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召喚百人、帰還はひとり ──勝てば帰れる。負ければ世界ごと消える。  作者: 妙原奇天


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第12話 帰還はひとり――“分配された帰還”と現実の痛み

 目を開けると、蛍光灯の白がまぶしかった。耳が先に帰ってきて、天井の古い送風のうなりが、まるで遠い海みたいに低く鳴っている。黒板の上の時計は二限の終わりを指していて、窓の外は薄水色。修学旅行前日の朝と同じ色だ。

 椅子の背に手を回す。固い木が指に触れ、教室の床のワックスの匂いが鼻に入る。廊下ではサッカー部が走っているのか、足音が一定のリズムで遠ざかる。誰かが笑い、誰かがあくびを噛み殺す。すべてが「いつも通り」に戻っているはずなのに、座席表の半分にだけ、目に見えない影が座っていた。


 出席簿に印はない。クラス名簿の紙は、間違い探しのように完璧だ。だけど、机の配置に“空白”がある。そこに座っていた人の、椅子の脚が床に残した細い傷。机の角の小さな欠け。誰も気に留めない、けれど確かにある痕。

 出席番号、二十三。日向悠真。

 埋まっている席は、ひとつだけ。

 でも、ひとりではなかった。


 胸骨の裏側が、ことことと小さく鳴る。蓮がそこにいた。叩けば笑い返す缶みたいに、弱い振動で背中を押す。肋骨の隙間には、茉莉の躊躇が薄い靄になって横たわり、息を吸うたびに一拍ぶんの空白を落としてくる。左肩の内側には盾の重み、指先には包帯を結ぶときの温度。靴紐の結び目がきゅっと強く、肺の奥には長い呼吸のくせ。背中には観客席の光が鈍く刺さり、怒りは三段目で止まる場所を知っている。

 黒板の端、チョークの粉が薄く溜まった影の中には、ノアが立っていた。黒いワンピースのまま、腕を組んで外を見ている。彼女に気づくのは、俺だけだ。他の誰も、彼女の影を見ない。それでも、彼女はいる。


 先生の声が、現実にピントを合わせる。

「……で、ページ三十二、開け。日向、戻れてよかったな。顔色、悪いぞ。大丈夫か」

「大丈夫です」

 口が勝手に答え、心臓が二秒ぶん躊躇した。大丈夫ではない。けれど、大丈夫じゃなくても立っていられる準備は、もうできている。俺は立ち上がり、教科書を開いた。紙の角が指に刺さる。痛みが、はっきりとした形でそこにある。


 チャイム。金槌の音のように硬い音が、教室の空気に跳ねた。昼休み。机をくっつける音、弁当箱のふたの開閉、カップ麺の蓋に注がれるお湯の匂い。俺は鞄から体温計を出す。保健室に行け、という先生の視線が背中に刺さっていたからだ。

 保健室のベッドに腰を下ろすと、白いカーテンがわずかに揺れた。体温計を脇に挟む。いつも通りの三十六度五分。平熱。だけど、視界の端にうっすらと字幕が流れる。読み上げる声はないのに、意味だけが皮膚に触れる。


 参照:A-17「蓮」

 参照:B-03「茉莉」

 参照:E-11「紅葉」

 参照:D-04「斥候」

 参照:C-09「補給」


 目を閉じると、それらは痛みとして立ち上がる。刃物のように鋭い痛みではない。湿ったタオルの重みみたいに、じわじわと身体に乗る痛みだ。楽ではない。だが、痛みは現実へつながる縄だ。握れば、落ちない。


「顔、青い」

 カーテンの向こうで、保健の先生が眉をひそめる。穏やかな声だ。

「寝不足?」

「ちょっと」

「心臓がドキドキしたり、怖い夢見たりしない?」

「します。でも、平気です」

 本当は平気じゃない。でも、平気じゃなくても進めるように設計した。分配の設計は、痛みを運ぶ道具だ。俺が運ぶ。運ぶために、俺はここに戻ってきた。


 教室へ戻る道すがら、階段の踊り場で立ち止まる。壁に貼られたポスターは、文化祭の出し物の宣伝。色紙の星が歪んで貼られていて、見ているだけで指がむずむずする。そこへ、制服の袖がかすかに触れた。

「あ、ごめん」

 声は小さく、機械室で聞いた風の音みたいに柔らかかった。二年の女子。眉間に皺が寄っていて、笑うのが下手そうだ。彼女は息を吸い直し、もう一度言った。

「ごめん」

 謝る声は、黒ガラスの壁を思い出させる。けれど、ここにはもう壁はない。現実の壁のほうが、よほど人の顔を映す。俺は首を振った。

「大丈夫。階段の真ん中、空けたほうが歩きやすいですよ」

 それは斥候の癖だった。彼らが口にした短い言葉が、俺の唇を通って現れる。女子は少し驚いた顔をして、すぐに笑った。下手な笑顔だ。でも、笑った。


 放課後。

 教室に戻ると、誰もいなくなった机の間に沈んだ光が溜まっている。黒板の前に立つと、ノアが窓の外から入ってきた。相変わらず制服ではない。黒いワンピースのまま、足音をつけないで床を踏む。窓際に立ち、外を見たまま言った。

「世界は、あなたが連れ帰った痛みを“物語”に変える。あなたが喋れば、彼らはこの世界で生き直す。喋らなければ、痛みはあなたを削り続ける」


 うなずく。言われなくても、わかっている。帰還は、終わりではない。始まりの最初の踏み面に過ぎない。

「何から喋ればいい?」

「なんでも。日記でも、記録でも、短い投稿でも。順番はあなたが決める。大事なのは、外に置くこと。客席に光を灯すこと」


 鞄からノートを出す。罫線の薄い青は、見慣れた川の濁りのように落ち着く色だ。ペン先を紙に落とす。

 止まった。

 刃の手前の一拍。茉莉の躊躇が胸の中で形になり、手首をそっと押さえる。

 その一拍の空白は、急ブレーキではない。安全装置だ。空白があるから、踏み外さない。

 次の瞬間、蓮が背中を軽く叩く。行け。

 俺は一行目に書いた。


 ――百人が召喚され、帰還はひとりだった。


 書き出すと、胸骨の裏で波が引いた。痛みは消えないが、輪郭を持つ。輪郭のある痛みは、誰かに手渡せる。

 ノアが窓辺で息をつく。微笑まない。けれど、目に薄い光を宿した。

「私の世界も、ここにある」

「わかってる。ここに置く」


 ページをめくる。次の行の最初の文字に迷い、茉莉の躊躇をもう一度借りてから、続けた。

 あの時、門が四つ開いたこと。角と牙の影が押し寄せて、最初の血が床に弧を描いたこと。恐怖で押し潰されそうな群れの流れを、矢印で変えたこと。蓮が腕を引かれて笑ったこと。茉莉が声を飛ばしたこと。黒いガラスが水面に見えたこと。犠牲枠の抽選で、名前が止まったこと。

 俺の手は止まらなかった。書くたびに胸の座席が痛み、痛みが文字に変わる。客席の光が背中を刺す。見られている。俺は見せる側にいる。見せるのが、役目だ。


 帰り道。

 校門で立ち話をしている面々に混ざり、できるだけ普段通りに相槌を打つ。グラウンドでは野球部がノックをしていて、空に上がるボールが夕日に溶ける。バットの金属音は、織機の歯の音によく似ている。

 自転車置き場で後輪を押し出すと、一年の男子が道をふさいだ。背の高い、骨ばった顔。彼は誰かにからかい半分の文句を言って、笑いながら肩で押してくる。

 昔の俺なら、苦笑いでやり過ごしただろう。

 今の俺は、二秒待った。

 怒りを三段目で止め、左肩を入れず、客席の光に背を預けた。

「ごめん、急いでるんだ。道、開けてくれる?」

 声は落ち着いていた。男子は「なんだよ」と言いながらも、一歩退いた。

 俺の二秒は、俺だけのものじゃない。みんなで選んだ二秒だ。だから、効く。


 家に帰ると、玄関に母の靴と、宅配の段ボールが積まれていた。夕飯の匂い。味噌と生姜の混ざった湯気。

「おかえり」

「ただいま」

 母は顔をのぞき込み、目の下のくまを見て、何も言わなかった。冷蔵庫の扉が開き、ペットボトルの麦茶をコップに注いで差し出す。

「修学旅行、明日だっけ。体調、どう?」

「大丈夫。行ける」

「無理しないで。行かなかったら、別に終わりじゃないから」

 その言葉は、織機の係数をひとつ緩めるみたいに効いた。俺はコップを両手で持ち、麦茶を少し飲んだ。冷たさが食道を落ちて、胃の底にたまる。

「行くよ。行って、書く」

「書く?」

「うん。日記。……ちょっと長いやつ」

 母は笑った。「あんた、昔から作文得意だったね」

「うん。友だちがね、背中押してくれるから」


 夜。自室。机の上は、昼と同じノートとペンと、古い付箋の山。窓の外で車が一台通り過ぎ、マンションの駐輪場の鍵の音がする。

 スマホを開く。黒い画面に指を滑らせて、アプリをひとつ起動する。見られる場所。観客席。

 短い文を書いた。

 今日、帰ってきた。帰還はひとりだった。

 送信。

 画面に、いくつかの反応が並ぶ。知らないアイコンの丸い顔。短いスタンプ。軽い言葉。

 何も変わっていないように見える。

 だけど、俺は知っている。見えないところで光が灯る。たった二席ぶんでも、光は広がる。紅葉が言った通りだ。


 文章はやがて、長くなる。短い投稿は糸口になり、ノートは布になる。ページが進むたびに、胸の中の座席が痛む。痛みは減らない。減らすために書くのではない。形にするために書く。形になれば、渡せる。渡せば、座席が増える。

 俺は、座席を増やしたい。

 明日、修学旅行のバスで、俺はまた書くだろう。友だちと他愛ない話を交わしながら、窓の外の高速道路のガードレールを数えながら、少しずつ書く。

 向かいの席の女子が、飴を差し出す。「ミント、いる?」

 口に入れる。強い清涼感が鼻に抜け、目が覚める。

 ノアが隣に座って、窓の外を見ながら言う。「あなたの書く言葉は、誰かの呼吸を一回ぶん助ける。その一回が、次の一回を作る」

「ノアは、影のままで平気?」

「平気。影は、光がなくても形を持てる」

 その返事は、彼女らしかった。


 眠れない夜がきた。

 ベッドに横になり、天井を見上げる。暗がりの中で、蛍光灯の紐がわずかに揺れている。窓の外から、遠くの電車の音。

 目を閉じると、織機の音が戻ってくる。歯のひとつひとつの番号。アルトの横顔。彼の言葉。多数。効率。整合。

 多数は、俺の中では顔を持っている。

 目を開ける。

 冷蔵庫のモーター音。隣の部屋で母が寝返りを打つ気配。

 俺はゆっくり息を吸い、二秒遅れて吐く。

 茉莉の躊躇が胸に空白を作り、蓮が背中を押す。

 眠れないなら、書けばいい。

 ベッドの脇のノートに手を伸ばし、枕の下のペンを引き出す。真っ暗なまま、指の記憶だけで字を書いた。見えない字は、朝に読み返せば、意外と読める。身体は覚えている。

 書きながら、泣いた。声は出ない。涙は静かに耳の後ろまで流れ、枕を湿らせる。

 俺はもう、目ではない。

 目よりも長く残る傷跡として、生きるのだ。


 朝。

 家を出る前に、ノートの最初のページを読み返した。ひどい字だ。けれど、ひどい字のほうが本当のときがある。

 台所に立つ母が、食器を片付ける音を立てる。

「気をつけて行ってきなさい」

「うん」

 玄関の扉を開けると、朝の湿り気が顔に当たる。エレベーターの鏡に映った自分の顔は、少し痩せて見えた。頬骨の下にうっすら影があり、目の下に疲れが残っている。

 だが、目はまっすぐだった。予測の矢印は見えない。だけど、顔は見える。名前が出る。呼吸が合う。


 学校へ向かう途中、小さな神社の脇を通る。石段の苔が濡れていて、鳥居の赤が朝の光で鈍く光る。境内の隅で、小学生くらいの男の子が、手のひらをじっと見つめていた。指先に絆創膏。泣くのをこらえている顔。

「大丈夫か」

 俺が声をかけると、彼はびくっとして、うなずいた。

「こけた。ここ、いたい」

 手のひらを差し出す。俺は右手でそっと包み、包帯を結ぶときの力の配分を思い出す。医療班の女子の指が、俺の指の中で動いた。

「痛い場所に触るときは、ためらいを入れる」

 茉莉の躊躇が、刃の前に空白を作る。俺は一拍置いてから、指を離した。

「ありがと」

「気をつけて。階段の真ん中、空けて歩くといいよ」

 斥候の言葉が、自然に口から出た。男の子は、なぜか嬉しそうに笑った。


 バスの車内。

 席に座ると、隣の男子が眠そうにうなだれ、前の席の女子がスマホで音楽を流している。ドラムの音が薄く漏れ、車体の振動と重なって心臓に響く。

 ノアが通路側に立ち、手すりに指をかけた。

「あなたの帰還は、ひとり。紙に書けば、そうなる。でも、身体に書けば、増える」

「身体に、書く」

「そう。痛みで、書く」

 バスが動き出す。学校が遠ざかり、道路標識が逆向きに流れる。

 俺は窓の外を見ながら、短い文を打った。

 今日、山を見たいという願いを受け取った。

 送信。

 反応が増えていく。

 誰かが「山、いいよな」と書き、誰かが「うちのカーテン洗ってくるわ」と茶化す。

 それで十分だ。軽い言葉は、重いものの隣に置ける。並べば、重さは分かれる。


 車窓の先に、雲の切れ間から薄い光が落ちている。

 俺は胸の座席に手を触れた。

 蓮。

 ありがとう。

 蓮は返事をしない。返事をしないことが、返事だ。

 俺は笑った。

 笑うのは、帰るときまで取っておくつもりだった。

 でも、今は少しだけ許す。

 角の立つ帰還には、笑いも必要だ。角ばったところに、手のひらの温度を置けるように。


 旅行先のホテル。

 夜、部屋の明かりを落とし、カーテンの隙間から見える街の灯りを眺める。テーブルの上には、売店で買った安いメモ帳とボールペン。

 俺はページを開いた。

 黒ガラスはもうない。

 でも、現実の壁には、誰かの顔が一瞬映る。

 怒鳴り声の影。ため息の影。笑いの影。

 その一瞬を、逃さず書く。

 書くたびに、胸の座席が静かにうなずく。

 十の痛みは、十の椅子に座ったまま、動かない。

 動かないから、落ちない。

 落ちないから、運べる。

 運べるから、渡せる。


 アルトの声は、もう届かない。

 けれど、どこかで新しい歯車が回り始める音がする。別の世界で、別の反復が立ち上がる気配。

 もしそうなら、いつか届くだろう。

 届いたら、そのときも書く。

 痛みを、物語に。

 物語を、座席に。

 座席を、光に。

 光を、誰かの呼吸に。


 帰還はひとり。

 その“ひとり”の内部には、百の手があり、百の視線があり、百の躊躇があり、百の決断がある。

 俺の歩幅は、俺ひとりのものじゃない。

 俺の二秒は、みんなで選んだ二秒だ。

 俺の涙は、目じゃなく、傷跡の仕事だ。


 夜更け。

 ページの最後に、小さく書いた。

 ここにいる。

 ここに、いる。

 それだけで、今日は十分だ。

 ノアが窓辺で頷き、影が薄く伸びた。

 俺はペンを置き、明かりを落として、目を閉じた。

 痛みは、消えない。

 消えないものを、抱えて眠る方法を、人は昔から知っている。

 眠れたら、明日も書く。

 眠れなくても、書く。

 どちらにしても、書く。

 観察者は、もう目ではない。

 目よりも長く残る傷跡として、生きる。


 おしまい

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