第十話 誰にもわからない
その翌朝だ。朝食を終えて隣の部屋の前に行くと、一瞬迷って扉を開ける。
「…クリス」
昨日のことが胸を縫い止めていたのに、その当人の姿はない。
「喧嘩、したんですか?」
不意に尋ねてきたのはベッドの上に座っていたアリシアだ。
「昨日、わたしがお風呂から帰ってきてから様子が変だから」
「あの馬鹿のせいだ」
そう吐き捨てる。昨日から胸が妙に痛むなんて、気のせいだ。
「あの、ファウストさんはクリスさんの恋人ですか?」
「っば…!」
思わず息を呑んだ。大声が口を吐く。
「そんなわけあるか!」
「いいな」
「は?」
憧れるようなまなざしで言われて目を瞠る。
「恋人じゃなくても、信頼しあっていて、一緒にいられて。
わたしにもそんな人がいればいいのに」
「信頼…?」
擦れた声が漏れた。
信頼? そんなものが、自分とあいつの間にある?
そう見えるのか?
「わたし、そういうのに憧れてるんです。
本の物語のような、ラブロマンス。
クリスさんとファウストさんを見た時に、ぴったりの二人だって」
アリシアは夢を見るような表情で微笑んで、
「大事にしてくださいね」
と言った。
「大事に………」
大事に? クリスを? どうやって?
自分は、誰かを大事にしたことなんか一度もない。
大事にする方法すら、わからないのに。
クリスがファウストが泊まっている部屋に顔を出したのはその数時間後だった。
「フォス」
「てめえ、どこ行ってた」
「アリシアさんの家に行ってました。
『早く見つけないと領主様からの持参金が』ってそればっかりで」
「は、娘を売る気か」
「そんなものですよ」
クリスは大した興味もなさそうに、ファウストが寝転がっている寝台の縁に腰を下ろす。
「ひどい親なんて世の中に一杯いるのにね。
親が嫌いな子は悪い子なんです」
「…俺も、悪い子か」
「いいえ」
迷わず、なんの気負いもなく否定したクリスの細く小さな手が、ファウストの頭を撫でた。
「フォスは良い子ですよ。
頑張ってる良い子です」
「………ガキ扱いすんな」
不意打ちすぎて、泣きそうになった。そんな風に、頭を撫でられたことすらなくて。
『大事にしてくださいね』
「…お前も」
「私は悪い子ですよ?」
「なに言ってやがる。人でなし仲間だろ」
「そんなこと言いましたっけ」
「言った」
そっと伸ばした手で、その後ろ頭を抱く。
「忘れんなよ」
彼女の頭を軽く抱き寄せて、繰り返す。
「忘れんな」
そう言って、手を離すと寝台から下りた。
「行くぞ。もう時間がねえだろ」
「…はい」
クリスは少しだけ間を置いて、いつもの笑みを浮かべた。
「宿屋の主人から話が行っているはずです。
急ぎましょう」
あの宿屋を経営する夫婦は、同じ街に暮らすアリシアの両親の顔見知りのはずだ。
泊まる時、アリシアには顔を隠させたがもう気づいてアリシアの両親に教えていてもおかしくない。
三人が宿屋を出てすぐ、道で呼び止められた。
「アリシア!」
その声は、あのアリシアの父親のものだった。
振り返ると、必死な顔をしたアリシアの両親の姿がある。
それでもその必死さは、娘を案じる親のものではないのだ。
「どこに行くのアリシア!
あなたは領主様の妾に…!」
「そんなの嫌! お父さんとお母さんなんて大嫌い!」
「なんてこと言うの! せっかく育ててやった恩を忘れてひどい子!」
悲痛な声でアリシアを詰った母親に、アリシアの顔が歪む。
その身体を庇うように立って、ファウストがその鋭い眼光で両親を射すくめた。
「うるせえ。
自分の思い通りにならねえ子どもは愛せない親なんざ、親じゃねえよ」
「…っな」
「クリス」
「はい」
ファウストの低く地を這うような声に両親が息を呑み、反論を探して黙った間にファウストはクリスに指示を出す。
瞬間、両親は全身のしびれを感じてその場に座り込んだ。
「さあ、行きますよ」
クリスがアリシアに手を差し出す。
その手を取って、アリシアは瞳を潤ませた。
あの街を出て、しばらく街道を歩いてきた三人は途中で足を止める。
「ここまで来れば安心でしょう」
「はい」
自身に向き直ったクリスに、アリシアは笑顔で頷く。
「これ、少ないですが路銀と、着替えです」
クリスが手渡したのは路銀の入った小袋と、衣服の入ったリュックだ。
アリシアは着の身着のままで出て来た。困るだろうと予想していたのだ。
「あ、ありがとうございます…! 本当になにからなにまで…」
「構いませんから、気をつけて」
「はい! お二人も、ずっと一緒にいてくださいね!」
クリスから受け取ったリュックと小袋を抱きしめて、アリシアはとても嬉しそうに微笑むと頷いた。
そのまま歩いて行ったアリシアを見送ってから、ファウストがクリスに視線を向ける。
「いいのか?」
「なにがです?」
「小娘の一人旅なんざ、危険だらけだ」
「ああ、そうですね。魔物もいますし、強盗も。
でもそこまで面倒見られませんよ。慈善事業じゃないんですから」
戦う術のない若い娘の一人旅など、どんな危険があるかわからない。
もしかしたら領主の妾になったほうがマシな目に遭うかもしれない。それでも、
「それでも、彼女にとってはそんな危険な外より、家の中と家族がなにより恐ろしかったんです。それなら、外に出たほうがきっと幸せなんですよ」
「…そうだな」
クリスの言葉は、ファウストにはなにひとつ否定出来なかった。
「でも、彼女、なにか誤解してますねえ。
ずっと一緒になんて」
「さあな。………おい、クソ女」
「おや、久しぶりのその呼び名」
「あのとき、本当は眠ってたんだろ」
向き直ったファウストの言葉は断定だった。それに目を瞠って、それからクリスは微笑む。
「…はい。しっかり寝てました」
「なんで起きてたなんて嘘吐いた」
「そのほうがフォスにとって都合が良いと思ったんですよ。
連れを試すような奴が相手なら、殺そうとしたって悪くないって」
「変な気、回してんな」
「そ、」
そんなことは、と言う前に伸びてきた大きな手がクリスの頬に触れる。
「叩いて悪かった。…痛むか?」
その言葉にも表情にも、不器用ながらに気遣う色がにじんでいた。
それを見てクリスは笑顔で、
「いいえ、全然」
と答える。
「そうか」
「じゃあ私たちも行きましょうか」
「ああ」
胸を叩いた鼓動。その理由は、まだ、誰にもわからないままで。