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第十九話 こころ・前編

 次の街へ向かう道の途中、空はよく晴れていて、道行く人々の表情も明るい。

 並んで歩いていたファウストがふとクリスのほうを見て、目を瞬いた。

「おい、クリス」

「なんですか」

「虫が」

「ひゃっ」

 不意に首に伸ばされた手に、その感触にひっくり返った声を上げてしまったクリスに、ファウストは目を丸くした後に吹き出した。

「ぶっ、な、なんだよ、その声。

 お前、虫苦手だったんだな」

「ち、違います。今のはフォスが急に触るから」

「………へえ?」

 焦るあまり言わなくていいことを口にしてしまい、ファウストがにやりと笑う。

「いいこと聞いたな、そりゃ」

「あの、フォス。顔が凶悪なんですが」

「そういうこと考えてるからな」

「聞かなくてよかったことみたいですね」

「そう言うな」

 にやにやと楽しそうに笑ったファウストがぐいとクリスの細い体躯を抱き寄せた。

「うわっ」

「ははっ、本当にびっくりしてら。

 心臓の音、うるせえの」

「な、なんでそんなに楽しそうなんですか」

「わからねえか?」

「わかりません…」

「お前って、人間初心者みたいな奴なんだな」

 しみじみと呟いたファウストを余所に、クリスはとにかく抱き寄せる腕を離して欲しい。

 心臓の音がうるさいし、身体が妙に熱い。

「なんですかそれ」

「まあ俺も他人のことは言えないが」

「仕方ないでしょう。

 失いたくないと思った人なんて、あなたが初めてなんですから」

「そうか。ふうん」

 正直に口にして、それから余計に言わなくていいことを言ったかも、と思った。

 ファウストがとてもいい笑顔だ。

「なんです、そのにやにやとした顔は」

「そんなの、決まってんだろ」

 言うなりファウストの腕によって抱き上げられて、またひっくり返った声が上がった。

「な、なにするんですか!」

「そろそろ疲れただろうと思ってな」

「そんな柔じゃありません!」

「いいから、大人しく抱っこされとけ」

 そう言うファウストはすごく楽しそうだ。

 なんか、狡い。自分ばかり、動揺して。


(フォスはすごく楽しそうなのに)




 これでは心臓が保たない。

 そう思ったクリスは宿屋につくとある提案をすることにした。

「あの、ですね、フォス」

「なんだよ」

「部屋、別にしませんか?」

「なんで?」

「なんでって、いや、ほら、…男女じゃないですか?」

「今更かよ」

「今更なんですけども」

 確かに今更だし、そもそも最初に同室にしたのはクリスだ。

 そのことを恨みたくなる。自分自身だけど。

「駄目」

「なんでですか」

「いつお前を狙った刺客が来るかわかんねえだろ」

「それは、そうなんですが、ほら、私は強いですし」

「でも俺のいないとこで死にかけない保証はねえ」

 長い、たくましい腕がぐい、と肩を抱く。

「もう、あんな想いはさせんな」

 ひどく真剣な声を聞いたら、反論なんて出来なくなってしまった。




 宿屋の大浴場は広い。その湯船に浸かって、クリスははあ、と息を吐いた。

 最近のファウストは変だ。

 いや、変なのは自分もだ。

 だって、今まで知らなかった。

 失って困る人なんて、いなかったのに。

 だから感情を持て余している。

 どうしたらいいのか、わからないんだ。

「あら、あなた」

「はい?」

 不意に同じ湯船に浸かっていた妙齢の婦人に話しかけられて首をかしげる。

「あの銀髪の男の人は彼氏?」

「ち、」

「ち?」

「違いますが」

 一瞬息が止まりそうになった。

 答えてから自問自答する。

 いや、違う。違うはずだ。地獄まで一緒に行く約束はしたけれど。

 ファウストは自分を大事だと言ったけれど。

 それは、恋愛とは違うはずだ。

 そういえばヴァイオラ公爵家にいた頃、よく縁談を持ち込まれたな。

 なんせ次男だ。おまけに容姿は良かった。だから貴族の令嬢たちにはモテた。

 でも、誰かに心惹かれたことはなかった。


(だから、誰かを大事に思ったのは、フォスが初めて)


 でもこれは、きっと、多分、恋愛じゃない。

「そう、それでもちゃんと捕まえておいたほうがいいわよ。

 あんな素敵な人、目を離したらすぐどこかの誰かに盗られちゃう」

「フォスが…?」

「そうよ」

 その言葉に、心臓が嫌な音を立てた。




 風呂から上がって、宿屋の廊下を歩く。

 ファウストはああ言ったから、誰かのところに行くとは思わない。

 ファウストはきっと、自分に嘘は吐かないから。

 そう考えながらふと、足を止めた。

 宿屋の談話室、そのソファにファウストが腰掛けている。その周囲に、若い女性たちが集まっていた。

 それぞれ楽しそうに話して、ファウストをナンパしている。

 それを見て胸にこみ上げる燻るような濁った感情に戸惑っていたら、ファウストがこちらに気づいて立ち上がった。

「悪い。連れが来た」

「えー、恋人?」

「もっと重たいもん」

 女性たちにさらりと答えて、ファウストはこちらに歩いてくる。

「クリス。部屋戻るぞ」

 そのまま一緒に並んで廊下を歩き出した。

「談話室で待っていなくてもいいのに」

「俺が心配だから待ってたんだよ。

 あの亜麻色の髪の男、お前の兄貴なんだろ?」

「…え、あ、はい」

「神出鬼没みてえだから、目を離すのが怖い」

 そう話すファウストの頭の中は自分のことで一杯みたいで。

 ほっとした。ファウストは、自分しか見ていない。

 そう思い知れた気がして。

 胸がすっとした気がした。


(フォスは、私しか見てないんですよ)


 そう、一瞬でもあのファウストを囲んでいた女子たちに向けて思ってしまって、気づいた瞬間に動揺した。

 こんな感情、知らない。

「なんでそんな顔してんだよ」

「そんな顔って、どんな顔ですか」

「迷子みたいな面」

 困ったように笑ったファウストが、クリスの片手を取ってその指先に口づけた。

「そんな顔すんな。…どうにかしたくなる」

 どうにかって、どうするんですか。

 そう聞けたらいいのに、いつも饒舌な声がこんな時に限って、喉につっかえた。


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