第五話 戯れに触れる
すっかり日も暮れ、森の中は闇に覆われている。
見つけた森の中の小屋には、人が一人眠れるスペースと布団がかろうじてあった。おそらくたまに木の実を取りにか、獣を狩りに来る住人が使っているらしい。
その小屋の中、布団の上に座ったファウストのあらわになった背中をなぞって、クリスは笑みを浮かべる。
「本当にらしくないですよねえ。
こんな怪我までして」
「うるせえ。黙ってろ」
「まあ、私もミスしちゃいましたから他人のことあまり言えませんけど」
そう言って、包帯を巻いた背中にちゅ、と口づけた。
「おい、なにしてやがる」
「いえ、私のせいで怪我をさせてしまいましたので、お詫びにと」
「ふざけんな。それがなんの詫びに」
思わず振り返ったファウストは、伸び上がったクリスが自分の唇を塞いだので呼吸を止めた。
確かに重なった、柔らかいキス。
「特別ですよ。毒なんて使ってません」
見下ろす先で妖しく微笑む、絶世の美貌の女は囁く。
その肩の傷も手当てされているが、上着は血で汚れたままだ。
「慰めてあげますよ」
「はっ」
そう嘯いたクリスに、つい笑っていた。
自分はそんなに惨めかと。
その無事なほうの肩を掴んで布団の上に押し倒すとのしかかった。
「そんな趣味でもあったのかよ。クソ女」
「そういうんじゃないですけど」
白い布団の上に散らばった長い黒髪が扇情的だ。
突いた腕に手を絡めて、クリスは恐怖など欠片もないように答える。
「強いて言うなら、経験してみたい、ですかね?」
「は?」
「女の身体の仕組みを、私もあまりよく知らないので。
それを体験してみたい、でしょうか。
フォスは、今まで出会った男性の中では一番マシですし」
その答えは、少なくともファウストにとっては最低中の最低だった。
身をかがめて、その桜色の唇にキスをする。そのまま唇を噛んだらクリスが痛みに声をあげた。
「はっ、馬鹿にすんな。
そんな、抱かれるのをなにかの実験みたいに思ってる女、抱いてなにが楽しい」
そう吐き捨てて、身を起こす。そのまま背を向けたファウストを眺めて、クリスは起き上がると顔にかかった自身の黒髪を手で払った。
「なんだ、しないんですか?」
「興が冷めた」
「そうですか」
ファウストの返事になにも感じていなさそうなトーンで答えると、クリスは立ち上がって小屋の外に向かう。
「おい、どこに行く」
「外に井戸があったでしょう。お水、汲んで来ます」
なんでもなさそうに言って外に出たクリスをぼんやり見送って、ファウストは舌打ちした。
「失敗しましたねえ。
馬鹿にしたつもりはないんですが」
そう、小屋の外の井戸の前で呟く。
本当に馬鹿にしたつもりはなかった。抱かれてもよかった。
ただそこに特別な感情があったかと言われたら、全くない。
きっとあのまま抱かれても、なにも感じない。感じられない。
「心が凍ってる、か。
まあ、確かにそうなんでしょう」
兄の言葉を思い出し、ため息を吐いた時だ。
不意に響いた足音に視線を向けると、こちらに歩いてくる数人の男の姿がある。
目が正気ではない。バルデア教の信者だ。
「しつこいですね」
クリスはやや面倒そうに吐いて、「しまった鞭は小屋の中だ」と思い出す。
「フォスのほうに行かれると、ちょっと困るんですよ。
彼、久しぶりに見つけた面白いオモチャなので」
迫ってきた男の手を払おうとして、撃たれた腕が痛んで一瞬動きが止まる。それが隙だった。
そのまま首を絞められ、呼吸がうまく出来なくなる。
「ほん、とに、らしくない、ミス」
擦れた声を漏らしたクリスの身体がつり上げられる。その両手がだらんと、垂れ下がった。
「………遅ぇな」
小屋の中でふと呟いて、それから苛立って立ち上がる。
小屋の外に出て、その姿を探した。
「おい、クソ女………」
井戸の前にもどこにも、その姿は見当たらない。
井戸の周辺に草を踏み荒らした靴跡があった。
「クソ、あいつ…!」
一瞬でなにが起こったかを理解し、ファウストは舌打ちする。
「どこに行きやがった。
ふざけんな」
信者が来ていた? 気づかなかった。そうだ。あの信者たちには気配がない。
「勝手に死ぬんじゃねえぞ」
低く呟いたのは、祈りの形には異なっていた。
その頃、ある森の奥深くの屋敷、地下の祭壇の上に拘束されたクリスを見つめ、恍惚として呟いたのはセドリックだ。
「ああ、連れてきてくれましたか。
麗しの我が女神よ」
彼こそがバルデア教の教祖だった。