3.定例報告
「失礼します、管理官」
電動ドアの微かなモーター音を感知して、スヴェストルは入口を一瞥する。いましがた開いたばかりの資料をぱたりと閉じて、彼は重い腰を上げ、応接用のオープンな机に移った。執務机はいつも資料とコンピューターの筐体で隠されており、秘密主義者の彼らしく、誰にも作業の手元を見せることはなかったのだ。
「定例報告です」
スヴェストルはその言葉に、少しはっとしたように硬直した。いつもならば、差し出された資料を片手で受け取り、数秒ずつぱらぱらと捲って、いくつか質問に答えれば終わる程度のやり取りだ。報告者はむしろ自らに生じたわずかばかりの狼狽に、資料を一度引き戻してしまった。
「……いや、気にすることはない。寄越せ」
管理官は眉間に指を押し当てながら、片手で報告文書を受け取った。
カオス・シード・チェンバーに混入した観測主体。
フォギング・セル観測第4次実験において発見された、未確認の上位存在と思われる。現状セクター3本部は以下のように仮説を立てている。
「対象は自身の定義空間を完全に確立させているものの、純粋カオス化した周辺定義空間に対する影響を及ぼしていない……カオス・シードの発する莫大な可能性を微塵も捕食せず、ただそこへ我々の観測を引きずり込むことだけを唯一の意思としていたと見られる」
紙面をなぞるように、時折小さく息をつきながら読み上げる。しばらく間を置いて、彼は目線を上げて質問した。
「これらの観測事実から、これが“原初の火”ではないか、と?」
「結論としてはそのように。エントロピー食性生物の逆にあたる役割を持っていると考えています。いくつか根拠を明記していますが――」
「……詳細は追って確認する。了解した。ご苦労」
彼は資料を見たまま、元のクローズな机に戻っていく。報告者は戸惑いながらも小さく頭を下げ、数歩歩いたところで、ようやく切り出した。
「ご気分がすぐれませんか?」
彼が精一杯選んで投げかけた言葉に、スヴェストルは少し躊躇いながら返答した。
「時間の流れに異変がある。ここか、外か、または私か」
ルネ・スヴェストル管理官は、その立場上、複数の世界を移動する用件が発生しやすい。ある無界籍組織にも研究員として籍を置き、そこに発生した「主人公」の発生予兆を監視する任務についているのだ。
そのような職務上の理由から、ポータル通過に伴う平衡失調によく悩まされていたと聞くが、今日の事例はどこか異なる。彼自身にも、それを説明できる様子はなかった。
「……セクター3にも持ち帰りましょうか?おそらくこの後、実験環境の維持チームからも報告が来るかと思いますが」
「いや、この後通知が行く。これで目星がつく可能性がある」
今しがた渡したばかりの紙面を指して、彼は告げた。それ以上の詮索を拒んでいると判断した報告者も、そそくさと執務室を後にした。
管理官が“ビブリオテーケー”と呼ばれる定義空間から帰投したのは、こちらの時間で2日前のことだ。あの極めて不快なポータル酔いはさることながら、その日の通過時には大きな「振動」に苦しめられた。無論、ポータル通過中の実体に対して直接、知覚可能な振動現象が伝達することはありえない。管理官自身の精神、あるいはさらに拡大した彼の存在そのものが、強く揺さぶられているような感触だった。
ポータル部門はこれを「一時的な揺らぎの巨大化現象」として報告した。無定義空間内の揺らぎが局地的に、多くの不特定なパラメータの偶発的重ね合わせによって励起してしまい、大きな振動を引き起こした、とするのが彼らの回答であり、現在有意な根拠を持ちうる妥当な結論であった。彼自身も、その回答に納得していた。
彼はひと呼吸置いて受話器を取った。数秒の呼び出し音が止むと、落ち着いた声でセクター2の危機管理責任者に告げた。
「スヴェストルだ。執務室にいる。『上位存在による非明示干渉』アラートの発生を報告する。対象者は私だ」