しょんぼり少女と奔放少年
その少女は、非常に優秀だ。
成績は常にトップクラス。
所属している剣道部では、全国大会で優勝を経験している。
幼い頃から習っている書道でも、大きな賞を受賞したことがあり、家事全般も得意。
誰とでも分け隔てなく接することが出来る素晴らしい人格の持ち主で、家族関係も良好の一言。
容姿も優れており、彼女が通う高校では誰もが知る有名人。
欠点らしい欠点は見当たらず、まさに才色兼備を体現したかのよう。
しかし、彼女には悩みがあった。
それは――
「お早う、侑希!」
「あ……お早うございます、美琴さん。 今日も良い天気ですね」
いつも通りの時間に通学路を歩んでいた少女こと侑希は、背後から元気な声を掛けられて思考の海から浮上する。
振り返った先に立っていたのは、底抜けに明るい笑みを浮かべた彼女の友人、美琴だった。
2人は高校からの付き合いで、正確も全くと言って良いほど違うが、何故だか波長が合って親友と呼べる間柄にまで至っている。
自分に向かって淑やかな笑みを見せる侑希には、感極まった美琴は何やら興奮した様子で喚き出した。
「あー、もう! 今日も可愛いわね! お姉さん、ギューッてしてあげちゃう!」
「や、やめて下さい。 同い年じゃないですか」
「むぅ、相変わらず真面目ねぇ。 それに、本当に同い年だと思ってるなら、敬語なんて使わなくて良いのに」
「それは、その……。 わたしはその方が話し易いので……。 いけませんか……?」
「ぜーんぜん! 侑希がそうしたいなら、それで良いわよ!」
「そう言ってもらえると、助かります。 有難うございます」
ホッとした面持ちでペコリと頭を下げる侑希に、美琴は苦笑を浮かべた。
侑希の態度は良く言えば礼儀正しく、悪く言えば他人行儀だが、美琴は彼女に悪気がないことを知っている。
出会った当初は「変な奴」と思っていたが、何度も接しているうちに気にならなくなった。
今日も今日とて、お約束のやり取りを経た少女たちだが――
「あれ? 糸くずが付いてるわよ?」
「え……?」
「侑希にしては珍しいわね。 いつもはこんなことないのに」
侑希の肩に手を伸ばした美琴は、短い糸くずを摘まんで取り除く。
普通なら気付かないほどで、それだけ彼女が侑希をよく見ていると言う証左。
本来ならそれだけのことで、何ら問題などない。
ところが――
「……すみません」
侑希は、この世の終わりのような顔で俯いてしまった。
それを見た美琴は、「やれやれ」とでも言いたげに肩をすくめ、言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「良い、侑希? こんなの、失敗の内に入らないの。 オーケー?」
「……はい」
「言葉と態度が見合ってないわよ? とにかく、一々落ち込まないの! 侑希は完璧過ぎるんだから、たまにはミスするくらいで丁度良いのよ!」
「やっぱり、ミスなんですね……」
「あ……ち、違うって! これをミスだなんて言い出したら、あたしなんてミスだらけだし……」
「……お気遣い、有難うございます。 遅刻してしまうので、そろそろ行きましょう」
「はぁ……まったく、しょうがない子ね……」
俯いたまま、トボトボと歩き出した侑希に、美琴は溜息をこぼして付いて行く。
これが、侑希の唯一にして絶対の悩み。
要するに、ほんの些細な出来事でも、とことん落ち込んでしまうのだ。
他人に注意されたことなどほとんどないが、その僅かな体験が今でも彼女の心に重くのしかかっている。
あぁ、自分はなんて駄目な人間なのだろう。
生きている価値などないのではないか。
誰にも必要とされていないのではないか。
むしろ、存在しているだけで害悪なのではないか。
侑希は本気でそう思っている。
何より厄介なのは、そのことを彼女自身が自覚していること。
このように考えている自分は、本当に駄目な人間だ。
そして、そう考えている自分も、やはり駄目な人間だ。
グルグルと、またしても負のスパイラルに陥った侑希を、美琴は痛まし気に見つめている。
こうなった彼女は、誰が何を言っても聞きはしないのだ。
どれだけ慰めの言葉を連ねても、元気付けようとしても、侑希に届くことはない。
どうしようもない友人の姿に、美琴はもう1度嘆息した。
学校が見えて来ても、侑希が纏う空気は暗いままだった。
美琴は無駄だと知りつつ、様々な話題を振っていたのだが、侑希は生返事を返すだけ。
だが、校門を潜った瞬間――
「さぁ、今日も頑張りましょう」
いつもの可憐な笑みを湛えた侑希は、意気揚々としているように見えた。
これも毎度のことで、真面目な彼女は周りに心配を掛けないように、気持ちが萎えていても気丈に振る舞う。
当然と言うべきか、美琴はそのことを察しているが、敢えて何かを言うことはしない。
目の前で侑希が、笑顔で生徒や教師たちと挨拶を交わしている姿を見ると、酷く辛い思いを抱く。
人気者の侑希は、多くの者たちから声を掛けられているが、その全てに快く対応していた。
恐らく、今でも心に暗雲が立ち込めたまま。
そんな健気な友人を、美琴はなんとかしたかったが、いくら考えても妙案が浮かぶことはなかった。
すると、校舎に入ってすぐのところで――
「お早う、香坂さん、羽山さん」
「あ、お早うございます、桐谷先生」
「お早う! 涼風ちゃん!」
知的な印象を抱かせる眼鏡を掛けた女性教師、桐谷涼風が2人に呼び掛ける。
ちなみに香坂は侑希の苗字で、羽山は美琴の苗字だ。
丁寧にお辞儀した侑希に対して、美琴は気安く手を振っている。
そんな美琴に涼風は、頭痛を堪えるように手を額に当て、鋭い視線で彼女を射抜いた。
「羽山さん……。 何度も言ってるけど、その呼び方はやめなさい。 他の生徒に示しが付かないでしょう?」
「えー? だって涼風ちゃんとあたしたちって、そんなに歳が変わらないじゃない」
「そう言う問題じゃないわ。 いくら年齢が近くても、わたしと貴女たちは教師と生徒の関係よ。 そのことを忘れないで」
「じゃあ、年寄り扱いして欲しいの?」
「……羽山さん、そんなに宿題を増やして欲しいのかしら?」
「げ!? ご、ごめん、涼風ちゃん! 謝るから許して! ね!?」
「だから、その言葉遣いを直せと……」
「ま、まぁまぁ、桐谷先生。 その辺りにして頂けませんか? 美琴さんはただ、先生と仲良くしたいだけなんですよ」
「……仕方ないわね。 香坂さんに免じて、今回は見逃してあげる。 でも、次はないわよ?」
「りょーかいであります! 涼風ちゃん先生!」
「全然反省してないわね……。 それより香坂さん、貴女に頼みたいことがあるの」
「わたしに、ですか?」
「えぇ。 実は今日、転校生がうちのクラスにやって来るんだけど、その子に学校を案内して欲しいの」
「転校生ですか。 この時期に珍しいですね」
「親御さんが転勤されたらしいわ。 それに伴って、その子も転校することになったみたいね」
「ふーん、転校生か。 ねぇねぇ、その子ってイケメン?」
「どうして男子前提なの……。 まぁ、合ってるけど。 容姿に関しては……自分の目で確認しなさい」
「えー、ケチ」
「何か言ったかしら、羽山さん?」
「うぇ!? な、何も言ってませんよ!?」
「よろしい。 それで香坂さん、お願い出来るかしら?」
「勿論です。 これでもわたし、学級委員ですから」
「有難う。 ただ……」
「どうかされましたか?」
「貴女なら大丈夫だと思うけど、注意しなさい。 その子、前の学校ではかなりの問題児だったみたいだから」
「問題児、ですか……」
「そんな危ない奴を、侑希に近付けさせる訳には行かないわ! わたしは断固反対よ!」
「落ち着きなさい。 問題児と言っても、暴力的な問題児じゃないわ」
「では、どう言う人なんでしょうか?」
「一言で言えば……自由、ね」
「自由……?」
「そう、自由よ。 あとは、実際に会った方が早いわね」
「……? わかりました」
「ちょっと侑希! ホントに引き受けるの!?」
「はい。 どちらにしても学級委員の仕事ですし、投げ出す訳には行きません」
「でも……」
「心配しないで下さい。 わたし、こう見えても結構強いんですよ? 万が一、何かあっても自分で対処してみせます」
「侑希が強いのは知ってるけど……。 じゃあ、あたしも付いて行くわ!」
「駄目です。 美琴さんは陸上部の練習があるでしょう? 大会が近いんですから、しっかり練習して下さい」
「う……。 わかったわよ……。 その代わり! 少しでも危ないと思ったら、すぐに逃げるのよ!? いくら強くても、侑希は女の子なんだから!」
「ふふ、心得ました。 有難うございます、美琴さん」
必死な形相で詰め寄って来る美琴に、侑希は柔らかな微笑を漏らす。
未だに今朝の失敗――だと思っている――を引き摺っている彼女だが、美琴の想いを受け止めて多少ながら心が軽くなった。
そんな生徒たちを見守っていた涼風は、こっそりと笑みを浮かべていたが、その時間は至極短い。
「そうと決まれば、貴女たちは教室に向かいなさい。 ホームルームのときに、改めて紹介するから」
「はい、桐谷先生」
「涼風ちゃん先生! またあとでね!」
涼風の言葉に従って踵を返した侑希たちは、仲睦まじく話しながら歩み出す。
その背中を涼風は黙って見送り、2人が完全に見えなくなってから――
「香坂さん……。 貴女にとっても、良い刺激になれば良いけど……」
などと呟いた。
教室に入った侑希たちは、荷物の整理をして授業の準備を終わらせてから、談笑に花を咲かせていた。
元来、美琴はそのような真面目な生徒だはないが、そうしないと侑希が構ってくれない為、無理やりに癖付けている。
談笑とは言っても、基本的には美琴が話して侑希は専ら聞き役だ。
昨日のテレビが面白かっただとか、あの俳優が格好良いだとか、最近発売された曲が良かっただとか。
高校生らしい話題だが、どれも侑希にとっては新鮮である。
断っておくと、侑希の両親は彼女に何も制限は掛けていない。
ただ彼女は、剣道の練習や書道の稽古、勉強など、やるべきことが多くて、そう言った時間が取れないだけだ。
むしろ両親は、たまには遊ぶように言っているのだが、周りの期待に応えなければならないと思っている侑希は、自分の気持ちを押し殺して、これまでずっと努力を続けている。
それゆえに学校で美琴と話すのは、彼女にとって唯一の娯楽とすら言えるかもしれない。
そうして侑希たちが楽しいひとときを過ごしていると、教室のドアが開いて涼風が入って来た。
いつも時間通りにやって来る彼女も、充分に真面目だと言えるだろう。
涼風の姿を見た生徒たちは慌てて席に戻り、話を聞く態勢を取った。
これもいつも通りだが、今日に限っては教室内に充満している空気が少し浮付いている。
それもそのはずで、既に転校生がやって来ることは知られているからだ。
どんな生徒かは知らないが、年頃の少年少女にとって転校生は、興味がそそられるイベントである――のだが――
「ん? 涼風ちゃん先生、どうしたの?」
涼風が苦虫を噛み潰したような顔をしていることに気付いた美琴が、訝しそうに問い掛けた。
他の生徒も不思議そうにしており、教室の空気が浮付いたものから困惑したものに変わる。
侑希も何があったのか疑問に思っていたが、取り敢えずは様子を見ることにした。
それからしばしの時が経つと、ようやくして観念した涼風が重い口を開く。
「……お早う、皆。 早速だけど、今日はうちのクラスに転校生がやって来るわ。 そう、やって来る……はずだったの」
「はずだった? もしかして、日にちがズレたのですか?」
「違うわ、香坂さん……。 さっきまでは一緒にいたんだけど……どこかに行ってしまったの」
『え?』
涼風の言葉に、生徒たちが一斉に間の抜けた声をこぼす。
それも致し方ないだろう。
まさか転校初日に、いきなり雲隠れするとは。
真面目な侑希は信じられない思いで目を丸くしており、美琴はますます転校生に対して不信感を募らせている。
そうして、教室内を気まずい雰囲気が支配していた、そのとき――
「よいしょっと」
1人の少年が、教室に入って来た。
窓から。
尚、この教室は3階だ。
窓際の席に座っていた侑希は、今度こそ絶句している。
他の生徒たちも唖然としている中、少年は全く意に返した素振りもなく言い放つ。
「僕は一条凜弥。 よろしくね」
窓から侵入して来た少年、凜弥は、朗らかな笑みを浮かべながらのたまった。
中性的な美少年で、男子女子問わず見惚れてしまったが、ある人物が立ち上がって叫喚を上げる。
「な……何を考えているんですか! 窓から教室に入って来るなんて、非常識です! ここは3階なんですよ!? もし落ちたら、どうするんですか!」
侑希だ。
彼女がここまで大声を出すのは滅多になく、美琴を含めた生徒たちに加えて、涼風までも気圧されている。
それほど、今の侑希は怒っていた。
凜弥が不作法を働いたことも腹立たしいが、何より無用な危険を冒したことが許せない。
だからこそ彼女は、転校生――だと思われる――少年を怒鳴り付けたのだが、彼は笑みを絶やさないままほざく。
「大丈夫、大丈夫。 僕、こう言うの慣れてるから」
「慣れの問題じゃないです!」
「そんなに叫ばないでよ。 折角の可愛い顔が台無しだよ?」
「な……!?」
「ところで、キミの名前は何かな? 是非お近付きになりたいんだけど」
「じ、自己紹介なら、あとで皆で順番にします。 と、とにかく、桐谷先生の指示に従って下さい」
「やだ。 僕は今、キミの名前が知りたいんだ。 教えてくれたら、大人しくするよ」
「ほ、本当ですか……?」
「うん」
「……香坂侑希です」
「侑希か。 良い名前だね」
「も、もう良いですから、約束を守って下さい」
「はいはい。 で? 僕はどうしたら良いの?」
侑希以外の全員を無視していた凜弥が、唐突に涼風に語り掛けた。
あまりの事態に涼風は呆然としつつ、教師としてのプライドが辛うじて口を動かす。
「え……? あ、あぁ、取り敢えずこっちに来なさい」
「りょーかい」
涼風の言葉に従ってスタスタと教室を突っ切った凜弥は、彼女の隣に立ってぐるりと生徒たちを眺めた。
何を考えているのかいまいちわからないが、彼の外見が魅力的なのは間違いない。
そのことは侑希も認めながら、どうしても凜弥に良い印象を持てずにいる。
初対面で決め付けるのは良くないが、彼と自分はまさに水と油のような関係ではないかと感じていた。
登校時に涼風から問題児だと聞いていたが、予想とまるで違う。
しかし、これから彼の面倒は自分が見なければならない。
学級委員として、その役目を放棄する訳には行かなかった。
そうして侑希は今後のことを考えて、小さく嘆息するのだった。
侑希の予想は当たった。
ホームルームを終えて授業に入るとほぼ同時に、凜弥が姿を消したのだ。
しかも、またもや窓から。
唐突な彼の行動に生徒たちは騒然とし、涼風も呆気に取られていたが、ある程度覚悟していた侑希は迷わず行動に出た。
「桐谷先生、彼を探して来てもよろしいでしょうか?」
「そ、それは良いけど……大丈夫なの?」
「お任せ下さい。 必ずや、連れ帰ってみせます」
「侑希! だったらあたしも……」
「美琴さんは、引き続き授業を受けて下さい。 大会だけじゃなく、試験も近いんですから」
「……それは侑希も一緒じゃない」
「そうですね。 ですが、わたしは学級委員です。 こう言うときは、わたしが頑張らないといけません」
「……わかったわよ。 侑希の分もしっかりノート取っておくから、あいつのことは頼むわ。 何なら、1発くらいぶん殴ってやりなさい!」
「さ、流石にそれは……。 とにかく、わたしは行きます。 先生は、授業の続きをお願いします」
「え、えぇ、無理はしないでね?」
「はい、有難うございます」
そう言って席を立った侑希は、急いで教室を出て校舎の外に向かった。
凜弥がどこにいるのかわからないが、窓から出たと言うことは、ほぼ間違いなく中にはいない。
剣道部で鍛えた身体能力にものを言わせて、あちこちを探し回る。
敷地面積は特別広いと言う訳ではないが、それでも1人で駆け回るのは中々骨だ。
徐々に息が上がって来たのにも構わず、侑希は辛抱強く足を動かし続ける。
そして、遂に――
「はぁ……はぁ……見付け、ましたよ」
校舎裏に位置する茂みの中で、凜弥を発見した。
背中を向けてしゃがみ込んでいる彼が、どのような顔をしているのかはわからないが、どうでも良い。
とにかく今は、この不良少年を教室に連行するのが最優先。
そう決断した侑希が、強硬策を取ることも視野に入れて近付くと――
「うーん……これは、ちゃんとした人に診てもらった方が良さそうかなぁ」
などと、独り言をぶつぶつ呟いている。
怪訝に思った侑希だが、先ほどの決意を思い出して凜弥に手を伸ばし――
「ねぇ、侑希はどう思う?」
振り向くことすらなく、凜弥が侑希に声を投げた。
いきなりの問い掛けに侑希は内心で戸惑ったが、彼が何を見ているのか気付いて息を飲んだ。
「たぶん、素人が手を出すのはやめた方が良さそうなんだよね。 この近くに、動物病院ってあるかな?」
そこには、傷付いた黒猫がいた。
命に関わる怪我ではないが、まともに動けない程度には深刻。
凜弥の腕の中にいる黒猫は逃げ出そうと藻掻いているが、その力は弱々しい。
それでも爪を突き立てられた凜弥は肌から血を流しつつ、手を放そうとはしなかった。
何をどう言えば良いかわからない侑希は固まっていたが、なんとか我に返ると慌てて口を開く。
「が、学校を出て少し行ったところに、病院があります」
「それは良かった。 じゃあ、案内してよ」
「わかりましたが、まずは外出許可を……」
「そんな場合? 今は、こいつを病院に連れて行かないと」
「で、ですが、規則では……」
「規則を守るのとこいつを助けるの、どっちが大事なの? こんなことを言ってる間も、こいつは苦しんでるんだけど」
現在進行形で抱えている腕を引っ掻かれながら、凜弥は飄々と言ってのけた。
まるで痛みを感じていないかのようだが、侑希の目は彼の額にびっしりと汗が浮かんでいるのを捉えている。
規則は守らなければならない。
これは侑希にとって、呼吸するのと同じくらい当然のこと。
授業中に教室を飛び出し、更に学外に出るなど言語道断。
だが――
「……わかりました、付いて来て下さい」
「そう来なくっちゃ」
「その代わり! あとでちゃんと、罰を受けて下さい! わたしも一緒に受けますから!」
「はいはい、じゃあ行こうか」
「本当にわかってるんでしょうか、この人は……」
盛大に嘆息しながら歩き出した侑希に比して、凜弥は嬉しそうだ。
彼の思いが理解出来ない侑希は、もう1つ溜息を追加する。
こうして彼女は、生まれて初めて規則を破った。
動物病院に黒猫を預けた2人は、急いで学校に戻った。
凜弥としてはそのまま遊びに行きたかったのだが、侑希が全力で反対したのだ。
校舎に入った彼は、大人しく教室に戻ろうとしたが――
「そちらじゃないです」
「へ?」
「その腕……そのままにしておくつもりですか?」
「あぁ、このくらいなんてことないよ」
「いけません。 放っておいて、悪化したらどうするんですか。 医務室に行って、きちんと治療を受けて下さい」
「そうは言っても、僕は医務室の場所を知らないからなぁ」
「……わたしが案内します。 それで良いでしょう?」
「うん、それなら喜んで行くよ」
「……こちらです」
笑顔で告げる凜弥をスルーして、侑希は彼を先導する。
彼女の冷たい態度に肩をすくめつつ、凜弥は黙って後ろを付いて歩いた。
間もなくして医務室に着いた2人は、その場で別れる――かに思われたが――
「……」
「どうかした?」
「……また、どこかへ行ったりしませんよね?」
「……しないよ?」
「今の間は何ですか?」
「気のせい、気のせい」
「……わたしはここで待ってるので、早く治療して来て下さい」
「信用ないな。 でもまぁ、侑希が待っててくれるなら良いか」
「本当に、貴方と言う人は……」
「おっと。 じゃあ、またあとで」
小言を言われると悟った凜弥は、即座に医務室へと消える。
中途半端に口を開けた状態で止まっていた侑希だが、やがて脱力すると大きく息を吐き出した。
まだ午前中だが、疲労困憊。
これほど疲れたのは、いつ以来だろうか。
これほど怒ったのは、いつ以来だろうか。
新鮮な体験をしているが、全くもって嬉しくない。
あの凜弥と言う少年は、理解不能である。
平気で規則を破る性根を、叩き直してやりたい。
自分の身勝手な行動のせいで周りがどれだけ迷惑しているのか、懇々と説教してやりたい。
その思いに偽りはないが、同時に別の感情が彼女に芽吹きつつあった。
「……悪い人ではないのかもしれません」
結果だけ見れば、彼は傷付いた黒猫を救った。
過程や手段は到底受け入れ難いが、そのことだけは確か。
とは言え、依然として侑希から見た凜弥は、扱いに困る問題児。
これからのことを思うと、気が滅入りそうになる。
そして、何より――
「規則を、破ってしまいましたね……」
その事実が、侑希をこれ以上ないほど責め立てていた。
ほんの些細なミスでもとことん落ち込む彼女が、規則を破ったのだ。
そのショックは、推して知るべしだろう。
事態がひと段落して1人になり、余計にその思いが強くなった。
恐らくだが、自分の行いは悪ではない。
教師や生徒たち、両親も、事情を話せば許してくれそうだ。
だが、彼女にとってそのようなことは関係ない。
誰が許し、誰が認め、誰が褒めようと、自分が自分を責める。
そのことを自覚している侑希はいつしか瞳に涙を溜め、聞こえて来たのは不満そうな声。
「あー、痛かった。 もうちょっと優しく出来ないのかな……」
元凶である不良少年だ。
目を見開いた侑希は焦って涙を拭い、何事もなかったかのように振り返る。
そして、改めて文句を叩き付けようとして――口を縫い付けられた。
彼女の視界に映ったのは、痛々しく腕に包帯を巻かれた凜弥。
先ほどは気付かなかったが、制服のシャツも血で染まっている。
凜弥が思った以上の怪我を負っていたことを知った侑希は、咄嗟に言葉が出て来なかったが、彼は至極軽い調子で言ってのけた。
「ほら、教室に帰るんだろ? 早く行こう」
「え、えぇ……」
「今度はどうしたんだい? なんだか挙動不審だよ?」
「べ、別に何でもありません」
「そう? なら、行こうか」
「……待って下さい」
「何?」
「そのような格好で教室に戻っては、皆さんが驚いてしまいます」
「そんなこと言われても、制服の予備なんて持ってないよ」
「シャツくらいなら、購買に売っています。 そこで買いましょう」
「無理。 さっきの病院代でお金なくなったから」
「わたしが立て替えます。 ですから、着替えて下さい」
「それは悪いよ。 これくらい、大丈夫だってば」
「駄目です! 散々振り回したんですから、少しくらいは言うことを聞いて下さい!」
「……わかったよ」
侑希に怒鳴られた凜弥は、不承不承ながら首を縦に振った。
そのことに侑希は安堵したが、大声を出してしまったことを恥ずかしがっている。
自分は、いったい何をムキになっているのだろうか。
出会って間もないが、この奔放な少年にペースを乱されっ放しである。
それでも、放っておくことは出来ない。
学級委員として、転校生の世話をするのは当然なのだから。
考えを纏めた侑希は、深呼吸してから無言で歩き出した。
凜弥の着替えを終えた頃には、授業が終わって休み時間に入っていた。
結局、まるまる1時限サボってしまった侑希は更に落ち込んでいるが、ひとまずは気持ちを切り替えて、凜弥とともに職員室にいる涼風の元に向かった。
言うまでもなく、事の顛末を説明する為である。
侑希から話を聞いた涼風は、予想通り強くは叱らなかった。
それどころか、侑希のことは被害者だとすら考えている。
実際、彼女が授業を抜け出したのは凜弥のせいで、外出許可を得ずに病院に行ったのは、緊急を要したからだ。
それゆえに侑希はお咎めなしだったのだが、やはりと言うべきか彼女自身は納得出来ていない。
一方で――
「一条くん、わかっていると思うけど、貴方には罰を受けてもらうわ」
凜弥には罰が与えられた。
とは言え、黒猫を助けたと言うこと自体は称賛されるべきなので、そこまで重いものではない。
具体的には、資料室の整理。
それを聞いた凜弥はあからさまに嫌そうにしていたが、口に出して文句を言うことはなかった。
そうして、この問題は終わりを迎える――はずだった。
「……桐谷先生」
「どうしたの、香坂さん?」
「わたしも、一条くんと一緒に罰を受けます」
「……どうしてかしら?」
「理由はどうあれ、わたしも規則を破りました。 ですから、その罰を受けなければなりません」
「さっきも説明したでしょう? それは緊急事態だったからで、貴女に非はないのよ?」
「それでもです。 このままでは、わたしは規則を破った自分を許すことが出来ません」
「でも……」
「お願いです」
真摯な眼差しを注いで来る侑希に、涼風はとうとう言葉を失った。
それからしばし逡巡していたが、やむなく彼女の望み通り罰を言い渡そうとして――
「侑希は規則を破ってないよ」
凜弥の声が、直前で割り込んだ。
思わぬ発言に目をパチクリさせた侑希だが、それに構わず凜弥は言葉を重ねる。
「だって、侑希は僕に無理やり連れて行かれただけだからね。 案内役がいないと困るから。 つまり、自分の意思で学校を出て行ってない侑希は、規則を破ってないよ」
「……だとすれば、貴方の罰はもっと重いものになるわ。 女子生徒に無理を強要したことになるのだから」
「だろうね。 でも、そうなんだからしょうがないよ」
「そんな……!? ち、違います! わたしは、自分の意思で……」
「それで? 僕は何をすれば良いの? もしかして、停学? 流石に退学は勘弁して欲しいんだけど……」
「……停学や退学にはならないわ。 その代わり整理する場所を増やすから、覚悟してなさい」
「うわぁ……お手柔らかに頼むよ」
「……話は以上よ。 そろそろ、次の授業が始まるわ。 2人とも、教室に戻りなさい」
「ま、待って下さい! わたしは本当に……」
「ほらほら、行くよ侑希。 授業に遅れても良いの?」
「……! わかりました……」
悄然と項垂れた侑希と、相変わらず飄々とした凜弥が、職員室から出て行く。
2人を複雑そうな顔で見やっていた涼風は、小さく溜息をついて――
「良くわからない生徒ね……」
凜弥の不可思議な言動に、頭を悩ませた。
教室に向かう間、2人を何とも言い難い空気が包んでいた。
凜弥は平然としているが、侑希の落ち込み方が尋常ではない。
規則を破ったから――とは、違う要因である。
それは――
(わたしは、なんて浅ましい人間なんでしょう……)
凜弥に庇われたお陰で、規則を破っていないと言うことになり、安堵している自分への失望。
規則を破ることに強い抵抗を覚える彼女にとって、この結末は非常に助かる。
だが、そのせいで他者に負担を掛けたことに、侑希は罪悪感を抱いていた。
それでもホッとしている自分が、酷く醜い存在に思えた彼女は、下を向いて涙ぐんでいる。
そのとき、前を歩く凜弥から、冗談めかした口調で声を掛けられた。
「そんな顔をされると、こっちの気分まで暗くなるんだけどなぁ」
凜弥の言葉を聞いた侑希はのろのろと顔を上げ、潤んだ瞳で彼を見つめる。
悲嘆に暮れる少女を前にして、凜弥はバツが悪そうに頭を掻いた。
そのまま沈黙していたが、ようやくしてたどたどしく言葉を紡ぐ。
「……悪かったよ」
「え……?」
「僕の都合に巻き込んだことだよ。 あの猫を助ける為とは言え、侑希が嫌がることをさせちゃったからね」
「そんなことは……ないことはないですけど……。 でも、あのときわたしは、自分で決断しました。 一条くんに言われたからじゃありません」
「そうだね。 だけど、原因を作ったのは僕だ。 だから、やっぱりごめん」
「……もう良いです。 ただし今後は、ちゃんと規則を守って下さい。 ましてや、授業中に教室から出て行くなんて、許しません」
「わかってるよ。 ……はぁ、僕にここまで言わせるなんて、侑希は凄いな。 惚れ直したよ」
「惚れ……!? か、からかわないで下さい! 今日会ったばかりの人を、好きになる訳がないでしょう!」
「そんなことはないよ。 いわゆる、一目惚れってやつ? まぁ、確かに最初は「お、可愛い子発見」くらいだったけど、今は本当にキミに恋してる。 だって、僕とここまで真っ直ぐに向き合ってくれた人は、初めてなんだから」
「ば、馬鹿なことを言ってないで、行きますよ! 本当に授業が始まってしまいます!」
「照れてる侑希も可愛いね。 もっと、いろんな顔が見たいな」
「~~~!? もう、知りません!」
そう言ってずんずん歩き出した侑希を、凜弥は苦笑を浮かべて眺める。
背中に熱い視線を感じながら、侑希は鼓動が速くなるのを止められなかった。
容姿端麗な彼女は、これまでに幾度となく告白を受けたことがあり、その都度断っている。
恋愛に興味がない訳ではないが、自分のことを必要以上に卑下している彼女は、どうしても上手く行かないと思ってしまうのだ。
美琴はそのことを勿体ないと思いつつ、侑希に悪い虫が付かないことは良しとしている。
ところが、凜弥の言葉はこれまでに類を見ないほど、彼女の心に波を立てた。
それが何故か侑希にはわからないが、自分が彼を意識していることは認めざるを得ない。
もっとも、恋心とは断じて違うと思っているが。
顔を赤くして前を歩く侑希を、凜弥は愛おしそうに見やっていた。
その後の凜弥は非常に大人しかった――などと言う事実はない。
むしろ彼は――
「ねぇ、侑希。 教科書見せてよ」
「……他の方に頼んで下さい」
「やだ。 侑希が見せてくれないなら、サボろうかなぁ」
「わかりましたから! 一々、そう言うことを言わないで下さい!」
侑希にちょっかいを掛けまくっていた。
ことあるごとに彼女と接近し、少しでも触れ合おうとしている。
侑希のことをクラスメイトたちは気の毒に思っている――ことはなく、微笑ましく見守っていた。
何故なら、普段は隙を見せない侑希が、取り乱している姿が面白いから。
勿論、本当に困っているなら助ける気だが、彼らの見立てでは彼女も満更ではない。
口では煙たがっているものの、なんだかんだで凜弥を突き離せずにいた。
だが、そのことを面白く思っていない者がいる。
「ちょっとあんた! いい加減にしなさいよ!? 侑希が困ってるじゃない!」
言うまでもなく、美琴だ。
彼女は2人が教室に戻って来るや否や凜弥に噛み付いたが、彼はそれをあっさりとスルーしている。
そんな凜弥の態度に美琴は、ますます勢い込んで捲し立てたにもかかわらず、彼はそれすらもサラリと受け流した。
そうして、何度目かのアタックを仕掛けた彼女だが、凜弥の対応は変わらない。
「それじゃあ侑希、お願いするね」
「ちょっと!? 少しは話を聞きなさいよ!」
「お、落ち着いて下さい、美琴さん。 わたしは大丈夫ですから」
「駄目よ、侑希! こう言う奴には、はっきり言ってやらないと! あんた、転校生だからって甘い顔してたら調子に乗って……もう勘弁ならないわ!」
「うるさいなぁ。 侑希が良いって言ってるんだから、構わないだろ? キミに僕たちの仲を引き裂く権利でもあるのかい?」
「ぼ、僕たちの仲……!? 侑希、どう言うっことよ!? こいつと何かあったの!?」
「な、何もありませんよ!? 一条くん! 変なことを言わないで下さい!」
「何もないことはないだろ? 少なくとも僕は、キミに告白してるんだから」
「こ、告白ですって!? まさか、オーケーしたんじゃないでしょうね!?」
「してません!」
「じゃあ、断ったのね!?」
「えぇと、それは……」
「断られた覚えはないよ。 だから、僕にもまだチャンスはあるね」
「侑希! 今すぐ断っちゃいなさい! そもそも、いくら学級委員だからって、こんな奴の相手をする必要なんてないのよ! 涼風ちゃんのお願いでも、馬鹿正直に聞かなくて良いの!」
「そ、そう言う訳には行きません。 いくら彼がわたしの手に負えない問題児でも、最後まで役目は果たします」
「だから! なんで侑希は、そう真面目なの!? ちょっとは融通ってものを……」
「もう良いかな? ぐずぐずしてたら、授業が始まっちゃうんだけど。 少しでも予習はしておきたいな。 僕は転校生だからね」
「こんの……! 侑希! 絶対これ以上、こいつの好きにさせちゃ駄目だからね!?」
「は、はい、気を付けます」
怒り心頭と行った様子で自分の席に戻った美琴は、尚も凜弥を睨み付けている。
しかし、彼は一切気にすることなく、既に美琴の存在など眼中にない。
「じゃあ、隣に座るね」
「……近いです。 もう少し離れて下さい」
「えー? 教科書を見せてもらうんだから、これくらいは仕方ないよ」
「だとしても近過ぎます。 それに、予習なら1人でも出来るでしょう?」
「侑希が教えてくれないと、やだ」
「貴方と言う人は……!」
「良いから、早く教えてよ。 授業が始まっちゃうよ?」
「はぁ……わかりました。 では、教科書を開いて下さい。 それから――」
そうして侑希は凜弥に勉強を教えたのだが、彼はずっと侑希の横顔を見ており、ろくに話を聞いていない。
だが侑希は敢えて無視を決め込んで、淡々と説明だけを続ける。
心臓が刻むビートが速くなるのは、止められそうにないが。
頬が紅潮するのを感じながら、侑希は努めて意識しないように平坦な声で語り続けた。
それからも凜弥は侑希に纏わり付き、彼女は煩わしそうにしていたものの、結局ずっと面倒を見続けた。
美琴は何度も凜弥を侑希から引き剥がそうとしていたが、彼には何の効果も及ぼすことが出来ない。
涼風に至っては、侑希に悪いと思いつつ、このままでいてもらおうと思っている。
彼女がいる限り、凜弥が授業を真面目に受けることが判明したからだ。
侑希と言う尊い犠牲を出しながらも、無事に午前中の授業を終えると、次に待っているのは昼食の時間。
「侑希! ご飯を食べに行きましょう!」
チャイムが鳴ってすぐに歩み寄って来た美琴は、侑希の手を取って強引に立ち上がらせた。
一瞬驚いたような顔をした彼女だが、友人の考えを察して苦笑を浮かべる。
確証はないが、自分を凜弥から解放しようとしているのだろう。
正直なところ、かなり疲れていた侑希は、美琴の心遣いを有難く受け取ろうとした――のだが――
「じゃあ、行こうか」
さも当然とばかりに、凜弥がニッコリと笑ってのたまう。
それを受けた侑希は目を瞬かせており、美琴は眦を吊り上げて言い放った。
「あんたは付いて来ないで!」
「どうして? 侑希が行くなら、僕も行くに決まってるだろ?」
「昼休みくらい、遠慮したらどうなの!? あんたのせいで、侑希は迷惑がってるんだからね!?」
「侑希……僕は、キミにとって迷惑なのかな?」
「え!?」
「甘やかしたら駄目よ! この際、はっきりキッパリ言ってやんなさい!」
美琴の言うように、ここで凜弥を拒絶すれば、侑希はだいぶ楽になるだろう。
ところが、捨て猫のように心細そうにしている彼を見て、非常になれなかった。
「め、迷惑と言えば迷惑ですけど……そ、そこまででもないと言いますか……」
「どうしたのよ、侑希!? あんたが優しいのは知ってるけど、限度ってものが……」
「外野は黙っててよ。 有難う、侑希。 凄く嬉しいよ」
「べ、別にお礼を言われるようなことではありません。 美琴さん、ごめんなさい……」
「……もう! 本当にしょうがない子ね! 仕方ないから、許してあげるわよ! その代わり、絶対大人しくしてなさいよ!?」
「はーい」
「伸ばすな!」
「はいはい」
「「はい」は1回!」
「喧しい人だな。 侑希、こんな人放っておこうよ」
「ふぇ……!?」
「ちょっと!?」
紆余曲折あって同行を許可された凜弥だが、姦しく騒ぐ美琴を置き去りにして侑希の手を握った。
突然の暴挙(?)に侑希は良くわからない声を上げ、美琴は動転しそうな勢いで叫ぶ。
しかし凜弥はそれら全てに取り合わず、強引に侑希を引っ張って行った。
その様をポカンとして見送った美琴だが、ハッと我に帰ると大急ぎで追い掛ける。
とは言え、今日転校して来たばかりの凜弥に行く当てなどない。
適当に上の階を目指した彼は、1つのドアの前で足を止めた。
いや、止められた。
「こ、この先は屋上です。 生徒が勝手に入ってはいけません」
未だに手を握られたまま、侑希が弱々しく凜弥を窘める。
背後からやって来た美琴も、流石にこの先に行くことは躊躇っていた。
だが――
「丁度良いじゃないか。 他の生徒がいないってことは、ゆっくり出来るってことだろ?」
「だから! 入ってはいけないんです! 話を聞いていなかったんですか!?」
「侑希の言葉を聞き逃す訳がないだろ? でも、人がいない方がのんびり出来るじゃないか」
「そう言う問題じゃありません!」
「じゃあ、こうしよう。 今回もまた侑希は僕を探しに来て、仕方なしに屋上に入った。 それなら、キミは規則を破ったことにはならないだろ?」
「そ、そんなことをすれば、貴方の罰は更に重くなりますよ!? 今度こそ、停学になるかもしれません!」
「別に良いよ。 それで侑希の疲れが、少しでも取れるなら」
「……! ほ、本当にそう思うなら、わたしに付き纏うのをやめて下さい。 そうすれば、このようなことをしなくても、わたしは快復します」
「それは断る。 だって僕は、侑希が好きなんだから。 これからも、どんどんアプローチを掛けるつもりだよ」
「ま、またそうやってふざけて……!」
「本気さ」
「……!」
「僕はもっと侑希と関わりたい。 でも、そのことが侑希の負担になるなら、少しでも力になりたい。 矛盾してるようだけど、どっちも本当の気持ちだよ」
「て、停学になったら……わたしと会うことも出来なくなるじゃないですか」
「もしそうなったら、そのとき考えるよ。 それに、バレなかったら良いのさ」
「貴方と言う人は、どうしてそう適当なんですか!? もっと先のことや、自分の将来を考えて……」
「良いんじゃない?」
「美琴さん……!?」
「こいつが全部、後始末してくれるんでしょ? だったら、そうしてもらおうじゃない」
「で、ですが……」
「へぇ、初めて意見が合ったね。 てっきり、反対されるかと思ったよ」
「言っておくけど、あんたに賛同した訳じゃないからね? 単に、リスクなく屋上に入れることに、興味があるだけよ」
「何だって良いさ。 と言うことで、多数決で決まりだね」
「ま、待って下さい! 話はまだ終わって……」
最後まで言い切ることも出来ず、侑希は無理やり屋上に引き込まれた。
暗い屋内から外に出たことで、非常に眩しく感じる。
咄嗟に手で目を庇った侑希は、恐る恐る目を開き――
「わぁ……」
感嘆の声を落とした。
彼女の視界に映ったのは、雲1つない快晴の青空。
遮るものが何もないその光景は、侑希に言いようのない衝撃を与えている。
暫く彼女は視線を上に固定してから、やがてゆっくりと辺りを見渡した。
幼い頃から暮らしている街並みだが、このようにして眺めるのは初めて。
美琴も感心していたが、今の侑希の意識には入って来なかった。
すると――
「いやー、良い景色だね」
楽しそうな凜弥の声が、侑希を現実に引き戻す。
そのときになって彼女は、またしても自分が規則を破ったことを思い出したが――
「ごめんね、侑希。 こんなところにまで、探しに来させちゃって」
「え……?」
「僕が屋上に出るのを見掛けたから、追い掛けて来てくれたんじゃないか。 そうだよね、羽山さん?」
「あー……うん、そうね。 あたしも侑希と一緒だったから、間違いないわ」
「ち、違います! わたしは……」
「そんなことより、ご飯にしようよ。 昼休みが終わっちゃうよ」
「で、ですから……」
「ほら侑希、あそこに座りましょうよ。 お弁当、持って来てるんでしょ?」
「美琴さんまで……。 もう、わかりましたよ……」
ガックリ肩を落とした侑希は、美琴が示した場所に腰を下ろして弁当を取り出した。
料理が得意な彼女は毎日自分で弁当を持参しており、逆に苦手な美琴は購入したパンに齧り付く。
対する凜弥は――
「ん? 一条、あんたご飯は?」
「僕は何も持ってないよ。 お金がないから、購買で買うことも出来ないからね」
「はぁ? じゃあ、なんで付いて来たのよ? あ! まさか、あたしたちから奪う気!?」
「そんなことしないってば。 ただ僕は、侑希の近くにいたいだけ」
「……ずっと気になってたんだけど、本気で言ってんの? 侑希とあんたは、今日会ったばかりなのよ?」
「侑希にも同じことを言われたけど、恋愛に時間は関係ないんじゃないかな。 キミの言う通り、僕と侑希は出会って間もないけど、好きだって気持ちは真剣だよ」
「……あっそ。 でも、あたしは認めないわよ? あんたみたいな無茶苦茶な奴に、侑希は渡さないから」
「キミに認めてもらう必要なんてないよ。 僕は絶対、侑希に振り向いてもらうから」
「……上等じゃない」
凜弥と美琴が火花を散らして舌戦を繰り広げていたとき、侑希は困惑した面持ちで2人を見比べていた。
ここまで真っ直ぐに思いを伝えて来る凜弥に、侑希はどう接すれば良いか迷っている。
しかし、今はひとまずその問題を棚上げして、解決するべきことがあった。
「一条くん」
「何かな、侑希?」
「……本当に、何も食べないつもりですか?」
「仕方ないよ。 バタバタしてて、用意する時間がなかったんだから」
「そうですか……。 では、わたしのお弁当を少し分けてあげます」
「え? 良いの?」
「はい。 お腹が減って授業に集中出来なかった……などと言われては困りますから」
「だ、駄目よ! こんな奴に、侑希の手料理を食べさせるなんて……」
「でしたら、美琴さんもどうですか? 今日は多めに作ってしまったので、夕飯に回そうと思ってましたから」
「う……だ、だったら、お言葉に甘えちゃおうかな」
「はい、是非。 一条くんも、遠慮しないで下さいね」
「……」
「どうかしましたか?」
「……いや、侑希の手料理を食べられることに、感動してただけだよ」
「ま、またそう言うことを……。 良いから、早く食べて下さい」
「うん。 頂きます」
そう言って凜弥は、侑希が取り分けた料理を口に運び――
「……美味しい」
「お、お世辞はいりません」
「お世辞じゃないよ。 こんなに美味しい料理を食べたのは、初めてだ」
「で、ですから、持ち上げ過ぎですよ」
「本当のことなんだから、謙遜しなくて良いさ。 ねぇ、羽山さん?」
「当たり前よ! 侑希の料理は天下一品なんだから!」
「み、美琴さんも、そんなに褒めないで下さい。 恥ずかしいです……」
2人から称賛された侑希は、居心地が悪そうに俯いた。
照れているのもあるが、失敗だらけ――だと思い込んでいる――の自分に、そのような資格はないと考えている。
そんな彼女を美琴は「困ったものだ」とでも言いたげに見つめ、凜弥は――
「……」
無言で、凝視し続けた。
昼食が終わり、午後の授業が始まった。
やはり凜弥は侑希と積極的に関わろうとしていたものの、どことなく午前中と様子が違う。
何がと聞かれれば答えに窮するが、違和感があるのだ。
そのことに、他の生徒たちだけではなく美琴や涼風も気付いていないが、侑希は敏感に察している。
しかし、疑問が残ったまま時間は過ぎ去り、いつの間にか放課後になった。
淡々と涼風がホームルームを終わらせると、名残惜しそうにしながら美琴が部活動に向かい、侑希は――
「……では、行きましょうか」
「よろしくね」
凜弥の学校案内を開始する。
休み時間を使ってある程度は説明しているが、やはり全てを網羅するには至らなかった。
彼女も剣道部のエースとして部活動に参加したいと思いながら、今日ばかりは仕方ないと諦めている。
きちんと連絡はしているので、何ら問題はない。
そうして、一通り学校案内を終えた侑希だが、凜弥から発せられる気配は昼食を挟んで変化したまま。
具体的なことはわからないが、侑希は内心で小首を傾げていた。
とは言え、特に不都合がある訳ではないので、放置することに決めている。
気を取り直した侑希は凜弥に振り返り、最後に締め括った。
「以上です。 何か質問はありますか?」
「ううん、大丈夫」
「そうですか。 では、わたしは失礼します。 あ、資料室の整理をちゃんとしてから、帰って下さいね?」
「何度も言わなくても、わかってるよ」
「素直で結構です。 それと、明日は問題を起こさないで……」
「ねぇ、侑希」
「え? 何ですか?」
「……いや、ごめん。 何でもないよ」
「……? そうですか。 それでは、今度こそ失礼しますね」
「あぁ、また明日」
その言葉を最後に凜弥は立ち去り、指定された資料室に足を運ぶ。
彼の後ろ姿を侑希は不思議そうに眺めていたが、雑念を追い出すように小さく頭を振り、教室に戻って帰り支度をすませた。
そして昇降口で靴を履き替え、校門を出た――のだが――
「……」
そこで動きを止める。
既に時間は夕刻に差し掛かっており、帰路に就く生徒が多い。
しかし――
「はぁ……」
大きく溜息をついた侑希は、流れに逆らって校舎に入った。
もう1度、靴を履き替えた彼女は、迷うことなく真っ直ぐに資料室を目指す。
間もなくして辿り着いた侑希は、ドアの前で深呼吸してから、思い切って開け放った。
「侑希……?」
そこには、両手で資料を抱えた凜弥がいた。
驚いた彼は目を皿のように丸くしており、対する侑希も気まずそうに視線を彷徨わせている。
2人を何とも言えない雰囲気が覆ったが、先に口火を切ったのは凜弥。
「ビックリしたな……。 まさか、戻って来てくれるとは思わなかったよ」
「あ、貴方の為じゃありません。 わたしは学級委員として、ちゃんと罰を受けているか確認しに来ただけです」
「それでも嬉しいよ。 有難う、侑希」
「お、お礼はいりませんから、手を動かして下さい。 もたもたしていたら、夜になってしまいますよ? ……わたしも、手伝いますから」
「うん? どうして侑希が罰を受けるんだい? キミは規則を破ってなんかいないんだよ?」
「……罰を受ける訳じゃありません。 わたしは自主的に、資料室の整理をするだけです。 それなら、誰にも止められることはありません」
「屁理屈だね」
「貴方にだけは、言われたくありません」
「はは、そりゃそうだ。 じゃあ、よろしく頼むよ」
「……はい」
それっきり口を閉ざした2人は、黙々と資料の整理に勤しんだ。
侑希は勿論だが、凜弥も真面目に働いており、彼女は胸中で意外感を抱いている。
それから30分ほどの時間が経ったが、彼女たちが言葉を交わすことはなかった。
凜弥が何を考えているのかわからない侑希は、時折彼の横顔を盗み見ながら、自問自答している。
(どうしてわたしは、ここにいるんでしょう……? 彼のことなど、放っておけば良いじゃないですか。 学級委員としての仕事は終えたのですから、これ以上は関わるべきじゃありません。 そう、そのはず……ですが……)
最後まで答えが出ずに懊悩しつつ、侑希は機械的に作業を続けた。
凜弥の印象は、今でも良いとは言えない。
自分が我慢をすれば真面目に授業を受けるし、突拍子もない行動を取ることはないだろう。
だが、規則を蔑ろにしがちな姿勢は、どうしても受け入れ難い。
そうして凜弥への考えを纏めた侑希は、1つ小さく頷いた。
やはり自分と彼は、相容れない。
彼は自分のことを好いてくれているらしいが、応えることは出来ない。
改めてそう決めた侑希は、はっきりと告白を断る旨を伝えようとして――
「侑希」
固く閉ざしていた凜弥の口から、真っ直ぐな声が発せられた。
その声からは彼が何を思っているのか察せられず、侑希は戸惑っている。
それでも黙り込むことはなく、無理やりに口を動かした。
「何でしょうか?」
なんとか素直に言葉が出て来て、侑希は安堵する。
ところが――
「侑希は、生きていて楽しい?」
思いもよらない問い掛けが飛んで来て、今度こそフリーズした。
生きていて楽しいかどうか。
正直なところ、考えたことはない。
充実はしている。
学校生活も私生活も、順風満帆。
しかし――
「……良く、わかりません」
侑希は、肯定することが出来なかった。
そのことにショックを受けた彼女だが、凜弥は構わず言葉を連ねる。
「侑希ってさ、生き難そうに見えるんだ。 1日しか一緒にいないけど、優秀なのはわかるよ? 凄く可愛いし、優しいし、人として素晴らしいと思う。 でも……自分で自分を貶めてる」
「そ、そんなことは……」
「あるよ。 なんとなくそんな気はしてたけど、昼休みのときに確信した。 キミは、自分に自信がない。 ううん、それどころか、自分が駄目な人間だと思ってるね?」
「……! き、今日会ったばかりの貴方に、わたしの何がわかるんですか!」
「わかるさ。 だって僕は、キミのことが大好きなんだから」
「やめて下さい! わたしは、貴方が言うような人間じゃないんです! 本当のわたしは、どうしようもなく駄目な……」
「ムカつく」
「え……?」
「ムカつくって言ってるんだ」
「な、何を言って……」
「どうしようもなく駄目? ふざけないで欲しいな。 僕が好きになった人を、これ以上侮辱しないでくれ。 誰が何と言おうと、キミは素敵な女の子だ。 キミ自身が否定しても、僕が許さないよ」
「一条くん……」
「自分で自分を貶めるってことは、キミを好きな人たちに対する裏切りだ。 僕だけじゃない。 羽山さんも桐谷先生も、他にもきっとキミを認めてくれている人はたくさんいる」
「それは……」
「それと、もう1つ。 侑希って、自信過剰だよね」
「へ……?」
「さっきと言ってることが真逆だって思ってる? でも、これも本当のことだよ」
「い、意味がわかりません……」
「だってさ、今日1日キミばかり見てたけど、本当にちょっとしたことでも落ち込んでたでしょ? それって、「自分はこんなミスはしない」って思い込んでるってことじゃない?」
「そ、そんなつもりは……」
「規則に拘るのも、そのせいだよ。 規則を守ってさえいれば、失敗するリスクは少なくなるからね。 でも、完璧な規則なんてないし、完璧な人間だっていない。 だから、侑希だって失敗して当たり前なんだよ。 大事なのは、失敗したことを嘆くんじゃなくて、次にどう活かすかだと思うな」
「……随分と、悟ったようなことをいうんですね。 貴方は、それを実践出来ているんですか?」
「いや、全く」
「……」
「そんな目で見ないでよ。 僕だって、ただの高校生だ。 そんな簡単に割り切れたら、誰だって苦労はしないさ」
「だったら……」
「でも、心掛けてはいるよ。 枠に囚われ過ぎて、がんじがらめにならないようにね」
「貴方の場合は、自由……いえ、無法が過ぎると思いますが」
「あはは、手厳しいね。 でも……そうかもしれないな。 たぶん、だからこそキミに惹かれたんだ。 僕にないものを持ってる、キミに」
真剣な顔付きで見つめて来る凜弥から、侑希は目を逸らす。
室内が暗いお陰で見えていないだろうが、このときの彼女は頬を朱に染めていた。
そして、彼の言葉を聞いて、疑問が氷解する思いである。
どうして自分が凜弥を意識していたのか。
それは、彼と同じ理由だったのだろう。
つまり、自分にはない奔放さを兼ね備えた、この少年が羨ましかったのだ。
だからと言って、この想いが恋心だとは思いたくないが、彼に対する気持ちは変わりつつある。
「一条くん」
「……何だい?」
「作業を続けましょう」
「え?」
「そろそろ切り上げないと、本当に遅くなってしまいます」
「それはそうだけど……他に言うことはないのかな?」
「ありません」
「……あっそう」
「そうです。 ほら、サッサと動いて下さい」
「はいはい……」
侑希の淡白な反応に、凜弥は肩透かしを食らった気分だ。
それでも大人しく作業を再開した彼に、侑希は密かに微笑を浮かべた。
この自由過ぎる少年を、自分が学級委員としてコントロールしよう。
そして――
「……一条くん」
「今度は何かな?」
「明日も、屋上で昼食を食べましょう」
「は?」
「だから、屋上で食べようと言ってるんです。 あそこの景色は気に入ったので」
「僕は良いけど……侑希はそれで良いの? さっきはいろいろ言ったけど、何も無理して規則を破れってことじゃないからね?」
「当然です。 貴方に何を言われたところで、わたしが規則を破ることは基本的にありません。 ですが、許可を取れば別です。 桐谷先生にお願いすれば、きっと許して頂けます。 わたし、人望だけはあるので」
「……だけ、じゃないだろ? でもまぁ、今は良いか。 それじゃあ、頼むよ」
「はい。 ただし、明日は自分でお弁当を用意して下さいね?」
「えー? また、侑希の料理が食べたいのに……」
「却下です。 わたしと貴方は、ただのクラスメイトですから」
「と言うことは、恋人になったら食べさせてくれるの?」
「ま、万が一そうなったら、考えてあげます。 まぁ、あり得ませんが」
「そうかい。 俄然、やる気になったな」
「……目的は、わたしの料理だけですか?」
「違うよ、キミの全てさ」
「……!? む、無駄話はここまでです! 手早く終わらせますよ!」
「照れてる、照れてる」
「そこ! 黙りなさい!」
「はーい」
それ以降、2人は再び口を閉ざしたが、先ほどまでと打って変わって温かい空気が流れていた。
侑希が本当の意味で自信を持つには、まだまだ時間が掛かるかもしれないが、少なくともその1歩を踏み出したと言える。
また、凜弥が自分で自分を制御出来るようになるのも、きっと先の話だろう。
この物語はここで幕引きとなるが、少年少女は失敗を繰り返しながら、前に進むに違いない。
彼女たちの人生は、始まったばかりなのだから。