表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

雪の霧積

作者: 坂井瑞穂

 平成十年二月某日


 霜威の訪いもなく極月は去った。天華の粉飾を見ぬままの越年となった。正月休み、スキーやボードを持って旅行を計画した者たちは皆それを取りやめざるをえなくなった。

 仕事はじめの一月五日、関東各地は皮肉にも大雪に見舞われた。前々日の全国向けテレビ放送で無雪の便りをとどけた群馬県赤城村ではこの日、短時間で積もった雪のために電車が立ち往生するまでになっていた。

 それからというもの四、五日周期で大量の降雪をみるとこんどは<何年ぶり>という発信を繰り返した。首都圏での大雪は三十年ぶりだとかで都市機能を完全に麻痺させた悲惨な有様を暴露するに至っている。

 ただ大雪といっても二度目三度目となると誰もが聞き慣れてしまったようで、いつしか報道の種になることもなくなっていった。

 新町の家では妙子伯母と和明が普段着姿で団欒をとっていた。二人ともこれでスキーができるといって内心喜んでいるのであり、大雪に見舞われたからといって怯むようなことはけっしてない。

 テレビの前で和明があきれ顔をしている。

"なんで皆んな慌てとんのやろ。こんなん秋田とか新潟に住んどる者がテレビ見ながら惘ら笑っとるで。"

"かずちゃん、よかったじゃない。雪が降ってなんとかオリンピックに間に合いそうで。"

"そうやそうや、開催国なんやから盛り上がらんと嘘やで、ほんま。"

"かずちゃんはどこかに滑りに行かないの。"

"まだ決めてへん、けどこのところおばちゃんとも一緒に行っておらへんなあ。"

"それなんだけど今朝の新聞に草津のスキー場で何日間か無料開放するって広告(ちらし)が入ってたのよ。来週末あたり、一緒に行かない。"

"ううん、あすこはなあ。草津温泉はO兄弟の出身地やし派手にやっとるみたいやけど、いつ行っても混雑しとるようなんや。リフト待ち三十分とかね。"

 突然、和明の携帯電話が鳴りだした。平時ならば夕刻には電源を切っておく。それをし忘れたために着信したようである。己は帰宅後まで学友と電話でやり取りをするほど話し好きではない。おまけにきょうは土曜日である。家庭教師で面倒を見ている生徒たちもこんな時間にかけてくることはない。着信番号を確認したがまったく憶えのないものであった。

"誰やろ。"

 通話釦を押すと懐かしいその声の主に一瞬耳を疑った。

"朱鷺子さん、朱鷺子さんやろ。"

"−−−−小田さん−−−−−−−−憶えてますか−−−−−−−−−−−−私−−−−−−−−−−−−−霧積温泉に−−−−−−−−−−−明日の朝−−−−−−−−−横川の駅から−−−−−−−−−−−−−上のほうの橋の−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−"

"もしもしっ、もしっ、朱鷺子さん。あかん、切れてもうたわ。"

 聞き取りにくい声であった。霧積といえば数年前に道路が開通したばかりの僻地である。彼女がそこから電話をかけてきたのなら通話状態が悪いのも頷ける。しかし朱鷺子からの電話を受けるのは初めてのことなのだ。

 おばあちゃんの湯治に付き添うて来とるのやろか。和明は昨年秋の海老島での出来事を思い並べてみたものの、朱鷺子がのこした言葉が妙な口ぶりに感じられてならなかった。

 霧積温泉は同じ群馬県にあるとはいえ朱鷺子が住む西吾妻からは碓氷峠の連山を挟んで直接行けるところではない。高崎から信越線の電車で一時間たらずで横川駅まで行ける和明のほうが遥かに有利に思えた。だがそこはその横川駅から山道を延々二十キロ近く遡った隠れ里のような場所である。行ってみようか。ふと思ったが天気予報では明後日まで降雪が続くようなことを言っていた。脇では相変わらず妙子伯母が何やら気にしながら見ていた。

"おばちゃん、ごめん。明日、用事ができてもうた。"

"誰、お友達。"

"ほら、去年の秋、海老島で一晩世話になった家の−−−"

"珍しいわね。かずちゃんに女の子から呼び出しがかかるなんて。"

 和明は苦笑いした。だが急に呼び出されたという紛れもない事実が彼を興奮させ、朱鷺子に会いたい感情をこみ上げさせているのだ。

"なあ、おばちゃん、さっきのスキーの話やけど、気持ちよう滑るんやったら玉原(たんばら)宝台樹(ほうだいぎ)あたりがええと思うわ。再来週やったら僕も空いとるし、朝一から滑れるように早う発つんやったら国道を外れたとこで運転代わったるわ。春には普通車の免許を取る予定やし今かて教官の車を車庫入れ代わりにやったり結構手伝うたりしとんのやで。

 この間もゼミの仲間たちと運転交代しながら観音山まで行ってきた。まあ、あんま公言できん話やけどな。"

 妙子伯母はとりたてて気を揉んだ様子ではなかったが、しずかな手つきで紅茶を注ぐと思い直したように言った。

"かずちゃん、市城のこと覚えてる。まだ小さかったのよね。"

 和明が四歳の夏だった。妙子伯母が職場の慰安旅行で川原湯温泉に一泊した帰りの電車に途中の停車駅から乗り込もうと兄の美岐男が画策したものだった。兄は和明に、おばちゃんの慰安旅行は現地解散みたいやから川原湯駅を三時すぎに出発する電車にふたりで市城駅から乗り込もうと言った。

 このころ国鉄吾妻線には旧型電気機関車が牽く貨物列車が走っていて、美岐男はそれを撮影するために滋賀の実家から六四五カメラを持ってきていたのだった。岩井洞の狭窄部を川原へと下り、絶壁に沿って走る列車がよく見える地点まで行く。兄がファインダーを覗き込んでいる間、幼い和明は川面に丁斑魚(めだか)を追って過ごした。

 ところがこの日、対岸から市城駅に渡る舟戸大橋が工事のため通行止めになっていた。やむなく旧い吊り橋へと廻り美岐男は和明にこっちを渡れと促したが、当の和明は複雑な造りをした吊り橋の踏み板に足をのせたところで目の回る高度感が彼自身をたじろがせてしまっていた。

"カズ、早う渡ってこんか。電車来てまうやんか。おばちゃん、乗っとんのやで。"

 兄は大声で叱ったが和明はいかんせん吊り橋を渡りきれないでいた。電車は市城駅に到着し美岐男が車内の妙子伯母を見つけたが、やはり和明は来ていなかった。最早思案している猶予はない。電車はすぐに発車してしまうのである。

"おばちゃんは次の小野上駅で降りて待っとって。"

 美岐男の咄嗟の判断だった。吊り橋が怖くて渡れない和明はその場で泣いているものと思ったのである。隣の小野上駅までは三キロ近くあるが小さい弟に無理を強いた自分に非があるのだから背負ってでも行くつもりでいた。しかし橋のたもとに弟の姿はなく、もしやと耳を澄ますと吾妻川の対岸を走る県道の先のほうからかすかに泣き声がする。なんということか、美岐男が判断するよりはやく和明は行動に移していたのだった。

 泣きながら道端を駆ける和明を美岐男が捕まえたのは小野上駅まで一キロをきった東村役場のあたりであった。とにかく三人は無事二時間後小野上駅で合流することができたわけである。

"あのときね、帰りの電車に乗ってる間、みきちゃんがとても満足そうな顔をしていたの。"

"兄貴が。"

 妙子伯母はその日美岐男が電車の中で話した言葉をそのまま復唱した。

"おばちゃん、こいつ堪忍したってな。俺の責任なんやし、吊り橋を渡れんで情けないと思うたけど、俺が考えるよりはやくとなりの駅の小野上まで行こうとしたんやからな。教えたわけでもないんにな、大した奴やでこいつ、ほんま、ってね。"

 和明の記憶がうろ覚えなのは仕方ないとしても妙子伯母にとっては感慨深い事件だったようである。

"みきちゃんにとってかずちゃんは小さくても頼もしい弟だったのね。"

"そうかなあ。"

"あのあと電車が高崎につくまで、かずちゃんが泣きつかれて眠ってしまったの、そっと抱きかかえていたのよ、いまでもはっきりとおぼえてる。"

"実をいうと僕はあまりよく憶えとらんのや、あのときのことは。家でもいろいろと話題になっとったし、あとになってなんとなく知るようにはなったけど、それからやで、ごっつう兄貴にこき使われるようになったんは。まあ、撮影旅行とかあちこち連れてって貰うたけどな。"

 美岐男の撮影旅行にはじめて同行したのは小学一年の夏休みだった。重たい機材を持たされることはなかったが十歳違いの兄について十五キロ二十キロと見知らぬ土地を歩くのである。最初は近畿圏の播但線、姫新線、それから伯備線と次第に足を伸ばしていった。臨時列車が走る情報を得たときの兄の喜びようといったらそれこそ大仰なほどであった。

"おいカズ、汽罐車の運転台に乗れるかも知れへんで。楽しみにしとれや。"

 美岐男はそうやって幼い和明を鼓舞した。勿論彼自身の記憶をたどれど兄の撮影旅行につきあうのは辛いことのほうがおおかった。しかし年齢とともにそれは対抗心へと変わっていった。兄ができるんやったら自分でも、そう考えるのは当然の成り行きであった。未知な旅への探究心は少年の胸に新鮮に芽生え、いつかはひとりで旅をしようと思うまでに至ったのである。

 日帰りが可能なところからだんだんと遠出をする。残雪期の北陸や東北地方へも行った。その土地で眼にしたもの、とくに駅名標は鮮明な記憶としてとどめてある。兄から保育園鞄を持たされ、車内ではできるだけ幼児らしく振舞い、歩くときは齢以上の行動をとるように言われた。

 和明自身が鉄道趣味にのめり込むことはなかったが、成長し体力がつくと兄との旅行はより楽しいものとなった。ただ一度だけ頼み込んでも同行を許されなかったことがある。厳冬期の北海道である。

"ほんま兄貴は無茶苦茶やりおったわ。せやからいま学校でも受け持っとる生徒たちに普通ならあり得んことをやらしとるんやないか、ってときどき思うとる。"

 美岐男は教育大学を卒業すると中学教師として伊香郡にある山あいの小規模校に赴任し、以来そこで教壇に立っている。和明が最後に兄と顔を合わせたのは上州商科大学の入学試験に合格し、妙子伯母の家への引っ越しの準備にかかっていたときであった。

 和明もけっして大柄なほうではないが、暫く会わないうちに兄の背丈を超えてしまったようである。彼にとって己を連れ回した兄がこのとき初めて小さく見えたのだった。だが沸き上がる冒険心を家族の誰よりも理解してくれたのは兄であったように思う。

"カズ、ようけ山登りをしとったそうやないか。どのくらい、登ったんや。"

"深田百名山、二十座登頂したで。"

"おおっ、そないいったか。高校三年間でそれだけいけたら大したもんや。けどなカズ、冬はあかんぞ絶対、冬山は行ったらいかん。"

 美岐男のお節介が意外に感じられた。昔はもっと無鉄砲であったというか、教師が板についてきたからであろうか。

"兄ちゃんは今も電車を追いかけとんの。"

"いや、もう長いことやっとらん。写真機材も埃を被ってしもうとるわ。"

"やっぱ僻地の学校って、生徒指導とか結構大変なんや。"

"別に仕事は関係あらへん。なんていうんやろな、俺が追いかけとった汽車も列車も全部廃車になってしもうたやろ。それにローカル線も片っ端から廃線にされよった。そろそろ俺の趣味も潮時に差し掛かっとんちゃうか、て思うようになっとる。追いかけとっるもんがひとつずつ無うなっていくんやで。

 それに俺も今の中学生と同じで、感動を得る、いうことが少のうなっているかもしれん。これも社会現象なんやろな。朽木みたいな環境におるとな、だんだんとじじむさいというか、変化に乏しい生活に慣れ合うてしまうんやろな。"

 そういえば兄は愚痴っぽくなったようだ。和明は聞き流したくなった。

"そうやカズ、今湖西線が走っとる琵琶湖の西岸はな、昔は江若鉄道いうおもろいローカル線が通っとったんや。俺もあと二十年、いや十年はやく生まれとったらもっと充実した人生を送ることができて、今でも汽車や電車を夢中で追ってたかもしれへんなあ。"

"十年て、兄ちゃんと二十歳も離れとったら---"

 眼を丸くして和明が反論した。

"僕がおもろないやないか。"

"阿呆ッ、例えばの話や。"

 美岐男は和明に、実家を発つ前にいちど自分が勤務する朽木村を訪ねてこいと言ったが、日程が差し迫りそれは叶わず仕舞いとなった。

"群馬のほうは冬は厳しいさかいな、気いつけるんやで。もっともお前は俺と違うて慎重な性格やったな。それに向こうじゃおばちゃんもついとる。"

 和明は兄の変わりようが些か気になった。好きな鉄道を追わなくなった姿がどことなく老けて感じられるのだ。

 朝、昨晩降っていた雪はやんでいたが、玄関前も五センチくらい積もっている。きょうはどこまで行くことになるか想像もつかない。霧積川の上流の角落山の登山口近くまでは行くことになるかもしれない。山靴の紐をしっかりと結び、街路に降り積もった雪を踏みしめるように歩きだす。

 信越線の電車が高崎を発車すると再び雪が降り出した。車窓には大粒の牡丹雪が当たっては砕け散っていく。安中、磯部、松井田と進むにつれ積雪は深みを増しているように見える。左側の座席から前方を覗いてみてもきょうばかりは妙義連山の針峰群が見えてくることはなかった。雪雲が覆い、見えてくるのは白く着飾った急峻な岩肌だけである。

 執着駅の横川に着いた。異様なほどの殺風景、閑散とした空気が漂っている。三ヶ月前までは碓氷峠に入る列車を出迎えるように厳ついなりをした補助機関車たちがところ狭しと唸り音を軋めかせていたところなのだ。

 和明はいま一度気合いを入れなおし駅を飛び出すと一キロ先の、霧積川に架かる碓氷国道の橋を目指した。電話で聞く朱鷺子の声はノイズもあってわかりにくかったが、一言も聞き漏らすまいと記憶しておいたつもりである。

−−−霧積川に架かる上のほうの橋のところにいますから。もしそこで会えなかったら先に行っててくださいね−−−−

 待ち合わせ場所としては適さないのではないか、そう感じられた。この悪天候では雪と寒さで我慢もままならぬであろうに。和明は朱鷺子に会いたい一心で迷いを拭い去った。

 前方を視界が開け、国道の橋が見渡せた。その遠景を一望すると和明は思わず喫驚の声をあげるところであった。向かい側の山を左から巻くように国道は碓氷峠にのびている。そこで霧積温泉に分け入る旧道と新道(バイパス)が分岐しているのだが、左方向へと進む新道が右側から大きくカーブしながら、右へと伸びる旧道を川の真上あたりで乗っ越している。二本の道が橋の上で立体交差をしているのである。

 なんや、これは、和明は一瞬呆気にとられてしまった。これではどちらが上のほうの橋かわからぬではないか。しかもそこはときおり新道方向へ車がぬけていくほかは人気をまったく感じない。朱鷺子がいるかもしれない、と周囲を見回せど人が立っている気配はおおよそ感じられなかった。

 足もとの吹き溜まりを気にしながら和明は道路の隅によると、靴にまとわりついた雪の塊を蹴りながら落とした。複雑な分岐点を前にして再度進むべき旧道の方角を眺める。車道は大回りをしているがよく見ると山の斜面を剤って小道がつけられている。旧道に回り込むのに普段なら近道として使えそうだが、ところどころ積もった雪が膝下が埋まってしまうくらい吹き溜まりになっている。仕方ない、と諦めた和明はそのまま車道のふちを大回りして進んでいく。

 先が思いやられるな、辟易しながら段丘の上まで上がってくると、坂本宿まで一本道が続く旧街道に合流した。前方遥か遠くに高速道路が白い曲線を描いて山を跨いでいるのが見える。まさか、あれが上のほうの橋やないやろな。

 しかし朱鷺子はどうしてあのような曖昧な表現をしたのであろう。いつしか和明は胸のうちに疑念を抱くようになっていた。新道を分けた碓氷旧道は行き交う車も疎らで歩くには都合がよい。歩道は除雪車がとばした雪が深く溜まっているから歩くどころか入り込むのも不可能である。車のエンジン音を耳にするまで車道歩きを続けるしかない。

 痛いほどに吹きつける雪に顔を背けながら道はいよいよ一直線になった。ここから坂本宿までニキロ、の看板がたっている。高速道路高架橋を通り過ぎ、峠下最後の集落である坂本へは苦もなく到着しすることができた。

 宿場町らしく復元された家並みがつづき、各々の家の玄関には屋号を記した立て札がかかげられ整然とした印象をあたえるものの、宿場町独特の落ち着きと昔日の面影はかしこに遺っている。季節が下ってくれば行楽客で賑わうところであろうが、この雪ではいかにも北国の寒村風情にみえてしまう。

 和明は一軒だけ開いている商店を見つけると、そこで食料品を調達していくことにした。霧積まではのこり十キロ以上を歩かなくではならないが、あんパンとスナック菓子があればなんとかこと足りる。あとはひたすら無人の谷を進むだけである。

 霧積道は碓氷峠旧道からさらに右に分かれ、谷幅を狭めながら奥地へと踏み入っていく。道を分けてすぐ、つい昨年廃線となった信越線の鉄道橋ガード)を潜る。その脇を小川が流れ、橋は複線の上下二本がほぼ並行してかかっている様子だ。

 朱鷺子はいったい何処にいるというのだろう。橋脚の基礎部分の混擬土コンクリートにでも隠れているのではないか、和明はたえずそんな気をおこしながら見回し、覗き込んでみた。

 だが時として樹冠に積もった雪がばっさりと音をたてて落下してくるほかは、相変わらず静寂が保たれていた。道は暫くの間信越線の線路に沿っていく。ここはけっしてローカル線などではない。長きにわたり本州の大動脈、主要幹線として役割を負ってきた路線である。当然敷設形態も本線らしい堂々としたものだが、いまはただ一本の列車を見ることすらない。この雪で線路は完全に埋もれてしまいそうである。

 学内の友人に何人か信州出身の者がいて、開通したばかりの北陸新幹線に乗ったときの感想を聞いたことがある。なんでも新幹線の列車は安中榛名駅を過ぎると長い隧道に入り、どんどんと高度を下げていくような錯覚にとらわれるというらしい。地底深くに吸い込まれる感触とでも言おうか、だとすれば旅情もなにもあったものではない。

 アプト式鉄道だった時代に峠を行く列車に乗り、熊の平信号場ではじめて高原のさわやかな風を感じたことがある者であったら、新幹線の旅はどんなものとして受け入れられるのであろうか。

−−−地底深き軽井沢−−−−

 明治二十一年、信越線碓氷峠が開通するとそれまで磯部あたりにいた別荘地帯の主たちは、挙ってさらなる別天地を求めて居所を移していった。そしていまやその観光行楽地は次第に高原の趣を薄れさせる途上にある。

 雪をかぶった廃線は和明の眼にあまりに哀れなものと映った。なにも廃線にすることないやないか。京都の山陰線旧線みたいにトロッコを走らせたり、英国の保存鉄道みたいなかたちで残すこともできたんとちがうかなあ。

 彼だけではない。新聞や雑誌、各方面のメディアもそのことをしきりに報じた時期があるにはあった。だがいつしかそのような話も聞かなくなった。

 アプト式鉄道の時代は知らないが、和明も急な勾配をもつ鉄道の強烈な印象は実感したことがある。美岐男について播但線を訪れたときのことだ。

 その日、兄は線路脇で列車の撮影をすませると、いま写真に撮った列車が待ち合わせてるやつに乗り込むから駅まで全力疾走しろ、急げ、と言った。いま思い出しても無茶苦茶な行動だが美岐男はいつもそうであった。

"俺は機材を持っとるさかい間に合わないかもしれん。そのときはお前、ひとりで列車に乗れ。終点の和田山駅まで行って、そこで待っとれ、俺は次の列車で必ず行く。"

 どこの駅だったかは忘れてしまったが、とにかくだだっ広いホームだった。そのホームの端で列車が来るのを待っていると、やがて通票(タブレット)を持った駅員が現れ、

"下り列車が参ります。"

 と告げた。遠くのほうから鋭い警笛がこだまして列車の接近を知らせている。小学生だった和明は、もうもうと煙を吐く真っ黒な汽罐車がやって来るのを期待して見ていたが、姿を見せたのはなんと真っ赤な色の内燃機関車に牽引された列車だった。

 兄は結局間に合わず、自分ひとりの荷物をかかえながら乗車する準備をしていると、その和田山行き下り列車は動輪を軋ませながら、さもしんどそうに入線してきたのであった。

 己はあまり鉄道に詳しくないが、このとき見た真っ赤な色の内燃機関車が、製造数年で欠陥がみつかり淘汰されていったDD54型だったのだと思う。

 霧積道が線路から離れると、路幅は急に狭まり路面の凹凸が目立ちはじめた。降りしきる雪も凄みを増し、歩行に労苦をしいるようになった。突然、和明の眼前を大きな猿が横切っていった。その四つん這いの動物がなんであるか、その瞬時には判別できずにいたが、崖伝いに攀じ登っていくのを見てはじめて猿だとわかった。

 しばらくすると人造湖のほとりに出た。地図の上では横川と霧積の中間あたりである。和明は背負った荷物を肩からおろし休憩することにした。今後も積雪が深くなっていくであろうから、そう長く休んでもいられない。そういえば国道から分かれて以来、一台の車も見ていない。雪を被った道路には轍ひとつついていないのである。

 朱鷺子はどうしているであろう。前日に霧積へ到着してそこで彼を待っているのであればわざわざ待ち合わせ場所を言ってくるのもおかしい。

"朱鷺子さんは先へ行っててください。"

 なかなか聞き取れぬ電話口で、確かに己はそのように発言したと記憶している。なぜならそれが行き違いを避けるための最善策と瞬時に閃いたからである。和明自身は霧積を訪れるのははじめてのことだが附近の山々へはなんどか来ている。鼻曲山へは軽井沢から登り、角落山へは川浦から入り、男坂を登り女坂を下った。どちらの山行も妙子伯母と一緒でそのとき彼女が霧積温泉は生ぬるくてあまり好きになれないようなことも言っていた。

 霧積の地名をはじめて知ったのは高校生のときであった。それはビデオ映画の一場面として、<霧積>が犯罪捜査のキイワードとして登場するもので、事件の被害者となる外国人がメッセージとして遺したワードの<キスミー>がそうなのではないかと捜査していく物語であった。

 彼をビデオ映画鑑賞に誘ったのはZ高校同年の鈴木康敏だ。

"なあ、ノブさん。"

 和明は仲間うちではだいたいこのように呼ばれていた。

"あべちゃんとこ行ってビデオを見いへん。"

 阿部寿光は学校に近い大津旧市街に住むビデオマニアで、どうせならと和明を誘ったのである。康敏が見たがっていたのは<砂の器>というミステリーだ。主人公が逮捕される直前に、無心になってピアノを弾くラストシーンが強烈にクライマックスをむかえるのである。

 康敏はその場面でつかわれたピアノ曲を自分でも弾きたいと思っていて、以前からこの映画に関心を示していたという。やっぱ、ストーリーを熟知しておらなあかん、とも言っていた。

"ノブさん、亀田はどんなもんでしょう。"

 いっとき流行語になった台詞を引用して、康敏が和明を揶揄っていたこともあった。

 和明はビデオ映画鑑賞にはあまり気乗りがしなかったが、寿光の家の二階から瀬田の唐橋が見えるというのでついていくことにしたのだ。

 霧積が登場するのは砂の器ではなく、人間の証明という映画である。もっとも撮影がおこなわれた頃には道路が通じていなかったから、代わりの撮影(ロケ)地には信州小谷村がつかわれたものらしい。

"これ、ジョー山中やんけ、若いなあ。"

"その人やろ、六オクターブで歌うんは。"

 寿光と康敏が盛り上がっている間、最初のうちは窓の外の唐橋をぼんやりと眺めていた和明だったが、映画が佳境に近づくにつれ画面に釘付けになっていた。

"ほんまノブさんは登場人物に感情移入すんねんなあ。"

 映画を何百本と見ている寿光が言った。そしてビデオが終わると、三人のうち誰からともなく、物語の舞台になった霧積へ行ってみいへんかという話になった。

"僕らことし三年やし、卒業したらバラバラになってしまうやろ。そやさかい、その前に皆んなでキャンプとか山登りとかやれへんかなあ、ってふと考えてみたわけ。リーダーは当然、ワンゲル班の責任者務めとうノブさんや。"

"僕は実際に撮影が行われた小谷温泉がええと思う。近くに雨飾山、いう百名山もあるし、皆んなでキャンプやるんやったら。"

 意見を求められた和明がワンゲル部の部長らしく返した。

"そうやなあ、ノブさんは家の事情で将来は上州に住まうことが決まっとるんやもんな。本物の霧積温泉を訪れるんはそのときにとっておくのがいいかもしれんな。"

 最後は康敏がまとめた。

 結局、和明が提案した雨飾山へ行くことにきまり、彼ら三人の他に松尾、清水、大澗をくわえた六人で最後の夏のキャンプ合宿が実現した。一日目は北陸線を糸魚川で大糸線に乗り換え三つ目の根知で降り、山あいの戸土集落を経て梶山新湯まで、二日目に全員で雨飾山登頂をすませると、信州側の小谷温泉に下った。連日の露天風呂が若者たちの旅をいっそう楽しいものにした。

 小型の天幕を二張り用意し、それぞれに三人ずつはいる。皆が受験生であるから参考書なども持参して来てはいたが、おおいに羽根を伸ばせたようであった。

 この山行にさきがけて和明は仲間たちに一冊の本を紹介した。木戸征治の<雨飾山麓冬だより>という写真本で、これは合宿参加者全員の好評を得たばかりか、清水だったか松尾だったか和明に返したくないくらい気に入ってしまったのだという。

"ノブさんには申し訳ないことをしたと思うけど、あの本を握りしめたまま眠ってしもうたんや。モノクロやし、雪景色の写真ばかりなんやけど、すごく温かみを感じるんやわ。ほんま不思議や。ほんま、ええ本や。"

 感心しきりだった。

 合宿最終日、小谷駅へ下るバスに五人が乗り込むのを見送ると、和明は登っておきたい山があるからと、あと数日滞在する旨を告げて、ひとりで再び山へ戻っていった。

 実のところ彼には妙高山への縦走という目的があったのだ。途中通過する焼山が噴火をおこす危険があるためルートは登山禁止措置が取られているため、あまり正直に言えなかったのである。

 だが康敏たちは和明の行動におおよその見当をつけており、夏休みの終わり頃には彼の成した冒険の顛末を級友たちが噂しはじめ徐々に広まりつつあったのだった。二学期の初日、和明が姿を見せると彼を揶揄する奇妙な挨拶が投げかけられた。

"ノブさん、焼山はどんなもんやったでしょうね。"


  雨飾山麓 冬だより


  小谷 中土 葛草連 

  陽だまりにたたずむあの子は ブルージーンがよく似合う

  ちぎれた雲の隙間の空に 思いを馳せては独り言

  ちょっと触れてしまっただけで 壊れてしまいそうなぼくの恋物語


 鼻歌混じりの雪中行軍、和明は吹雪に億することなく脚をすすめた。霧積集落まであともう少し、というところまで来た。とにかくどこか落ち着ける場所をさがそう。あとのことはそれから考えればいい。躍起になって前へ前へと急ぐと、そのときである。

 深山の静寂を打ち破る轟音が鳴り響き、調子づいていた和明を三たび喫驚のどん底に陥れた。地面さえ震撼させるすさまじい音をやり過ごすと、彼は恰もジェット機が低空飛行をしてきたかのような錯覚を得たが、やがて眼の前に無人の山域には不似合いな巨大な建造物が現れた。

 それは開通して間もない北陸新幹線の橋梁であった。轟音の主は新幹線の列車だったのである。北陸新幹線は軽井沢までのこの区間を長い隧道を貫いて結んでいるが、霧積川を渡るところだけ地上に出て二百メートほどの鉄橋で越すのである。和明が持っている地図にもそれはしっかりと記されていたが、見落としていたものだから轟音に驚くはめになったわけである。

 もっとも時速二百キロで通過する新幹線の乗客にしたところで、ほんの一瞬垣間見える車窓の風景など関心事になりうる筈ないことであろう。たしか上越新幹線も群馬県内は隧道続きで、乗っていて車窓が楽しめないと嘆いたものだった。上毛高原駅の手前で吾妻川を渡る一キロくらいの橋梁のところだった。近くにいた乗客の何人かが榛名山のほうを指差したりして興に入った様子を見せたが、大半は無関心でいたものだ。

 霧積川橋梁の橋桁直下に和明がたどり着くまでに何本かの列車がけたたましく通り過ぎていった。

−−−ここが一番上の橋になるわけやけど−−−−

 和明はいかにも解せない、といった顔をした。朱鷺子が言った待ち合わせ場所のことがまた気になりはじめたからである。

 まさか、ここは違うやろ。到底考えられぬことである。だが不可解はそれだけに留まらなかった。橋桁の真下から霧積集落のほうへ誰かが歩いていった足跡がつけられている。しかし一時間以上前に国道を分けてから己は一台の車も見ていないのだ。それに人も。げんにここに来るまで足跡などまったくなかった。後ろを振り返ると、雪道に歩行の軌跡を刻むようにつけてきた彼自身の靴の跡が遥か遠方までのびていた。

 一体誰がこんな中途半端なところから霧積まで歩いていったというのか。長靴らしいその足跡に自分の靴を合わせてみると、彼の足よりもふたまわりほど小さい。足跡をつけた人物が女性であることを示唆している。そしてその人物が足跡をつけてから、そう時を経ていない。

 朱鷺子さんがここから先に歩いていったんやろか、和明は考えてもみたが、その足跡が己が通ってきた道路に付いていないのがいかにも不思議なのである。周囲に眼を凝らしてみるとそれは意外なところへとつながっていた。

 和明はいま霧積川の右岸に立っている。このあたりでは道路がずっと右岸沿っていくから当然そうなるのだが、そこから鉄橋橋梁の上のほうを見上げると軽井沢寄りの隧道まで保線作業用の階段がつけられている。そこへは鉄柵が締め切られているからむやみやたらと立ち入ることはできないが、その足跡は階段の上のほう、つまり新幹線の線路から降りてきたものと確認できた。

 物証からすれば彼がこの場所に到着する少し前、誰かが保線作業用の階段を降り、この場所から霧積集落へと向かって歩いていったことになる。足跡から判断すると小柄な人物、女性の可能性もあるということだ。

 安全神話を誇る新幹線の各路線ではときおり、保線作業や巡視に使われる黄色い特殊車輌を見ることがある。俗にドクターイエローと呼ばれるそれらは一般車輌が走らない深夜から早朝に仕事をするわけで、当然そこは一般社会から隔離された、いわゆる別世界である筈なのだ。

 和明は足跡をつけていったのが朱鷺子ではないかと直感したが、どうにもその沙汰を理解できずに戸惑ったままでいた。

 霧積まで行けば判ることや、意を決し力強くあゆみだす。もうすぐ朱鷺子さんに会える、そんな気持ちがさらに彼を高揚させ、前向きな行動をとらせた。

 もしかしたら横川の駅からずっと、齷齪しながら歩いている己を木立の陰からでも観察しているのではなかろうか。その刹那、ふと辻風が舞った。ほんの一瞬、和明は背筋を凍てつかせた。

−−−朱鷺子さんは雪女なんかもしれへんな−−−−

 和明ははじめて朱鷺子と出会った西吾妻での不思議な一晩を思い出していた。彼はこれまでに幾度か魍魎の所業を疎ましく感ずることもたびたびあった。しかしいまは動じることのない情念を俄に沸き立たせているのだ。べつに雪女でもかまへん。

 朱鷺子が己に会いたいと願っているのならそれに呼応して遣ればよいのだ。喜び勇んで会いに来たと告げてあげようではないか。

 しばらく続いていた急勾配のつづら折りがいつしか平坦になっていて、川底も手を伸ばせば届きそうなくらい浅くなった。道端に雪を纏った小さな石碑を見つけた。

 霧積が温泉集落として栄えていたのは明治中期頃のことである。この時代には長生館、錦楓館、渓香館といった旅宿のほか多くの別荘別邸が建ち並び、人力車が通うなど現在の姿からは想像できぬほどの賑わいを見せていたという。

 その後度重なる水害のために霧積は寂れる一途をたどり、いまは数軒の温泉宿があるだけである。映画の舞台になったといっても、道路の開通が大幅に遅れたせいもあり、人の訪れも稀有な極僻の土地のままである。近年は雑誌などに紹介されたりして行楽客の利用も増えていると聞くが、閑期となった真冬の今日、はたして宿が開いているか甚だ疑問に思えてくるのであった。

 和明は軽絮荘の前に出た。霧積集落でもっとも下流に位置し、規模もいちばん小さな旅館である。二時間四十五分か、時計を確かめた和明がいかにも満足といった顔をした。この悪条件を考慮すれば順調な歩行であったといえよう。

 軽絮荘の建物を囲う板張りに寄りかかり周囲を見回すものの、相変わらず人の気配を全く感じない。朱鷺子がいるのではないかと期待半分な気で足早にやってきたが、宿泊者は誰ひとりいない様子である。全く物音がしないばかりか、南向きの窓はすっかり雨戸が閉じられてしまっている。

−−−朱鷺子さん、ここにはおらんようやな−−−−

 さらに上流のほうへと踏み出そうとしたそのときである。

"お一人、泊まりですか。"

 和明を呼び止めたのは裏庭の雪かきをしていた宿主とおぼしき親父だった。ちょうどいい、と思い、すこし聞いてみることにした。

"連れが先に来ているはずなんですけど、昨晩はお客さん、いてはらへんかったですか。"

 それとなく打診した。朱鷺子が彼よりはやく到着しているとすれば顔を合わせているかもしれないのだ。だが親父は今朝は誰とも会ってはいないとのことだった。

"この雪でしょう。まだ二、三日降るみたいだから一旦宿を閉めて町へ下ろうか考えていたところですよ。お泊りでしたら大丈夫、お風呂だけでも入れますよ。"

 湯元の源泉近くまで行けばもっと大きな宿があるのだが、周辺のどか雪を見ればそこまで行っても結果は同じであるように思われた。宿泊施設の規模に関係なく来客の見込みがなくなれば宿主たちはせっせと休館にしてしまうということなのだ。

"まだ午前中ですし、お返事もう少しあとでも構いませんか。約束してた人と会えなんだら、僕も今日中に下ることになるかもしれませんし。"

 軽絮荘の周りは吹き溜まった積雪が一メートル近くあった。和明は宿の親父に会釈すると、川田順の詩碑を見やりながら上流へと分け入る林道を進んだ。

 それにしても鬱迂の種は朱鷺子の所在だ。いったい何処に居るというのだ。膝下まで埋めてしまう乾雪(からかゆき)を無我夢中で踏みしめてきた和明であったがいい加減脚を留めたくなった。乗履(ニッカ)の裾にこびりついた雪が体温で溶けだし、それが冷水となって滲みてきているのだ。

 こんなんやったら脚絆(スパッツ)をつけて来るんやった。和明は自嘲気味に深呼吸をする。雪に備えて厚底の山靴を履いてきてはいたが、雪山登山をするつもりはなかったから脚絆は持ってこなかったのである。

 次第に深みを増す足もとの雪に往生しながらも、ふと我に返った。行く手に足跡がないことに気づいたからである。霧積に到着した安堵感で注意を怠ってしまったが、軽絮荘のあたりまではたしかに足跡はついていた。

 凍てつく風が頬を叩き、目の前の樹林には容赦のない横殴りの雪が吹きつけている。和明はふと耳に、鳥の囀りのような微かな感触を得た。こんな猛吹雪のなかで鳥が囀るわけがないと思いさらに耳を澄ますと、どうもそれは彼を呼ぶ掠れ声のように聞き取れた。

"和明さん−−−−"

 幻聴などではなかった。林道が鋭角に折れ、谷をひとつ越えた向こう側の、雪を被った山の斜面に朱鷺子が立っていた。

 乳白色の外套(コート)に身を包み、毛糸の帽子で寒さをこらえているようにも見えるが、粉雪を顔にまともに受けて、眼を細めながらこちらを見ているのであった。

"朱鷺子さん、やっぱし朱鷺子さんや。"

 和明は大きく手を振って合図を送り、はやる気持ちを抑えながら朱鷺子のいる対岸へと向かった。

 朱鷺子は無表情なままその場所を動こうとはしなかった。遠くから見たときはいかにも寒そうな顔をしていると感じたが、別段降雪に身震いしているといった様子でもなく、彼が駆け寄っていくのを見守っていた。雪にも馴れている、といった落ち着きぶりである。着衣も乱れてはおらず、白い長靴が新しい。

"朱鷺子さん、ずっとここにいてはったんですか。"

"さっき着いたところです。"

"寒かったでしょう。こない雪に塗れてしもうて。"

 和明は遠慮なく両手で朱鷺子の服に付着した雪を払った。

"私は大丈夫。"

"僕が登ってくるのを見てたんですか。"

"ええ。"

 朱鷺子の顔が紅潮しているのが判った。口では平気だと言ってはいるが、その白い吐息を切らせがちに、視線も定まっていないかのようである。"

 朱鷺子が前夜軽絮荘に宿泊していないことは、先ほどの親父の話からも明らかである。泊まっているとすればここから先の上のほうの宿ということになるが、彼女が身支度をどこかに預けているようにも思われない。和明に告げたように少し前に着いたというのが本当なのであろう。

 今しがた来たとはいえ、己がたどってきた横川駅からの道でないとすると、霧積に至る道はほかに一本あるだけである。朱鷺子が自動車で長野原町のほうから北軽井沢をまわり、碓氷峠の反対側から林道を下ってきたとすればそれも可能であろう。だがしかし険しい林道をこの大雪の中、運転できるものだろうか。たしかあの林道は冬の間除雪はされない筈であったから、無理にでも突破するとしたらクロスカントリースキーかスノーモービルを使わざるを得ない。

 朱鷺子がそのような冒険をするようにも見えないし、鼻曲山や角落山への登山コースとして使われている夏道をこの時期にたどるのは危険極まりないことである。

"朱鷺子さん、スキーやらはります。"

 和明はそれとなく尋ねた。スノーボードは、雪上車の運転は、一応聞いておきたかったのだ。

"僕も結構はやめに来れたと思うんやけど−−−−、どうも上のほうの橋、いうんが解らんくて。"

 うっかり口を滑らせてしまうところであった。朱鷺子に再会できた喜びが彼を有頂天にさせ、口外すべきでない言葉を出しかけてしまった。だが本心からすればほんとうは彼女の交通手段など問いたくなかったのである。なぜならそれは朱鷺子にたいして正体を問いただす行為に等しいことだからである。和明はそれとなく足もとに目をうつし朱鷺子の真っ白な長靴を認めた。

"長靴履いてきて正解でっせ。僕かて装備万般にしてきたつもりが、ここまで雪降るなんて思うてなかったさかい、ほら、裾んとこ、こないビタビタや。"

 朱鷺子はしばらくの間寡黙を通していたが、その眼差しはしっかりと和明を見据えていた。

"ねえ、和明さん。あなた、ここに来るまでの間、何を考えていたの。"

"えっ。"

"隠さないでください。私のこと、雪女だって思っていたでしょう。"

 和明は弁解の言葉すら失ってしまった。

"そりゃあ、朱鷺子さんがどこにおるんかも分からんから、あちこちでうろうろしてましたけど。"

"でも猜疑の念があったのは事実なのね。"

 感情を昂ぶらせた朱鷺子が妙になにかに媚びるような甘え声をだした。

"私たち、お互いを理解しあえる筈はなかったの。疑り深くなってしまうようでは、けっして一緒にはなれませんね。些細なことに囚われすぎて、どうして仲良くやっていけるというのでしょう。それに昨晩お電話差し上げるまで、私のこと、忘れていたでしょう。"

"朱鷺子さん、それは誤解です。"

 和明はやっと返答することができた。

"僕があなたを忘れるなんて、そない酷い言い方せんでもええやおまへんか。もう正直に言います。去年、初めてお会いしたときから胸の裡に感じるものが、確かにありました。これが一生に一度ことやったらどれほど素晴らしいか。

 けど他のやつらがやってるみたいに四六時中携帯電話を鳴らして話し込まなあきまへんのんか。そないな真似は僕にはできまへん。朱鷺子さん、僕のことあまり知らんさかい。大体、親しい友人かて何ヶ月も顔を見んでも、話もせんでもやっぱ友人は友人なんですわ。ずっとそれがあたりまえやったんですから。"

"あなたはよくても、私はどうなるの。もう、泣きたくなるくらいの感情に苛まれているのがあなたにはわからないのですか。"

 朱鷺子が和明の胸元に摩り寄った。

"ごめん、朱鷺子さん。僕が鈍感やったわ。"

 和明は言葉少なに、声に出して謝った。寂しくなんかない、そう言った朱鷺子の言葉をそのまま鵜呑みにしていた己が愚かしい。思いやりの足りなかった自分自身の非情を心底悔やんだ。

"和明さん、私、無理なことをお願いしたりしません。いまは離れていても、信じていたい。それだけでいいんです。

 和明は頷きながら朱鷺子の素顔を見つめる。だが彼女は足場の不安定な雪の斜面のほうへと手招きしながら、彼を誘っているかのように見えた。

−−−なんで、なんでそないなほうへ−−−−

 不思議に感じた和明が片手を差し出すと、朱鷺子はか細い腕で彼を一気に引っ張った。

−−−そうや、朱鷺子さんは決して怒っとるんやない−−−−

 一瞬放心してしまった和明を、雁字搦めの情念とでも言おうか、しゃにむに抱き寄せた。和明は未知の空間に放り投げられようとする錯雑した思いに我を失った。

 気がつくと彼は山の斜面の雪溜まりを剔ったくぼみに仰向けに倒れていた。頭から積雪にめり込み、淹い被さるように朱鷺子がもろにのしかかっている。

 二人の戯れが雪上での平衡を失わせ、その重みが吹き溜まりに二メートルほどの穴を開けてしまったのだった。

"和明さん、私、どうしたら。"

"どうしたらって、このままでいいわけないでしょうが。"

"でも、動けない。"

 朱鷺子は雪に沈んでしまいそうな和明の上半身に跨がった状態で手足をばたつかせているだけで、ほんとうになす術もない様子なのだ。

"こうなったら、これしかあらへん。朱鷺子さん、びっくりするかもしれへんけど、怒らんといてくださいね。"

 和明は残っていた力を振り絞り、後ろ足で大きく雪面を蹴ると、柔道の巴投げの要領でのしかかっていた朱鷺子を宙に浮かし、すぐさま自らは体勢を立て直して、哀れな彼女を両手で受けとめた。二人でこしらえてしまった穴を踏み固めて、なんとかそこを脱出するともとの林道の脇に並んで茫然と座り込むしかなかった。

"ほんとうに驚いた。私が投げられるなんて。"

"けどああでもせなんだら、僕らふたりとも雪達磨になるところでしたよ。"

 朱鷺子は上半身を和明のほうにもたれさせたままでいる。荒い息遣いが彼女の困惑を物語っていた。

−−−朱鷺子さん、あたたかい−−−−

 脈打つ熱い血潮を肌で感じながら、和明は支えるように朱鷺子を抱いた。雪女などと邪推した己を嘲笑ってやりたかった。そこにいるのは心根の優しいたったひとりの女なのだ。

"ごめんなさい。疑り深くなっていたの、私のほうでしたわね。でも、不安でいっぱいだった。来てもらえないんじゃないかって−−−。"

"僕のほうこそ、ほんとに、ごめん。"

 和明は朱鷺子を見つけるまでの、気が気でなくなっていた己の本心を打ち明けておきたかった。隣では朱鷺子がが息を切らせたままでいる。だがその苦しげな表情とうらはらに、やはり相当に雪に慣れ親しんでいるようで、袖や裾を濡らすでもなく軽い素振りで着衣の埃を払うように落とした。己のほうはそろそろ湿らせてしまった部位が皮膚に触れて痛みさえ覚えはじめているというのにだ。

 仕草の落ち着かぬ和明に朱鷺子が問いかけた。

"この霧積の部落が物語の舞台になっているの、ご存知。"

"ええ、知ってます。映画も見ました。たしか<砂の器>、いや、<人間の証明>のほう、やったかな。"

 和明はわざと惚けてみせた。

"むかし、霧積川の下のほうで女性の登山者が殺されてしまったことがあったでしょう。"

"あっ、その事件、伊勢崎のひとでしょう。"

 自分が生まれる前の事件を彼が知っていたのは伯母に聞いていたからである。

"それ以来、この道をひとりで歩く女のひとっていなくなってしまったみたいなの。私も、横川の駅からご一緒してもらえたらよかったのですけど。"

 ほんとうにその通りだった。和明も延々とひとりで歩いてきた道のりを、朱鷺子とふたりでいられたらどれほど嬉しいことであったであろうか。

"でも私、和明さんの速足についてゆけるかしらね。"

 和明は思わず声を詰まらせた。

−−−朱鷺子さんはなにを言っているのだ。僕が追いつけぬほどの速さで、雪道を駆けているのはあなたのほうではありませんか−−−−

"私って、自分の心に素直じゃないから、いつもこうなってしまうんです。和明さん、はじめて海老島の家にいらしたときのこと、憶えていらっしゃるかしら。あのとき、あなた、鉢植えの花を、眼を凝らして見ていたでしょう。"

"美女桜(ベルベーナ)でしたね、白い美女桜。あのとき僕はあなたのほうを振り返ることができずにいました。なんでか解らんかったけど、睨まれておるような気がして。あのとき、たしかに、あなたの視線に怖いくらいのもんがあったんです。"

"よく言われるの。どうしてそんなこわい顔でって、そんなつもりはないのですけど。でも男のひとって、平気で踏み荒らしたりするものだって、私、思っていました。"

"そない、なんぼ男かて、繊妙(デリカシイ)がないのはあきまへんがな。"

"でしょう。だから、このかただったら大切にしてくださると、直感できたんです。睨みつけていたのではありません、けっして。"

 朱鷺子が甘えるように摩り寄った。

"僕もねえ、あのとき、口に出してええもんか、迷うていたことがあったんですよ。"

 あの晩秋の日、和明がのちに朱鷺子と出会う海老島へと向かっていく数時間前、甘酒ッ原の療養所(サナトリオ)の裏手の荒れ地で紅黄花(ランタナ)の群生を見たことを告げた。

"嘘でしょう。"

"信じられへんかったけど、手え伸ばして花をよく見るとたしかに紅黄花やったんです。"

 それからというもの彼は次々と幻でも見せつけられたように茫然としてしまうきらいがあったのである。朱鷺子に案内され、古い造りの家に通されたあともそれは続いた。

"そのことですけど和明さん、こうは考えられないかしら。その花はあなたに見てもらいたくて咲いたのではないかということ。お花ってね、愛でてくれるひとに対して咲くものなのですって、美しく、精一杯。"

"まさか、そない、いうことってあるんですか。"

"小さな子どもがそうでしょう。構ってほしくてわざと気をひいたり、いけないと言っても、そっちへ行ってしまったり。その子自身、あとでどうなるなんてわかっていないのよ。

 その紅黄花も和明さんを慕って暖かいところからついてきたのかもしれないわ。"

 だとしたらなんと残酷な結末が待ち受けることであろうか。あの花たちはやがて迫りくる厳しい季節の気配を訝ることもなく、己についてきてしまったというのか。もはや同じ場所で紅黄花を見ることは叶わぬであろう。

"なんだか罪の意識、感じますね。無垢な草花を前に僕に非があるみたいで。"

"そうかしら、損得勘定もせずに清らか生きているようで、素晴らしい命だと私は思いますけど。"

 和明は聞き漏らしてしまったが、私がそうですもの、と朱鷺子が言ったような気がしていた。

"私、亜熱帯植物を育てて咲かせたことはありませんし、枯らせてしまったら可愛そうでしょう。"

 和明と朱鷺子は軽絮荘が見えるところまで下ってきた。雪も小止みになって林道にはしっかりとふたりの足跡が往復分つけられていた。この場にての再会をあたかも約束していたかのように、互いの足跡が錯雑しながら雪解けを待ちわびているのだ。

 軽絮荘の入口は雪掻きが施され、ほどよく歩ける状態に片付けられていた。しかし今後の天気如何では数時間でもとの(てんこ)盛りに戻ってしまうかもしれない。

"雪、やみそうにないですし、ここに泊まっていきませんか。時間が許せば、ですけど。"

"明日までに帰れれば私も大丈夫、荷物をとりに行ってきますから待っててくださいね。"

"ほんなら僕は、さっきのおっちゃんに話つけてきますわ。"

 軽絮荘にはいったふたりは階下の客室に通された。渡り廊下をへだてた奥の宿舎棟は相変わらず空洞のような静けさである。朱鷺子が置きっぱなしにしていた荷物を持ってきたのだが、それを見るなり和明は呆気にとられた。彼女の荷物というのは木製の背負子に布袋を縛りつけただけのものだったのだ。この時代、鉄砲撃ちでもなければ使わないような代物である。

 和明たちの部屋は谷間向きの窓から光を入れる造りになっているが、その窓が着雪と氷柱で開けられなくなっている。仕切り壁の真ん中に年代物の大きな柱時計があって正午すぎをさしていた。

 和明は濡れた足元が、もう我慢ならないといった様子で炬燵に飛び込んだ。ビタビタにしてしまった靴下は脱いだあと絞って、外の氷柱に差してきたが、あれもあとでも乾燥室にでも持っていかなくてはならぬ。このままほおっておいたらさらに雪が積もって回収できなくなる。

 寒かったでしょう、と朱鷺子にも暖をとるように促したが、彼女は窓の外の雪景色に見入ったきり応じなかった。彼らの客室は広々として落ち着いた佇まいをもっているが、炬燵から出ると窓にこびりついた結露が迸ってきそうなくらい、部屋の中の空気は凍てついているのだろう。おっちゃんに言ってあんかを借りてこようか、和明はふと考えた。

 朱鷺子は寒くないのだろうか。それにさっきからどことなく浮かぬ顔をしている。和明は朱鷺子が気も漫ろなのは空腹にあえいでいるためではないかと思い、己のナップサックから坂本宿で買った菓子類を出してみせた。

"おなか、空いてへんですか。"

 と言いながらクリームパンをひとつ渡す。朱鷺子は一言だけ、

"ありがと。"

 小声でいうと、すぐにかじりついた。まるで欠食児童がするような仕草に見えて和明は可笑しかった。

 やっぱし、おなかへっとったんやなあ。しかしこの日の朱鷺子は用意周到を欠いていると思われる節がいくつかあった。仮にも商店主の孫娘である朱鷺子が僻地へと旅に出るのなら、食糧ぐらいは予め準備するのではないか。それともそれができぬほどの急な思いつきでもあったのか。

 宿に着いてから朱鷺子は口を重くしている。成り行きとはいえふたりきりで泊まることにしてしまった。己が示唆し、誘導したと捉えられても返せない立場なのも事実なのだ。和明はそれとなく朱鷺子に、この雪の中、どのような道順でやってきたのですか、と聞いてみたくなった。だが彼はそれを切り出せないでいる。彼女が返答に困る質問だけはどうしても避けておきたいと慎重に構えてしまう。

 炬燵の温もりが次第に睡魔を召喚しはじめてきた。

"朱鷺子さん、霧積は初めてやないんでしょう。"

"ええ、おばあちゃんとなんども来ているの。でもいまはおばあちゃん、歩くの億劫になっちゃって、それに寒さとこの雪でしょう。

 和明さんのこと、よくおぼえてて、高崎の大学生のお兄さんに一緒して貰えばいいっておばあちゃんが言っていたわ。"

 和明は眠気を怺えながらも退屈を凌ぐ術を見いだせないでいた。朱鷺子がどことなく落ち着かない素振りでいるのに、己がどうしたらよいのかわからぬのである。

−−−そうなんやろな、冷静に鑑みても僕ら、恋人、いうにはなんか足りとらんもんがありそうやし。もう、深う考えんのやめとこ−−−−

 やがて和明が午睡の夢魔を払いきれずに、炬燵に身体半分入れたまま俯せていると、突然、部屋のテレビが大音響をたてて映像を流した。

"ユースケ・サンタマリアじゃあありませんよ。筧利夫なんですよ。"

 画面からはひっきりなしに爆笑が聞こえてくる。

"でも女将さん、鮫がシャークなのはわかったけど、なんで俺に投げつけるの。"

 和明はボリュームの大きさで眼を醒ました。気がつくと朱鷺子がテレビの操作機釦(リモコン)を持ったまま右往左往しているではないか。彼女は最大限にまで上げてしまった音量を下げられずにいるのがすぐにわかった。

 騒がしい娯楽番組に夢心地を邪魔されたようで疎ましい。どうしても生活臭に埋没した日常へと引き戻されるのが厭なのだ。

"ねえ、それ、消しません。使いかた、わからんのやったら僕に貸して。"

 和明が炬燵から手を出して催促すると、朱鷺子がそれを渡そうとするよりもはやく音量は下がったものの、こんどは選局(チャンネル)が変わった。

 画面にマラソンレースの中継が映った。その興奮気味の実況を耳にした和明は、

"ええわ、やっぱ、消さんといて。"

 と好き勝手なことを言った。

 炬燵から立ち上がり、座布団にあぐらをかいてテレビに見いいると、うららかな春の陽光を浴びた南国らしい海岸線を、黒人選手が悠然と独走する様子を伝えている。ときおり二番手集団の映像に切り替わるが、だいぶ後方に離されている模様である。

"先頭は殿下セメントの赤瀬川−−−"

 不思議そうに画面に眼を遣っていた朱鷺子が口をひらいた。

"このひと、日本人なの。外国人じゃないの。"

"朱鷺子さん、高校駅伝競走とか見ません。五、六年前に新潟讓福館高校が信じられへん時計を出して優勝したことがあったでしょう。そんとき一区の十キロを世界記録なみの速さで走ったセネガル人留学生やったユースファ=メネングが日本に帰化したんですよ。五輪(オリンピック代表選考もややこしい、なるって新聞でも大騒ぎなんですわ。"

 朱鷺子はマラソンレースには関心がないとみえて、窓辺に腰を下ろして、しきりに曇り硝子に息を吹きかけてはハンカチで擦って外の風景に眼を向けている。

"あとでもう一度外へ行きましょ、暗くなる前に雪道のお散歩。"

 冷烟のすさぶ吹雪のなかを、朱鷺子は言っている。和明は少々たまげたが、宿に入ってからすっかり無口になった彼女を思うと、話しに弾みがつこうものならと連れだって出かけることにした。

 和明が己の荷物の中味をみると靴下がもう一足あった。

 よし、これを履いて行こ。和明は脚絆を持っていない分、靴下の上から足を買い物袋でかぶせ、山靴を履く。これで冷たい雪どけ水に悩まされることもない。

"さあてと、行きましょか。準備もできましたし。"

"マラソンは、見ないの。"

"もう、赤瀬川隼人の優勝。勝負はついたようなもんですやん。タイムはだいたい二時間八分二十秒ぐらいかな。"

 いい流してテレビのコンセントを抜いた。

 和明と朱鷺子が軽絮荘に入って、旅の午後を憩う間も雪は降り続いていたとみえ、道路の端の部分は十五センチほど深みを増していた。幾分気温が下がっているのであろう。手袋をしていても中の手が、指先に痛みを感じるくらいに悴んでしまっている。

 午前中、雪道の上をふたりでつけてきた足跡も綺麗に消えてしまっている。仲睦まじく肩を寄せて歩いた、その証しさえも過去の彼方に忘れさせてしまうがごとく。

"寒いでしょう、ごめんなさい。"

 朱鷺子は申し訳なさそうに言った。

"いやあ、このぐらい。こんなんで寒がってたら、スキーなんてできませんよ。あっ、居眠りしとったせいで回収すんの忘れとったわ。"

 和明が先ほど氷柱にひっかけておいた靴下を、思い出したように手を伸ばしてはずそうとするとそれはカチンカチンに凍っていた。

"ううっ。"

あまりの固さに言葉を詰まらせた。そして威勢よく強がりを言ってみたものの、身にこたえる冷たさもあって和明は思うように話を切り出せないでいた。せっかく清冽な気分を分かち合える好機であるのにどうにかならないものかと画策していると、宿に入る前に朱鷺子が無心に訴えていた花木への思いが脳裡を掠めた。

 もちろん彼自身は実際に植物が意思を持つなどとはにわかに信じ難かったが、これから先朱鷺子と共に暮らすことがあろうものなら、住まいを多彩な花で飾り、おおいに喜ばせて遣りたいと思うのだ。

 雪道が白一色で変化に乏しく見えていたためにいままで気を留めることはなかったが、附近を繁生する樹木はすべて楓の木であることを認めた。樹冠をもたぬ無防備な落葉樹林は天の仕打ちをそのまま鬱積させるかのように、その根元にまで吹き溜まりをこしらえていた。

"朱鷺子さん、見て。これ、全部楓の木ですよ。"

 ひとり和明は感激に酔っていた。彼はこれまで楓を優先種とする天然林に触れた試しがなかったのだ。天然の落葉樹林といえば概ね山毛欅(ぶな)が優先種となり、それに楓が趣を加える程度である。そして楓や蔦、漆、櫨の赤色は年ごとの気象条件などに影響されて色合いを微妙に変化させるから、山毛欅の黄色よりも遠景の鮮やかさを際立たせる因子となりうるのである。

 誰であったか日本の山々は諸外国とくらべて、秋になると深い赤色に紅葉するから遥かに綺麗だと言っていた。そしてそのなかにあっても東北地方南部から北関東にかけての山が最高であると。

"ロシアではね、紅葉することをジェレーチェというのですよ。大陸の森林では優先種となるのは白樺になります。これが色変わりの季節に鮮やかな黄色になるから、黄色を意味するジェレーチェというわけなのですけど。"

 和明は雪に混じっていた小掌葉の枯れたものを拾いあげると、平たく伸ばして朱鷺子にみせた。実は和明もロシアの詩人たちがしきりに使いたがるスミレーニェという言葉の意味をわかりかねていたのだ。それが哀愁(パフォス)と同類の意味なのか、恥じらいを示すルミニャツに近いのか、なんでもロシア人だけが感受できるものだという。

 深い雪溜まりを踏み入って、堅く引き締まった楓の細い幹をそっと撫でてみる。山毛欅のように巨木とはならない楓が鷹揚と、天空にその細い幹を伸擡げているのが確かめられた。それを見上げながら和明はほっと息を零した。

 かりに朱鷺子の言葉を借りるならば、ここの山の楓の木たちは訪れる者たちの眼を癒やすべく、みずからの小掌葉を鮮やかに彩って見せているのであろう。そうはいっても幼少のころから上州の山々が紅葉するのを悉さに観察しているであろう朱鷺子にしてみれば、己とはまた別の感慨を持っていてもなんら不思議はないと思えてくるのである。

"和明さん、どの色が好きですか。"

 ふと朱鷺子が聞いてきた。

"どの色って。"

 和明は朱鷺子の質問の意図が、いま話していた楓の紅葉にあるものと受け取った。でなければ一面の銀世界のなかからいったいなにを見い出せというのであろうか。

"あなたが幻だったかもしれないと言っていた療養所(サナトリイ)の紅黄花には、七変化の別名があるぐらいたくさんの色の種類があるでしょう。橙色、桃色、白色、それに花が小さい藤色のもありますわね。"

 そうか、そのことかと思い含めて和明は答えた。

"僕は濃い赤紫色のが好きですね。紅黄花って咲きはじめは淡い色をしとって、日毎に濃い色に変わっていくでしょう。せやけど色の変化って規則正しいさかい、あしたはこのくらいの色になるやろな、て計算、予測できますやん。僕は七変化の異名は正鵠を射てないように思うているんです。

 けどこれまで一度も冬を越させてやれへんかったなあ。僕の実家って鈴鹿の山も近くて冬は結構寒くなるんですよ。ちゃんと家の中に入れて、日当たりがいい窓んとこに置いとくんやけど、萎えてしまうんやなあ。"

 和明は朱鷺子の異名何故紅黄花を好きになったのか、経緯を話した。小学生時代の夏休みに頻りと家族や親戚ぐるみで訪れた南紀の潮岬や古座、周参見あたりの目のまわるような切り立った断崖には、そこに沿うように薮となった照葉樹林が生い茂る。そしてそれらの薮の際周辺には少しでも多くの陽光を浴びようと紅黄花が枝葉を群がらせ、花を繚乱させていたものだった。愛らしい花の色合いにくらべ、紅黄花の幹は厳つくて硬い。その不釣り合いな姿に、雑草のような強い生命力を認めたのである。

"ハワイとか熱帯地方では繁茂しすぎて、危険種に指定されてるみたいですね。"

 ほんのり浮かべる朱鷺子の微笑みが和明を純幸の園へと誘う。それはもう半分くらいは己の心情を理解してくれているという安堵の落ち着きでもあった。美女桜(ベルベーナ)の絨毯を庭に敷きつめ、けっして花を絶やすことをしなかった朱鷺子ならではの了承であったのかもしれない。雪烟に絆されてはいたが、空が幾分暗がりを滲ませつつあった。

"和明さん、私がいま何を思い浮かべていたかわかります。"

 唐突な問いかけに返す言葉も捜せずに、和明は動傾いた。

"さあー。"

 と一応生返事で口を濁したが、ほんとうは己は人の心を読むほどに勘が鋭くはないのだと返して遣りたかったのである。

"私はね、あなたが私の知らない遠いところへ行ってしまうのがすごく不安でしたの。でももう決心がつきました。たとえあなたが不思議な能力をお持ちで、私が触れていられるのがあなたのすべてではないのだと知ることになったとしても---

 それでも毎日を、きょうはどんなお話を聞かせてもらえるのかしらって、待ち望んでいられればそれだけで幸せを感じることができますでしょう。人間て誰しも背伸びしすぎることなく生涯を全うさせられるものだって、私は思いますの。"

 和明はずっと心のなかで声を聞いていた。つむじ風に消え入りそうな細い声だとはいえ、これが朱鷺子の本心なのだろう。

−−−私たち、これで一緒になれますね−−−−

 たしかにそう言ったのを耳の奥底で拾った。刹那、無心に抱き寄せたい衝動に駆られたが彼の眼には、粉雪の舞うなかを走り去る朱鷺子の後ろ姿が映っていた。

"待って。"

 即座に追おうとした和明を吹き溜まりが足枷となって妨げた。己の無力を露呈してしまった落胆でどうすることもできないでいると、彼は背中越しに両の肩を掴まれた。そう、和明が見たのは幻だったのだ。朱鷺子は彼を後ろから抱き竦めていた。

"ああっ。"

"動かないで。そのままでいてください。"

 朱鷺子の声が上擦った。卓殊の悦びを感じているに違いなかった。

"髪、長いのね。"

 深く被った帽子から和明の後ろ髪が垂れているのを見つけると、朱鷺子はそれを翫ぶように撫でた。そして嬉しそうに眼を細め、頬を擦り寄せた。

"いい匂い。"

 こっちを向いて、と促された瞬間彼は唇に針の痛みを感じた。朱鷺子がなにをしたのかもわからずひたすら金縛りに遭っていた。

 和明は運命(モイラ)の姉妹が幻聴を差し向けてきそうな恐怖で身震いを押さえきれなくなっていた。人生の決断を迫られるときに必ず現れるという、蜜林檎の生い茂った急峻な谷間を想像した。甘酸っぱい香りに誘われて谷を下ってはいけない。谷底で彼を招覧するのはけっして朱鷺子ではないのだ。

 幻視も幻聴も和明を憔悴させることはなかった。気がつくと眼の前で朱鷺子が己を見つめてなにかを言おうとしている。つぶらな眸に薄っすらと涙をうかべてているのが判った。

"私、男のひとの髪がこんなにもいい香りだなんて思ってもみませんでした。もう、木の香りと一緒なんですもの。"

 そうなのだ。朱鷺子はその研ぎ澄まされた感性をもって、深く眠りについた樹林帯のなかから楓の若木が息吹くのを聞いていたのだった。

"僕やったら、独活の大木かなにかですよ。"

 和明は冗談を言って笑ってみせた。朱鷺子が泣いているのならせめても慰めて遣りたかったからである。

"僕、的外れなことを言うてもうたみたいですね、朱鷺子さんのことを雪女やなんて。撤回します、朱鷺子さんは雪童子(ゆきわらし)やわ、雪童女(スネグロツカ)。"

 何を思い詰めたのであろう、朱鷺子はそれきり言葉を返さなかった。

"戻りましょうか。"

 和明は朱鷺子の肩に手をかけた。帽子が後ろにずれて脱げそうになっていたから直してやると、朱鷺子は仄かに笑みをみせて頷いた。

 雪はいつしか止んでいた。互いの愛情が縺れて、それに起因するであろう葛藤や幻視幻聴の類い、心のなかを渦巻いていた靄がすべて払拭されると、あらたなるその手応えを、一歩一歩雪道を踏み固めていくことで感じ取っていた。 

 和明はいま、漠然とした未来へ向かわねばならぬ己の立場というものを自覚していた。手始めに朱鷺子の家の商売を向上させてやらなくてはならないだろう。いかなる場合においても生活苦だけは味わわせたくはない。店を今風のものにして遣るのはどうだろう。父や兄も巻き込んで資金を調達するのは可能だろうが、その適当な時期というものが見えてこない。

 そんなの私でしたら平気の沙汰です、朱鷺子は気丈に振舞うかもしれない。だが近い将来、その必要に迫られるのは当然至極なのである。もちろん己の商科大学の学生としての矜持(オルグリオ)も完全に粉砕されてしまうかもしれないが、現実問題、それも避けて通れぬものと認めざるを得ない。和明はあれこれと、ひとり思案をめぐらせていた。

"なにを考えているの。"

 自然と気難しい顔になっていたのだろう、朱鷺子が呼びかけた。

"判りませんか。"

"判りません。私を伝心術者のようにいうのでしたら、それこそ買いかぶりです。"

 たしかに言うとおりだったと和明は痛感した。朱鷺子が敏感でいるのは自分に向けられた他者の眼に対してのときだけなのだ。読心術を駆使するような魔性の女でないことは今さっき十分に知らされたばかりではなかったか。彼女には判ろう筈はない。和明はただ己の身の振りを描いていただけなのである。

"雪景色を見ながら心のなかで音楽を聞いていたのね。たしか歌も得意だとおっしゃってましたもの。"

 朱鷺子の一言が和明の肩にのしかかっていた重荷を軽くした。彼は今日のような雪に沈んだ一日に拝聴すべき相応しい名曲があったことを思い出した。グリッグ作曲のピアノ協奏曲(コンチェルト)である。高校時代の冬のある日、雪の日に鈍色(にびいろ)の空を見ていると押し潰されそうに思えて、気も重くなってしまうからと、康敏が薦めてくれたのだ。なんども手練の早業を間近で見聞きしてきたから印象強く残っている。満更その言葉には誇張はないと感じた。とにかく北欧調の旋律に鬱鬱と塞いだ心が癒やされていくのがわかる。

 雪などに怯むことはない。この抑圧された想念はいずれの日にか峡湾(フィヨルド)湖水(スオミ)の国を旅するための序章として出くわしているだけなのだ。その旅も願わくば白夜の頃に行くのがいい。

 軽絮荘の玄関口脇の出窓に氷柱が何本か垂れ下がっている。大きいものは二メートルに達していそうで、それを見た和明は眼を丸くして舌を巻いたが、朱鷺子はそれに見入るでもなく早々と室内へと上がってしまった。

 こんな氷柱がさも珍しいとでもいうように、和明がそれらの尖った先端に手を触れたり悠長なことをしていると、

"お帰りなさい、寒かったでしょう。"

 親父と鉢合わせた。

"新婚さんには厳しすぎる荒れ様ですね。これから先、人生は長いのだし幸せな家庭を築いてください。喧嘩をするほど仲が良いといいますからね。"

 和明たちが雪に塗れて言い争っていたのを見ていたかのような口振りである。新婚の夫婦に見間違われたこともあるが、ここは苦笑いするしかなかった。朱鷺子を追って部屋へと向かう。

"朱鷺子さん、お風呂入れるて。"

 彼も現代の流儀に身を宿して生きてきたつもりである。女性に先んじて入浴する気にはとてもなれない。部屋に戻ると朱鷺子はもう手際よく着替えの準備にかかっていたところだ。

"私がお湯を微温くしたなんて言わないでくださいね。"

"もう、戯句(ギャグ)を噛まさんといてや。ここの温泉は、源泉かて三九度ぐらいなんやから、さっきもおっちゃんが焚き付けの薪をようけ持って降りて行きましたがな。

 少々微温く感じても、霧積温泉は湯冷めしないという評判なのだが、さすがにこの季節、入浴方法を間違えたら逆に風邪を拗らせる結果となろう。

 朱鷺子はまだなにか気を病んでいるのかもしれなかったが、湯支度するときの表情は彼が初めて見るものであった。

−−−朱鷺子さん、えろう大人っぽい顔をしとったなあ。−−−−

 思わずあとで歳を聞いてみようかという気にさせられた。掘り炬燵の熱で足腰を温めながら、和明は上着の内ポケットに入れてあったジャガーロフの訳詩集を読み返すなどして時の経過を待った。

 そして朱鷺子と入れ替わりに階下の温泉浴場へと降りた。

"気持ちのいいお湯ね。雪女だったらみんな溶けて流れ出てしまいそうなほど−−−"

"まだそないなことを言うて、そんなんやったら僕があとで雪男になろうかな。"

 浴場は想像していたよりも広く、造りも意外と頑丈そうである。行楽客の多い季節には入浴だけの人たちも捌いていかなくてはならないから、それに合わせた規模になっているのであろう。それだけに温度調節はしっかりされているようだが、洗い場へ上がると一気に冷え込む。湯に浸かったままでいれば微温湯すぎても困惑することもないだろう。

 天井からしたたり落ちる雫滴に混じってときおり大きな雪のかたまりが落ちてきては湯面に撥ねている。よく見ると湯煙を逃がす天窓が開いていて塔屋に付着した湿雪がそこから舞い込んでは落ちてきているのだった。和明は時間を忘れ、肩を湯に沈めた。

 和明が部屋に戻るとすでに夕食が用意されていた。飯に肉と野菜をごった煮にした鍋物だけの簡素な山賊料理である。季節柄品数も限られてしまう旨、宿賃もまけさせていただくと、親父が告げていったそうである。傍らで固唾をのんでいた朱鷺子が酒の徳利を指差した。

"おじさん、私たちのことをなにか勘違いしているみたいでしたけど、これがお祝いなんですって。"

 和明は盃にそそいでひと口含んだが、その酒は地元の銘酒で名高い<国堺>であった朱鷺子には先に箸をつついてもらうことにして、己はもう少しの間気分を味わうことにした。

"うぇい、日本酒、最高やで。"

"和明さん、未成年なんでしょう。"

"未成年、ですけど大学生ですさかい。"

 そう言って盃に注いだ酒を一気に飲み干した。都会では珍しい山賊料理だが、朱鷺子はいかにも食べなれているといった様子である。

"おいしい、これは鹿の肉ね。"

 鉄鍋で煮込んだぶつ切りの肉が蕩けるようだという。ゆうに四、五人分はありそうな大鍋から椀に掬っては満足げな顔をみせている。

 酒がさらにもう一本差し入れられた。張り詰めていたものが吹っ切れたせいもあろう、和明はいい加減酔いが廻りはじめてきた。なんということだ。この程度の量の酒で酩酊してしまうとは、和明は己の宜忽無さを羞恥したが平素ならばありえぬことである。

"私さっき、そこの踊り場のところでおもしろいものを見つけましたの。"

 食事を終えていた朱鷺子が悪戯っぽく言うと、四つ切り位の薄手の紙を一枚、すっかり腰を重くした和明に見せた。土産物の包装紙かなにかであろう。小さな文字が余白を余すことなく殴り書きされている。

 焦点の定まらぬ眼で文字を追うも、寄せ書きされたそれらのすべてが文学作品だと判るまでに数分を要するほどに、和明は頭の回転を鈍くさせていた。

 行書体で綴られたそれらの文字が読みにくいほど小さいばかりか、全部に眼を通すのが難儀になるほど作品の数が多かったのである。

"誰のだか分かりますか、私、ぜんぜん分からなくて。"

 朱鷺子が教えてほしいというから、和明はその紙面を真剣に凝視した。

 最初に見覚えがあったのは、小諸なる古城のほとり−−−、にはじまる島崎藤村の詩だった。次に、−−−人の生涯のいちばん美しくあるべき青春の−−−、とある伊藤整の<青春>、その序章部分を探し当てた。

 落ち着いて見較べれば逐一判明できるかも知れないと思い、ほかにも憶えのあるものを順に追った。堀辰雄が軽井沢で詠んだという<ロミオとジュリエット>の詩があった。もうひとつ、著者が誰であったか忘れたが、<北越雪譜>という古い雪国紀行の一節とみられる文章も見つけた。

 それから、久しぶりに母を訪ねて詠んだという詩はおそらく西条八十のものであろう。形式が霧積の地名が出てくる<帽子>という詩に瓜二つなのだ。

 だが残りの二十近い作品に関しては皆目見当がつかなかった。降参した和明は仰向けになって天井を見上げた。

"あかん、わかりまへん。朱鷺子さん、ごめん。"

 再び酩酊の萌しが襲いかかってくるともう、立ち上がることも随ならなかった。夢うつつのうちに食卓は下げられ、布団が敷かれると、朱鷺子の手を借りて寝床に就くまでの微かな感触だけは覚えていた。

 翌日、部屋の中の様子が一変していることに気付くように、和明は眼を醒ました。朱鷺子の布団はすでに畳まれ、あの厳つい背負子が持ち主もろとも消え去っていた。朱鷺子は早朝に出発してしまったのである。

 和明が大欠伸をかましながら床を出たのは七時前のことだった。どうやら昨晩の酔いはのこってはいないらしい。窓から明るい光が漏れてくる。昨日、大雪を降らせた爆弾低気圧は遠く去っていったらしく、爽やかな青空が徐々に陽光を差しはじめてきている。

 親父が朝の挨拶に現れた。

"お連れさん、早くに発っていかれました。なんだかものすごく急いでいらっしゃるご様子でしたが。"

 そうはいっても朱鷺子は交通手段を持っていない筈ではなかったか。

"泊まりのお客様を早朝にお送りするのはうちでもよくあることなので、私もつい、そのまま

見送っていまいました。お代もちゃんとふたり分頂いていますのでね。"

 なんという急な展開なのだ。朱鷺子は出発に際して、己のぶんまで宿賃を払っていったという。思わず和明は頭を掻いた。寝起きは悪いほうでないと自負するが動悸と脂汗がとまらぬほど仰天を隠せないでいた。とにかく後手を踏んだ己が情けなく、不甲斐なく、悔しくてならなかった。親父は間もなく朝食を運んでくるという。

 朱鷺子が一言もなく行ってしまったのはたしかに心残りであったが、おばあちゃんを長いこと放っておけない彼女の心情を思うと、とても責める気にはなれなかった。

 親父が持ってきた食膳には昨晩の鍋物を温めなおしたものが載っていた。宿の飯には珍しいったが、己は夕べ椀に一杯しか味わっていないから反って好都合である。それにこっちは代金をまけてもらっている身なのである。尤もそれは朱鷺子が先に払って行ってしまったわけなのであるが。

"お嫁さん、いえ、これからご結婚されるのでしたね。私のぶんもあなたに食べさせてあげてくださいと言われました。お客さんのこと、私の大切な人ですからと、はっきりとね。

 今どきの娘さんには珍しい、気丈でしっかりした方です。いい奥さんになりますよ。"

 朱鷺子の気遣いが彼の落胆を幾分軽くしたには違いなかった。しかしこうして狐に摘まれるようなことがたびたび起こるようでは、結婚など何時のことになるやらと途方に暮れてしまうのであった。

 山賊鍋の鹿の肉が少し硬くなってはいたが、昨夜朱鷺子が美味しそうにしていたように、直ぐに鍋を空にした。満腹感で平常心を取り戻すと、和明は漸く戸惑いをおぼえることもなくなった。

 親父の話だと今後十日ほど宿を閉めるのだという。この間、泊まりの予約は全くなく、再び悪天候に見舞われれば町に下りることもままならぬこととなるからだという。甘楽町にある本宅に帰る序いででもあるからと横川駅まで車で送って貰うこととなった。これは荷支度を急がねばならなぬ。

 彼の布団が敷いてあった処には、昨夜悪戦苦闘した包み紙が巻物にされて輪ゴムで留められていた。折り目がつかぬよう荷物の中には纏めず、手で持っていくことにした。

 和明はその包み紙を親父に見せて尋ねてみた。霧積の温泉旅館では以前、弁当をくるむ包装紙に詩歌の綴られたものを使うという、粋な計らいをしてくれると聞いていたからである。

"さて、うちではありませんね。上のほうの旅館ではやっていたこともあったと聞いていますが、それとお客さん。お連れのかたが出発されたとき、まだ暗かったので私もさっと受け取ってしまったのですが−−−"

 親父は彼に朱鷺子がが支払ったという現金紙幣を見せた。和明が見ると、それはなんと聖徳太子が描かれた旧一万円札だったのである。朱鷺子はふたり分の宿賃を、いまではすっかり見なくなった旧紙幣でいったのだ。幼い頃彼もなんどか眼にしたことがあるというだけの代物である。一体どういうつもりなのであろう。

"そのお金、僕の普通の一万円札と交換してもらえませんか。古い切手や紙幣を集めているんです。"

 和明はそう言ったが、本音は朱鷺子がのこしたものを手にしておきたかったからなのだ。

 車の準備が整い、親父とともに軽絮荘を後にした。陽は少しずつ高まり、樹木に積もった雪を溶かしては拭っていく、そんな気配を感じる。霧積集落までの道路はしっかりと除雪がなされていた。

"きのうの夕方とけさと、二回除雪車が来たみたいですね。これなら運転も安心ですよ。"

 ほっとした面持ちで親父が言っている。いかんせん静寂境とはいえ文明の利器を持ち込まずしては成り立たぬ時代なのである。親父が運転する軽バンは軽快に霧積道を走っていくが、相変わらず対向車はやってこない。そのかわりといってはなんだが、誰かが歩いていったと思われる足跡が続いている。

 朱鷺子さんや、やっぱこの道を歩いていったんや。和明には確かめたいことがひとつだけ残っていた。十五分ほどして新幹線の橋梁をくぐるところまで来ると、

"おっちゃん、すいません。ちょっと止めてもらえますか。"

 言って車を降りると、保線作業員用の階段へと繋がる入口の鉄柵を見遣った。霧積から続いていた足跡は彼の予見したとおり柵を越えて新幹線の隧道まで上がっていく階段へと延びていた。和明は諦めた表情をして車に戻る。

"ここの保線作業をする人が仕事で霧積の旅館に泊まることってあるんですか。"

"さあ、どうでしょう。うちのお客さんにはいませんね。"

 親父がスイッチを入れた車のラヂオからは、昨日の雪で先週同様首都圏の交通機関が麻痺したことを伝えている。群馬県内は概ね正常とのことだ。

 山を降りているのが判るように積雪がだんだん浅く、少なくなっていく。碓氷国道まで出ると、路面の雪は完全に両側へとばされていた。

 吹雪の中、朱鷺子を追い求めた彼の軌跡は、その記憶とともに夢の彼方へと遣られようとしているのだ。それを思うと和明はなんだか虚しさが込み上げてくる感傷に、いたく胸を締めつけられた。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ