1.一か月前
実験棟の廊下で、主軸観測者はバインダー上のコピー紙をめくる。
いくつかの数値配列と、参考に添付された図表の一部には、下に向けて収斂していく渦、あるいは先鋭化したブレーン上の質量特異点のような形状が示されている。窓の外に広がる仮想の風景――きょうは綺麗に手入れされた洋風の中庭が表示されている――に目をやると、そこに淡く反射する自分自身、そして肩越しに起き上がりつつある黒い影と目が合った。
少し首をひねりつつ、久々に象ったであろうヒト型の手を見つめる存在。主軸観測者は窓際から向き直り、現れた友の姿に左手を挙げる。友は、深く被った帽子の下で、口元をほころばせた。
「向こうの周期では1年振りくらいかな、“スターゲイザー”」
少しだけノイズの走る仮初の姿で、彼は恭しく首を垂れた。
――――――
「確率フォグの原理解明には君の協力が不可欠だった。本当に感謝してる」
中庭の日差しは暖かく、二人の形を照らしている。
「観測台にはいくつか下部組織があってね。この件でよく働いていたのはセクター2」
テーブル上で凝固するように出現する一杯のコーヒー。
「君がくれたヒントを使って、いまは別のセクターの研究に協力しているんだ」
ひとつ分の影が揺れている。中庭が翳り、大きな雲が白い閃きに象られた空を見上げる。「現地を見る?いいよ、すぐ近いからね。君の存在もまだ保つはず」
――――――
フォギング・セル観測を構成する実験室は、利便性の観点から、ほかの多種多様な設備と同様に存在座標系――要するに高次元の空間に格納されている。本来そのような場所を本拠としている“スターゲイザー”にとっては、その内容物は図面を見るように見通せるだろう。彼をここに通したのは初めてのことだったが、既におおよその構造と機能を理解しているようだった。
「その壁の奥がカオス・シード・チェンバー。言うまでもないけど、ここが破れたら僕は無事で帰れない。君は平気かもしれないけど」
試しに動かしてみるか、と、主軸観測者は投影装置に手をかける。旧式の観測手段でも安定して確認できた、あの世界を見てみよう、と思い立ち、あらかじめ準備していた許可証のパスコードを入力した。バルブを開放する直前、ヒトは急いで錠剤を飲み込んだ。
“Lost_July”。
そのように命名された小さな観測対象は、ごくありきたりな夕暮れの街を映し出す。
キミは、
“スターゲイザー”が口を開く。彼の体にノイズはない。
あの存在を取り除けると思うかな。
「できるかどうかでは、もう考えるべきでないと結論づけたよ」
……そうか。
画面越しの東京に歩み寄り、彼はただ沈黙していた。オレンジ色の陽光がどれほど目に眩しくとも、そして街の様子を詳らかに観察することなど到底できないとわかっていても、目を離せなかった。
不思議だね。ボクはそこにいるのに。
「あれから先は、もう不干渉なんだね」
勿論。ボクはあくまで捕食者だからね。
帽子を深く被り直し、画面に背を向けたのを合図に、観測機能を停止した。煙を排出するようにして、混濁した現実が幕を引いていく。
「すべては摂理の範疇に生まれた出来事だった」
頭に浮かんだ言葉を、ほとんど推敲することなく放り出した。
「それでも、当事者たちにとっては最悪の理不尽だった」
そうだ。
「完全な安全圏はバランスを破壊する。しかし、対抗する術を持たずに滅びることは、僕には受け入れられなかった」
そうだね。
ノイズが、“スターゲイザー”の体に纏わりつく。
「これが僕たちの導いた答えだ。“スターゲイザー”」
主軸観測者は独り、フォギング・セルに立っている。この部屋にはいま、何もない。こわばった表情を緩めて、小さく頷いて見せた。