を打つ。崩れた瞬間、戦闘班の男子が横から刈り取った。
点灯。タグに薄い光が走り、獲得点の数字が上がる。
連結視界が繋がるたび、死角が削れていく。
俺は殴れない。だが、見える。
見えるだけで、殴れる誰かが正しい角度で打てる。
時間の半分が過ぎる頃、薄い霧が濃くなった。
視界を割るように音が走る。空気が切られ、矢が地面に突き刺さる。
「低く!」
全員が散った。だが一瞬遅れ、蓮が脇腹を横に裂かれた。
「クソ」
蓮が歯を食いしばる。血が指の間からあふれる。
「止血」
医療班がすぐに駆け、布を押し当て、棒で圧迫を固定する。
痛みに耐える蓮は、それでも笑いを作った。
「だいじょうぶ。生きて帰る」
軽口のリズムの奥で、汗の粒が細かく揺れる。観察者は、それを恐怖だと読み取る。
返す言葉が喉に貼りついた。
俺の合図が、すべてを守れるわけじゃない。
「撤退路を変える」
茉莉が地図を睨み、指をすべらせる。
「風下に回り、アーチの陰を抜ける。探索、前へ」
先頭に出て、岩の裂け目を探す。
石灰岩の壁際で、悠真は足を止めた。
黒。石の間に、とても自然に紛れ込んだ黒い帯。
回廊の壁にあった黒いガラスと同じ材質だ。光を飲むような、湿度のない黒。
近づくと、表面に薄い影が重なった。
輪郭が浮かぶ。クラスメイトの顔。今日の朝、笑っていた顔。
狩場の奥で矢に貫かれて、さっき倒れたはずの、彼の顔。
「おい、悠真」
蓮が呼ぶ。
悠真は手を伸ばした。指先が黒に触れる。冷たい。ガラスが血の温度を奪っていく。
その瞬間、視界の端に数式が走った。
『ログ格納:成功』『参照権限:審判』
耳の奥が、氷を当てられたみたいに冷えた。
死んだのではない。
“消された”。
記録は壁の奥に吸い込まれ、顔は薄い泡になって弾ける。
音もなく、悲鳴もなく、ただ、在ったはずのものが平らになる。
次の瞬間、視界のベクトルが一斉に狂った。
怒りが、恐怖の下から顔を出す。
帰還はひとり――それが、他の世界の削除と同義なら?
生き残りの定義が、誰かのログを消し、誰かの記録を上書きすることだとしたら?
「悠真!」
茉莉の声が飛ぶ。
「戻る。合流点まであと三百。戦闘は避けて」
俺は最後にもう一度黒に触れ、手を引いた。冷えが骨に残る。
地面を蹴ると、草が音を立てた。蓮の息が後ろで荒く揺れている。
連結視界が繋がる。前方、右。低い姿勢で抜ける影。人か、獣か、判別が半秒遅れた。
矢。
茉莉が腕を引いてくれた。矢は耳を掠め、背後の岩に刺さる。
「ありがとう」
「礼は帰ってからでいい」
茉莉は短く言い、地図を畳んだ。
基地に戻ると、空気が熱を持っていた。
吊し上げの熱だ。
中央に集められた数人が、円に取り囲まれている。
背中のタグが剥がされ、手首は縄で軽く縛られている。
茉莉が壇に立ち、白墨を握っていた。頬は涙の跡で濡れている。
「協定に違反した。仲間の背に矢を向け、タグを奪った。これは集団の死に直結する」
茉莉の声は震えていた。
「違反者は除名とする。食料の支援を打ち切り、拠点からの出入りを禁じる」
言葉は正しい。論理は正しい。
けれど、その速さが怖かった。
観察者の視界に、茉莉のスキルがうっすらと像を結ぶ。
裁定者――アービター。
合意形成を強制的に安定化させる能力。
議論の波を一気に沈め、輪を閉じる。
強い秩序は、時には命を守る。けれど、強すぎる秩序は、いつか自由を殺す。
「待ってくれ」
悠真は壇の下から声を投げた。
「正しさに刃をつけたら、もうそれは正義じゃない。除名は最後のカードだ。違反の度合い、状況、救済の余地――段階を作ろう」
「段階?」
誰かが吐き捨てる。
「背中に矢が抜けた奴に、段階? 悠長にしてる暇はない」
「わかってる。俺だって、今日、目の前で人が消えた。怒ってる。だからこそだ。怒りの熱でルールを焼いたら、灰しか残らない」
ざわめきが、少しだけ落ちる。
茉莉が、涙で濡れた目でこちらを見る。
「私だって、守りたいからやってるの。誰かが決めないと、みんな死ぬ」
「決めるのは必要だよ。でも、刃の向きを確かめよう。違反は罰する。けど、切らなくていいところまで切ったら、次は私たちが破られる番だ」
茉莉の手が、ゆっくりと下りた。
アービターの縁取りが薄くなる。
視界に漂っていた“納得の霧”が、少しだけ晴れた。
その隙に、悠真は手順を書き出す。
違反の種類。危険度。故意か過失か。救済策。観察者は、怒りと恐怖の流れを、言葉で整えた。
「一次隔離。情報を取り、意図の確認。二次措置としてタグの一時停止。三次措置で支援停止。除名は最終段階。加えて、今後の狩場では“タグは背中から胸へ”に変更。背を向けて撃たせない」
異論は残るが、輪は閉じすぎないところで止まった。
茉莉は深く息を吐き、白墨を置いた。
「……わかった。そうしよう」
彼女の肩の力が抜ける。
アービターは刃を鞘に戻し、班のざわめきが収束していった。
散会のあと、悠真は隅の壁に寄った。
石の継ぎ目の奥に、黒い帯がある気がして、確かめずにはいられなかった。
見張りの角灯が、黒にかすかに反射する。
耳を寄せる。
薄いざわめき。昼の議論の残響。泣き声。罵声。祈るみたいな息。
その奥に、誰かがいる。
壁が記録するだけじゃない。見ている。
この場所は、言葉と感情の温度まで吸い上げる。
「なに見てる」
背後から蓮の声。
彼は包帯の上に上着を羽織り、痛む体をそっと壁に預けた。
「お前こそ寝ろって。俺は平気。医療班に巻かれて栄養まで押し付けられたから」
冗談めかした声の奥で、汗がもう一度滲む。
痛い。怖い。けれど、笑っている。
その両立は、蓮の強さの形だ。
「俺、知ってることがある」
蓮が小さく言った。
「この召喚、前から兆しがあった。家の連中がさ、妙な会合に出てて……いや、いい。いま話すことじゃない。大丈夫。俺はお前の手足になる。お前が見たら、俺が動く。それでいいだろ」
悠真は頷いた。
言葉が喉に詰まる。
壁の裏で眠る顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
消えた、のではない。
消された。
その違いが、心に棘の角度で残る。
「蓮。もし、俺が見てはいけないものまで見えるようになっても、止めてくれるか」
「止める。俺はお前をブレーキにも、アクセルにもする。好きに使え」
蓮は軽く拳を合わせてきた。
骨の固さが、かろうじて現実をつないでくれる。
寝台に戻る前、黒い帯にもう一度目をやる。
角灯の火が、今度は反射しない。
ただの石だ。
なのに、そこに“扉”の形を想像してしまう。
鍵穴は、きっと人の心の中にある。
見てほしいと見ないでくれの境目。
昼に出会った黒髪の少女の声が、耳の奥で薄く揺れた。
夜が深くなり、拠点の音が静まる。
茉莉が巡回を終えて戻ってきた。
「さっきは助かった」
「俺も助かったよ。矢のとき」
「おあいこだね」
茉莉は短く笑い、眠そうに目を細めた。
「……怖いね、悠真。正しいと思って走ると、足が勝手に速くなる。止めてって言ってくれて、よかった」
正しさにブレーキをつけるのは難しい。
スキルで集団をまとめるのは簡単だ。その気になれば、輪はぴったり閉じる。
でも、それは輪の外を見なくなる合図でもある。
茉莉は目を閉じ、静かな寝息になった。
アービターの縁取りは、完全に消えている。
ただの人になった彼女は、とても軽く見えた。
角灯の火が最後に一度だけ揺れ、消えた。
闇に目が慣れると、天井の孔がかすかに青い。
そこに、言葉と感情の霧が吸い上げられていくのが、観察者には見える。
見えてはならない層が、また一段、輪郭を持った。
帰還はひとり。
本当に、そうだとして。
ひとりが帰るかわりに、九十九のログが消える世界は、帰るに値するのか。
それでも俺は帰りたいのか。
帰りたいなら、鍵穴を探せ。少女は言った。
鍵は、きっとあの黒の向こうにある。
怒りだけでは届かない。
観測の線で、扉の形を確かめる。
次の鐘が鳴る前に、心の中でその作業を繰り返した。
遠くで、狩場の夜鳥が鳴いた。
短い、鋭い声。
人の声よりずっと冷たく、記録の端に引っかかる音だった。
蓮の寝息が、痛みに揺れながらリズムを刻む。
茉莉の呼吸は静かだ。
ここにいる人たちの体温と、壁の向こうの冷たさ。
その差を忘れなければ、まだ間に合う。
悠真は目を閉じ、朝の青を待った。
夜明け。
薄い光が回廊を撫で、野外にかかる霧がほどける。
アーチの向こうに新しい影。
第四の試練の告示が、鐘とともにやってくる。
観察者は立ち上がり、声帯を整えた。
最弱の情報を、今日も最強に変える。
そのための目は、もう覚悟の色をしていた。




