5.「ポイント・ネモ」
画面上に走る微かなノイズが、その接続先にいる者による無意識な干渉を表象している。イヤホンから規則的に流れるビープ音。指先は震えるように机上を叩く。手元のバインダーにまとめられたいくつかの個人的な状況整理資料には、赤で大きく囲われた「中止要請」。
諦めかけるほどの間が空いてから通話が繋がり、喉元に詰まった空気が開放される。
『スヴェストルだ』
通話越しの管理官は、現在区画ごと隔離されている。この通話も、二重三重の情報的隔離が音声を加工しており、彼の声を模した機械と話しているようだった。
「セクター3、USOタスクフォースのハレイです」
肩に力が入る。自然と強くなる語気をなんとか御しながら、相手の言葉を待つことなく要件を投げつける。
「管理官、第8次実験を中止するよう掛け合ってください、お願いします」
返答はない。
「USO世界の深層解析が拒否される事象について掘り下げました。これ以上あの世界を観測することは危険です!」
『……説明を』
「ライタールーム観測では見えなかった定義空間に対するアクセスが確立してしまいます。存在座標系からの全貌把握は未だ推定段階ですが、あの世界のエントロピー減少率は異常です。まるで何者かが世界を食べて――」
返答はない。しかし、ノイズが左右に揺れているのが理解できる。
「……とにかく、実施するならば対象を変更してください。主軸観測者にも同様のメッセージをお送りして知りましたが……この実験の対象選定者はスヴェストル管理官、あなたですね?」
『真の狙いは“ポイント・ネモ”だ』
彼は確認に応じることなく、続けた。
『あの世界やアルス空間内に位置する海上座標ではない。お前たちの以前の報告で挙げられた、特異な時空間状態だ』
数か月前。
セクター3に設けられた解析チーム、暫定的に「USOタスクフォース」と呼ばれていた者たちが、現状の観測手段では一切の情報を取り出せない時点を発見した。この世界は未だ脆弱であり、完全な自立状態には至らないまま、観測台の補助を受けてようやく存続している。自立状態に移行できない原因は、前述するようなひとつの特異な時点の証明がなされていないためだ、と結論づけていた。
長らく、ここで何が起きているのかを把握することができなかった。それは急激な世界学的エントロピーの減少、つまり可能性の大量消失であり、また巨大な時間軸のループ点であり、そしてそこに発生する――あるいは、「そのように存在するしかない」――確率だけが残された完全な無。
このような時空点を、彼らは“ポイント・ネモ”、「観測者不在点」と呼称した。
その時点を観測することはできない。しかし、その前後から大雑把な予想を付けることはできる。USOタスクフォースが導いた推論によれば、その時点には文字通り何者も存在しない。数日前まで生命に溢れていた世界が、突如訪れる完膚なきまでの死滅によって閉幕する。情報生命体までも巻き込んだ完全な終焉の時点は、それでも次のループへと繋がるか細い糸を残している。
『我々は確認しなくてはならない。お前たちも、主軸観測者も、実験参加者も』
「待ってください、事故による滑落ではなく、本当にそこまで潜らせるつもりですか!?」
ノイズが強まる。
「いくらフォギング・セルの観測能力が優れていても、そこに定義空間がなければ……!」
『手はある。故にお前たちは到達しなければならない。これはお前たちの必要とする知識であり、私からの警告だ』
管理官の声に、何かの声が重複する。
ノイズが少しずつ収まる。
通話者だけを取り残したオフィスの灯りが消える。
「あなたは誰だ、管理官の中にいるのか」
『プロットは必ず完遂される。その時、お前たちも理解する。
私は最初の火を投じ、そして見届けるだけだ』
『拍動を使命とする者として』
第8次実験は必ず実施されます。
最先端の世界観測室にて、お待ちしております。