19話 遠征へ
夜明け前の王国学園は、いつもと違う静けさに包まれていた。
だがその静寂は、すぐに生徒たちの興奮した声と、馬車の車輪が石畳をこする音によって破られる。
空はうっすらと白み始めており、早朝特有の肌寒さが空気を震わせる中、生徒たちは訓練用の軽装と荷物を手にぞくぞくと集合していた。
校庭には、遠征訓練に向けて並べられた10台以上の馬車。
王国の紋章が刻まれたそれは、ただの移動手段というよりも、王族や貴族が使うような上等な造りで、その光景に多くの生徒が目を輝かせていた。
「さっっむぅぅ……」
レンが自分の上着の襟元を引っ張りながら、ガタガタと震える。
「言っただろ? 夜明け前は冷えるって」
ソウマが落ち着いた様子で肩に荷物を掛けると、ちらりと空を見上げた。
東の空がやや赤みを帯びていて、夜が明ける寸前だと教えてくれる。
「でもワクワクするよね、遠征って! なんか冒険って感じがしてさ!」
アカネは元気いっぱいにリュックを背負い、隣のアリサに笑いかける。
「ええ、確かに。でも遠足とは違うからね。任務も訓練も、しっかりこなさなきゃ」
アリサはやや引き締まった表情で頷き返した。
「わたしは〜、夜の野営が楽しみ〜」
と、のんきな声を上げたのはアイだった。
ルシアンの腕にしれっと寄りかかっていた。
「……来てるな、王国騎士団と魔法団」
「うん……あの白銀の鎧、間違いない」
ソウマが頷きつつ、小声で補足する。
そのときだった。
「静粛に!」
教師リリィの高らかな声が、朝靄の中に響き渡る。
生徒たちが一斉に注目すると、彼女の後方から二人の人物が前へと進み出てきた。
一人は、巨大な白銀の甲冑を身にまとい、まるで岩のような威圧感を放つ長身の男。
その背には巨大な剣が背負われ、見るからに近寄り難い雰囲気を纏っている。
「《王国騎士団団長・ラインハルト・リース》です」
「なんかアカネのお兄さん前見た時と雰囲気違うくない?ちょっと怖いというか…」
アイが申し訳なさそうに言う。
「あれカッコつけてるだけよ!王国騎士団団長が舐められる訳にはいかない!って」
アカネが楽しそうにそう返事をする。
続いて現れたのは、漆黒の魔導ローブを身にまとった美しい女性。
腰まで流れる銀髪と切れ長の瞳が印象的で、その一歩一歩からただならぬ力を感じさせた。
「《王国魔法団団長・レティシア・クローゼ》。この訓練にて、魔法戦の監督と指導を担当します」
生徒たちの中には、彼女の姿に見惚れる者もいた。
一部の魔法系の生徒たちは小声で「あれが……」と興奮気味に噂している。
「そして、魔法省の代表団は既に訓練地に到着しており、準備を整えています」
リリィの補足に、ソウマが静かに目を細めた。
(やけに手際が良すぎる……)
「では、各班ごとに配属された馬車に乗り、順次出発してください。班分けと馬車の番号は各自確認を」
その合図と共に、生徒たちはぞろぞろと動き出した。
ルシアンたちの班は――ルシアン、レン、ソウマ、アリサ、アカネ、アイの6人。
彼らが向かったのは、馬車列の中でも中央付近にある、漆黒に彩られた上等な馬車だった。
「こりゃまた……高そうだな」
レンがぽつりと呟く。
「魔法防御結界が張られてるみたい……かなり本気ね」
アリサが扉に触れ、周囲の魔力の流れを読み取っていた。
「さ、乗り込もう。もうじき出発だ」
ルシアンの一声で、6人は馬車へと乗り込んでいく。
馬車は静かに走り出した。革張りの座席に魔法結界が張られた車内は、まるで貴族の移動室のような気品をまとっている。
座席は三人ずつ向かい合う形で、男子側にルシアン、レン、ソウマ。女子側にアリサ、アカネ、アイが座っていた。6人の班は学園内でも群を抜いて目立つ存在だが、今だけはその騒がしさも一息ついていた。
「思ったより静かだね、みんな」
アカネが笑いながら口を開く。
「そりゃ、いつもと違う空気だからな」
レンが外を見ながら答える。窓の外には、まだ朝焼けの残る王都の街並みが広がっていた。
「この遠征、ただの訓練じゃない」
ソウマが低い声で言うと、空気が少しだけ引き締まった。
「リースさんやレティシアさんが同行してる時点で、普通じゃないよね」
アリサの表情も真剣だった。
「……何かがある」
ルシアンが静かに呟くと、一同がわずかに息をのんだ。
「え、なに? また陰謀的なやつ? やだなぁ、怖いの苦手なんだけど」
アイがふざけるように言うが、その声もどこか張りつめていた。
「とはいえ、俺たちが何かできるかどうかは分からない。けど……来るなら受けて立つだけだ」
ルシアンの瞳が真っ直ぐに前を見据える。
そのときだった。コンコンと、馬車の扉が二度、静かにノックされた。
「失礼する」
扉を開けて現れたのは、王国騎士団団長・ラインハルト・リースと、王国魔法団団長・レティシア・クローゼの二人だった。
「君たちが例の六人か」
ラインハルトが馬車に一歩足を踏み入れると、空気が一瞬で変わる。威厳ある口調だが、どこか柔らかさを感じさせるのは、アカネの兄という立場ゆえだろう。
「お兄ちゃん……相変わらずその鎧、重そう」
アカネが苦笑すると、ラインハルトもわずかに目を細めた。
「訓練中は団長として振る舞うが、妹としてはちゃんと見ている。無茶はするなよ」
「うん!」
その様子を見ていたレティシアが、ふっと笑った。
「ふふ……やっぱり、血のつながりっていいものね。あなた、普段はもっと無骨だと思ってたわ」
「……見せ方も含めて、団長の仕事だからな」
ラインハルトが少し照れたように顔をそらしたのに、レンが小さく吹き出す。
「さて――」
レティシアが一歩前に出た。
「本題に入るわ。この遠征訓練には、正式な“もう一つの目的”があるの。魔力因子の異常反応……そして、それに関係していると思われる“何らかの組織”の調査」
「やっぱり……組織、ですか」
ソウマがすぐに反応する。
「ええ。詳しいことは私たちにもまだ情報が下りてきていないけれど、魔法省は既に現地に調査部隊を展開している。私たちはその護衛と監視も兼ねているの」
「僕たちに何かすべきことはありますか?」
ルシアンの問いに、ラインハルトが目を細めて答える。
「“今は”ない。ただ――力を持つ者として、この事態に敏感であってくれ。自分の目と耳で、何を感じるか。それが重要だ」
「危険な状況に遭遇する可能性もある。そのときは、臆するな。そして自分と仲間を守れ」
レティシアが続ける。
二人の言葉は、騎士と魔導士としての信念そのものだった。
「……了解です」
ルシアンが答えると、ラインハルトとレティシアは静かに頷き、馬車を後にした。
扉が閉まり、再び静寂が戻る。
「まじでやばいことに巻き込まれてんじゃないか、俺ら……」
レンがぽつりと漏らした言葉に、誰も否定できなかった。
「それでも……やるしかない」
ルシアンの声に、全員が頷いた。
ーー
長い道のりを進んだ馬車が、ゆるやかに速度を落とし始めたのは、昼を過ぎて陽が傾き始めた頃だった。
「もうすぐ、だな」
車窓から見える風景が次第に森から岩肌の斜面へと変わり始め、ソウマが静かに呟いた。
「遠征地って山なんだよね? 空気がちょっと……薄い気がする」
アイが少し不安げに顔を曇らせる。
「標高はそんなに高くないけど、魔力の流れは確かに複雑になってるわね」
アリサが目を閉じて集中しながら答える。
外の景色は岩と木々が混じり合う、荒れた山岳地帯だった。
場所は《シュタイン山域・西側訓練地》──魔物の出現頻度は低いが、地形の複雑さと魔力の揺らぎにより、模擬戦や実地訓練には最適とされている地域。
ほどなくして、馬車は広く開けた平地に到着した。
そこにはすでに何台もの馬車が並び、生徒たちや騎士団員たちが忙しなく動いていた。
中央には設営されたばかりのテント群と、魔法陣が刻まれた大きな指令用ステージがあり、そこに数人のローブ姿の人物たちが立っているのが見えた。
「お、あれ」
アカネが指を差した先に、一際存在感を放つ人物がいた。
それは、黒と紫の入り混じった上質なローブを纏い、首元には金の紋章。
長身で、整った顔立ちをした初老の男性。
だが何より目を引いたのは、その目の奥に潜む“威圧”だった。まるで魔力そのものが意志を持って睨んでくるような圧。
「あれが……魔法省の長官……」
アリサが無意識に息を呑む。
「名前は……確か、《シグル=マイヤー》」
ソウマが記憶を辿るように呟く。
「魔法省の中枢にして、元候補。いまだに現役で魔法を研究してるらしい」
ルシアンが静かに続けた。
「こわっ……なんか、言葉とか通じなさそうなタイプだよね」
アイがぽつりとつぶやくと、緊張していた空気が少しだけ和らいだ。
馬車を降りた一行は、他の生徒たちと合流し、整列するように指示を受ける。
その瞬間、魔法省の長官・シグル=マイヤーが壇上に立ち、静かに口を開いた。
「よく来たな、諸君。……この地において、遠征訓練と呼ばれる名目の下、君たちは己の限界と向き合うことになるだろう」
低く落ち着いた声だが、不思議と胸に響くものがあった。
「我々魔法省は、すでにこの地域で発生している“異常”の観測を開始している。詳細は語らん。だが、警戒を怠るな」
その一言で、生徒たちの顔からは浮ついた表情が消えていった。
「それでは、第一日目はこの場にて“各班単位での野営”を行ってもらう。明日からは我々および騎士団、魔法団の指導を含めた訓練を開始する」
淡々と告げると、シグルは踵を返して魔法省の本部テントへと消えていった。
「あの人、全然こっち見てなかった気がする」
レンが小声で言う。
「見てなくても、多分全部“見えてる”タイプなんだと思う」
ルシアンが、僅かに眉をひそめながら答えた。
「じゃあ、さっそくテント張っていきますか!」
アカネの明るい声が、沈んだ空気を振り払うように響く。
ルシアンたちは森の縁の少し開けたスペースに場所を取り、訓練用の簡易テントを設営し始めた。
魔導具を使えば、設営自体はそこまで時間はかからない。
「よし、完成。あとは交代で見張り立てながら、順番に休もう」
ソウマの指示に従い、班は最低限の野営体制を整えた。
空はすっかり暮れ、焚き火の明かりが揺れている。
夜の山の空気は鋭く冷たく、どこか張りつめたような静けさを運んできた。
そのとき――
ルシアンは、どこか視線を感じて顔を上げた。
暗がりの中、誰かがこちらを見ていた。
すらりとしたシルエット。漆黒のローブ。
そして……長い銀髪が、月光に照らされて揺れていた。
「……少し、いいかしら?」
静かに歩み寄ってきたのは、王国魔法団団長・レティシア・クローゼだった。
(レティシアさん……俺に?)
そう思う間もなく、彼女は焚き火の近くで見張りをしていたルシアンの前に立ち、意味ありげに微笑んだ。
「少し、付き合ってもらえるかしら。話があるの」
焚き火の明かりが、揺れる影をルシアンの頬に落としていた。
その向かいに立つレティシアの銀髪が、月光と火光を交えてきらめいている。
「……こっちでいいかしら」
レティシアは周囲に他の生徒がいないのを確認すると、静かに腰を下ろす。
重そうな魔導ローブが地面に広がり、焚き火の炎がその刺繍を照らした。
「……どうして俺に?」
ルシアンは、少し警戒しながらも率直に尋ねた。
「ふふ。単刀直入ね。いいわ、そういう子の方が話しやすい」
レティシアは火を見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。
「……今日の馬車でのやり取り、見ていて思ったの。あなたは“見る目”がある。目の奥で物事の本質を見ようとしている。その感覚は、術士としてとても大切なことよ」
「……そんなふうに言われると、少しこそばゆいですね」
「謙遜はいいけど、過剰な自己否定は不要よ。あなたは──“独創”を使ってるわね?」
ルシアンは、その言葉に一瞬だけ目を細めた。
隠していたつもりはない。だが、それを察する者は極めて稀だ。
「……はい。まだ未完成なものも多いですけど」
「いいわね、それでいいの。完成された“独創”など、この世界にそう多くはない。私もまだ自分の独創を育てている途中。あの《マーリン》でさえ、進化の途中なのよ」
「……マーリンのこと、詳しいんですね」
レティシアは少し笑うと、焚き火に小さく魔力を注いだ。
炎がゆらりと形を変え、夜空の下に虹色の魔法陣がふわりと浮かび上がった。
「知ってるも何も、私の“憧れ”よ。あの人がいたから、私も魔法を極めようと思った。……でも、憧れは越えなきゃ意味がないわ。だから、私は目指してる。“セブンスター”を」
言葉には迷いがなかった。
ただの名誉欲ではない、強く確かな意思。それが言葉に乗って伝わってくる。
「ルシアン、あなたはどう? セブンスターになりたいと思う?」
「……まだ、そこまでは考えていません。ただ──目の前のことに全力で挑む。それだけです」
「……なるほど、らしいわね。だけど、それでいいのよ。高みを目指す者は、まず足元を固めるもの。浮かれた理想ばかり口にする奴より、ずっと好感が持てる」
レティシアは立ち上がり、夜風に銀髪をなびかせた。
「ルシアン。最終日の訓練が終わった後、あなたと“一戦”交えたい」
「……僕と?」
「あら、嫌だったかしら?」
「いえ……光栄です。僕でいいなら、全力でお相手します」
その言葉に、レティシアは珍しく満足げに頷いた。
「いい返事。久々に楽しめそうね。私の“独創”が、どこまで通じるか……それを試せるのが嬉しいのよ」
彼女の瞳に宿るのは、研ぎ澄まされた戦士のそれだった。
けれど、その奥にはどこか師のような、あるいは先を走る者としての慈愛もあった。
「じゃあ、期待してるわ。──“マーリンの弟子”」
ルシアンの肩越しに笑いを残し、レティシアは静かに闇の中へと消えていった。
残された焚き火の明かりが、ルシアンの目元を優しく照らす。
(……強い。けど、あの人も“今を戦ってる”んだ)
ルシアンは立ち上がり、夜空を仰いだ。
頭上には満天の星。その一つひとつが、誰かの「到達点」のようにも思えた。
「──負けられないな」
彼は、決意と共に焚き火を見つめた。
遠征の夜は、まだ始まったばかりだった。