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召喚百人、帰還はひとり ──勝てば帰れる。負ければ世界ごと消える。  作者: 妙原奇天


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第11話 神殺し――“根”への侵入とオムニビューの代償

 扉の向こうは、空白だった。

 色も音も匂いもなく、床の硬ささえ確かめようがない。あるのは輪郭だけ。見知らぬ家具の影のように、意味だけが枠の形を取って立っている。ここでは石も、空気も、言葉も、まだ「そうだ」と決められていない。決めるのは、織り手の側だ。


「概念倉庫」ノアが言った。「世界が編まれる前に、糸として置かれている場所。紐の端に名前が付く前の、ただの端」


 鍵が震える。胸の内ポケットで鳴る細い振動は、鼓動と混ざり、指先の血を熱くした。ノアが両手で鍵を包み、短く「今」と呟く。次の瞬間、目の奥に冷水が差し込まれたような明るさが走り、そのすぐあとで、視界の端が深い黒で縁取られていく。世界の輪郭はさらに精緻に見えるのに、他人の「次の一歩」は一切読めない。線も、矢印も、予測の矢も消えた。俺のオムニビューは、ここに置いてきた。


 代わりに戻ってきたのは、現実感だった。肺の奥が冷たく痛む。脛の筋肉は早歩きのあとみたいに重く、喉の乾きは砂の味をしている。恐怖の潮が足首から上がってくる。その全部が鮮明だ。鮮明すぎて、足が少し震えた。


 空白に、一本の横線が走る。横線に、縦線が交わる。縦と横が増え、格子はやがて巨大な織機になった。手の届かない高さまで伸びる枠に、何千本もの糸が張られている。縦糸は時間。横糸は人間。別の角度から斜めに渡された緯糸は出来事だ。呼吸のたびに糸は微かに震え、震えのパターンがこの空間の明暗を決めていた。


 白銀の鎧が、織機の正面で立ち止まった。アルトだ。指揮棒のような杖を軽く振ると、糸の一部が明るくなり、別の一部が沈む。明るい方は残され、沈む方は切り落とされて、後ろの棚に巻かれていく。棚には薄い筒がぎっしり詰まっていた。それは見慣れた黒ガラスの壁と同じ材質で、巻かれた「在りよう」を静かに飲み込んでいる。


「ここで私は、整合と帰還の集中を裁く」アルトは言う。「複数の世界のゆがみを直し、勝者の帰還を一点に集め、パッチとして適用する。美しいだろう?」


 確かに、整っている。糸は絡まず、無駄もない。効率の部品として見れば、美しい。だから嫌悪した。この機械は、誰かの痛みを見ないで済むように設計されている。見ないまま、片を付けられるように。


 胸骨の裏に打った熱いフックを意識する。蓮の痕。左肩の内側に、わずかな重み。盾持ちの「肩」がある。足首に靴紐の結び目の感覚。肺は斥候の息の長さを覚えていて、手のひらには医療班の指の温度が戻る。背中の皮膚は「客席」の光で微かにチクチクする。怒りは三段目で止まれと告げ、二秒の遅延が、膝をそっと押さえる。茉莉の「躊躇」が、喉の奥に小さな空白を作る。


「設計を上書きする」俺は前へ出た。自分の足音が、自分の足だけに聞こえる。「帰還の集中を、痛みの共有へ変換する。勝者の身体に、敗者のログ参照権限を刻む。ひとりを救う代わりに、十の痕を持ち帰る。帰還はパッチじゃなく、分配だ」


 アルトは肩をすくめた。「それは呪いだ」


「祝福より誠実だ」


 ノアが、織機の奥へ滑る。黒い服は糸の影に解け、彼女の指だけが白く見える。織機の中央に、複数のスロットが並んでいた。パターン定義。糸の張り具合、切断の閾値、重み付けの係数。ノアが一つを開いた。金属の板でできているのに、開く音がしない。音の概念がここに付与されていないからだ。


「今」ノアが言った。


 鍵を差し込む。金属と金属の接触は、手に冷たさだけを残す。回す。クリック音はしない。それでも、何かが確かに動いた。何かの意味が、別の意味へ置き換わる感触。文の主語が書き換えられ、矢印の向きが逆転し、図の凡例が入れ替わる。その「入れ替わる感じ」が、骨に伝わる。


 視界はかつてないほど狭い。けれど真ん中だけが、異様に鮮やかだ。目の前にある織機の歯の一本一本に小さな番号が貼られているのが見える。アルトが杖を振り上げた。杖の先で、係数の列が光る。「効率」「整合」「回復」。数字は美しい。多くを救う手順の列は、誰よりも彼を安心させるのだろう。


「それでは間に合わない人がいる」俺は言う。「間に合わない人を、残す。残す方法を、パッチの外に作る」


「君は、救われるべき多数を切り捨てる気か」アルトの声は冷たい。「多数を救うことが、正義だ。ひとりのために多数を危険にさらす設計は、正義ではない」


「正義って、便利だよな。『多数』のなかに顔がないから」俺は彼の言論の上を、二秒遅れて踏んだ。「俺は顔を見た。名前で呼んだ。匂いも、手触りも、持っている。忘れない。忘れられない。多数にする前に、人にするのが、俺の正義だ」


 言葉は、殴り合いより音がしないのに重い。選択の交換。意味の取り合い。織機の歯車が軋む。縦糸が一部はじけ、細い糸の屑が光の塵になって漂う。アルトは杖の向きを変え、別の係数を立てる。「適用」。俺は「参照」を上げる。ノアが「閲覧座席」を追加する。紅葉の文字が遠くで点り、茉莉の「半拍」が、織りに遅延を入れる。


 アルトの腕が走る。重みの係数がこちらへ寄る。「犠牲枠:重み付き抽選」の関数が、生まれたときの記録へ深く刺さる。俺はそこに、ゆっくりと楔を押し込んだ。「重みの理由の閲覧」。抽選の速度を落とし、理由を見せる関数。見えてしまえば、いくつかの重みは重さを失う。誰のために付けられていたのかが、あまりに曖昧だからだ。


「意味の乱雑は、君の望みか」アルトが笑う。「世界は読めなくなるぞ」


「読めたから、間違えた。読めることが、君の暴力だった」


 ノアが歯車の陰から顔を出し、短く息を合わせた。「今」


 鍵を引き抜く。空気が少しだけ冷える。代わりに俺は、自分の胸から「印」を外した。観察者の印。ここに来るまでの間に、何度も見て、何度も助けられた印。人の次の一歩の矢印を立てさせてくれた記号。形を持たないのに、確かに重い。指の間で、それは冷たい星の欠片のように震えた。


 織機のスロットに、印を差し込む。皮膚が薄く裂ける感覚。痛みは、泣きたくなるほど生々しい。血は出ない。血の概念がここにはないから。ただ、痛みだけがある。痛みは概念がなくてもある。


 印は、溶けた。糸の流れに混ざり、小さな波を作る。波は係数を撫で、設定の文字を少しだけ傾ける。傾きは、数字で見れば誤差だ。けれど、人間で見れば態度だ。躊躇が挟まる。二秒が入る。怒りが三段目で止まる。肩が一度入る。手の温度がほんの少し残る。客席の光が背中をチクリと刺す。呼吸が長く伸びる。靴紐の結び目が指に触れる。十の痕が、十の座席が、彼方と此方をつなぐ通路になる。


 アルトが一歩退いた。白銀の鎧に微細なひびが入る。笑いは口元だけに残っていて、目の奥に薄い疲労がにじんでいた。


「面白い」アルトは言った。「君は世界を美しくはしないが、面白くはする」


「面白さは、人が息をする余白だ」


「余白は非効率だ」


「効率は、あなたを楽にする。余白は、俺たちを生かす」


 アルトは杖を下ろす。織機の回転が、ほんの少し鈍った。パターン定義のスロットに、新しい行が増える。『分配された帰還:痛みを介した参照』。その下に、細かな注釈。『閲覧座席:井戸 二席』『証人:裁定者・記録官・外部観客』『遅延:半拍(不足時+半拍)』。滑稽なほど人間臭い仕様書だ。神の根に、人間の手書きが挟まった。


「君の代償は?」アルトが問う。


 俺は頷く。視界の端の黒はさらに濃くなり、真ん中の鮮やかさだけが残る。他人の「次の一歩」は、もう読めない。矢印は立たない。たまらないほど心細い。けれど、胸の真ん中で十の座席が息をする。蓮の空白がそこに座り、軽く頷いた気がした。


「俺はもう目じゃない」声に出すと、喉が熱くなった。「だから、ちゃんと泣ける」


 ノアが手を伸ばし、俺の頬に触れた。指は温かい。影の人間の温度は、光を借りなくてもある。目の奥に水が溜まり、熱が重みになってこぼれた。反復ではない。いまの涙だ。涙の概念はある。ここにも、それはある。


 織機の縁が、帰還の光で滲む。床も天井もない空白に、下り坂の感覚だけが生まれる。戻る道だ。戻る先は一つではない。戻り方も一つではない。戻る意味は、いくつもに分かれる。


 アルトが最後の問いを投げる。「観察者。君の設計は、誰のためだ」


 俺は鍵を見た。鍵は砂になって、指の間から零れた。薄い砂は足許へ落ち、床の概念に溶けていく。鍵は役目を終えた。上書きは一度きりだ。印は織機に溶けた。目はここに置いていく。残るのは、痛みと、十の座席だ。


「俺のためだよ」答える。「俺が帰るため。俺の『帰る』の中に、みんなの痕を座らせるため。それが、俺のわがまま」


 アルトは、面白そうに笑った。「わがままは、神より強いときがある。覚えておく」


 光が強くなり、音が薄くなった。ノアが並ぶ。彼女の手はもう冷たくない。汗ばんで、呼吸と同じ速度で温度が揺れる。


「戻ったあとも、私は影で隣に立つ」ノアが言う。「あなたが見えなくなったものを、別の角度から見せる。あなたが声を失いそうなとき、代わりに言う」


「頼む」


 空白の縁に、階段の感覚が戻る。最初の段差に足を置く。膝に、十の痛みが均等に走る。心臓が二秒を刻む。茉莉の「半拍」が胸に空白を作り、紅葉の「客席」が背を刺す。左肩は前に出る癖を守り、靴紐は固く、息は長い。怒りは、三段目で止まる。


「帰還の集中を解除」織機が囁く。声ではなく、仕様の更新として伝わる。「分配された帰還:適用準備」


 アルトは杖を肩に乗せ、肩をすくめた。「君は世界を壊さない。壊れにくくする。退屈だが、有効だ」


「退屈は、平和の幼名だ」


「うまいことを言う」アルトは鼻で笑い、背を向けた。「では、幕間の終わりだ。次は、君の現実で続きを」


 空白の奥から、かすかに風の匂いがする。薬草、金属、ワックス、ビニール、山の湿り、洗いたてのカーテン。それぞれの現実の端の匂いだ。鼻の奥が痛い。痛みは現実へ繋がる糸だ。糸を手繰る。


 足許が、確かに傾いた。俺は落ちるのではない。降りるのでもない。戻る。戻りながら、胸の座席へそっと触れる。空白は椅子だ。椅子には「在りよう」が座っている。


 涙は乾かない。乾かす時間は、向こう側で取る。いまはこのままでいい。涙ごと運ぶ。俺の帰還は、きれいに丸く収まらない。角が立つ。角は人を傷つけるかもしれない。そのときは、痛みを分けるためにここに戻ってくる。戻れるように、座席は空けてある。


 光が、足先から上へと登ってくる。視界の端の黒は残る。真ん中だけが鮮やかだ。鮮やかな真ん中に、階段の先の扉が見えた。扉の向こうで、誰かが息を合わせて待っている。半拍。二秒。客席。躊躇。全部が揃っている。


「帰る」小さく言う。自分に言い聞かせ、誰にでも聞こえるように。


 根は、俺たちを吐き出す。神の喉奥から、現実の空気へ。


 最初に戻ったのは、音だった。離れた場所で鳴らされる鐘の余韻。次に戻ったのは、匂い。石の湿り。薬草。最後に戻ったのは、痛み。十の痛みが胸の中心で静かに座り、同じ方向を向く。痛みは叫ばない。座っているだけだ。それで十分だ。


 俺は目を開けた。予測の矢印は一本も見えない。けれど、顔は見える。名前が出る。呼吸が合う。涙は止まらない。それでも、前に出られる。前に出るのに、予測は要らない。必要なのは、座っている人たちの重みだ。


 帰還は、足元から始まる。靴底が石を押し、石が靴底を押し返す。その押し返しの感触が、俺がここにいる証拠だ。確かめるように、もう一歩。茉莉の「半拍」が胸で鳴り、紅葉の「客席」が背を刺す。ノアの影が肩に触れ、蓮の空白がうなずく。


「行こう」俺は言った。「分配を、始める」

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