第1話「はるか遠くにおとずれた夜明け」
ある親族の葬式が終わり、暫くが経つ。されど、時間は止まらない。彼女を慕っていた遺族である、逸陶たちのことも、置き去りにすることなく。
半年ほど前、同い年の妻が出産を終え、彼女と共に子育てにいそしむ、弟の晴市に呼び出された逸陶──つまり家永兄弟。彼らは、クラシック音楽の流れる奥ゆかしい喫茶店にて、兄弟同士・お茶をしていた。何でも、晴市曰く大事な話があるとかだそうで。
その、"大事な話"が。
「母さんに隠し子!?」
そう捉えてしまうほどの内容で、思わず他の客をかえりみず声をあげてしまう兄の逸陶。途端、弟の晴市にバシンと頭を、容赦なくはたかれる。
「ち、が、う。何ぶっとんだこと言ってんの。小母さんの子だよ」
場所考えなよ、クソ兄さん。静かな喫茶店で弟に睨まれ慌てて口をふさぐ。店の雰囲気をぶち壊した自分を訝し気に見つめてくるのは、他の客たちだ。当然、逸陶は軽くだが直ぐ周囲に謝罪をし、いや……でも。と口元を押さえ、視線をうろつかせ、彼にやった後に余所にやりつつ言う。「ヤバいだろ、それ」
「十分に色々問題あるっつーか……。え、何、俺らの遠いイトコってこと? 小母さん不倫してたの?」
「それもちがう。伯父さんが死んで、未亡人になってから出来た子らしいよ。血は繋がってないから、厳密に言えばイトコじゃないんだけどさ」
滑らかに泡立ったミルクとチャイが、カップの中で、ひたすら綺麗な層を生み出している見た目もうつくしい紅茶を口にし、晴市は息をつく。少し口ごもった後、葬式のときに分かったらしい、と、ため息交じりに言った。
まだ15歳。高校1年生。身寄りも家永以外なくて、血の繋がった人だれ一人いない。──思わず逸陶は口元をひくつかせる。
「俺らより10以上も年下じゃねーか。しかも高校生でって。不憫すぎんだろ」
「だよね。で、ずっと小母さんが面倒見てたらしいんだけど、亡くなったじゃん。それで引き取り手を探してるらしくて」
「へぇ。アテとかあんのか?」かなり事情とかからして、大変そうだけど。そう言って頬杖をつき、滑らかな泡の浮かぶ珈琲に、逸陶もたっぷりミルクを注いだ。何とも穏やかな、香りと味になる。ティースプーンでゆっくりとかき混ぜ、言葉を待ち、それを口にする自分を、晴市──弟は、チラ。と見た。兄弟は似た容姿で、幼き日ぶりに長いこと見つめ合う。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……は?」
「ってわけ」
目で、察して。といったようすで晴市は言ってメモを取り出し、逸陶の頬杖をついているテーブル手前へすべらせる。「母さんたちは、引き取っても全然いいって言ってたけど」
「なんだかんだであのご夫婦、老後の生活で一杯一杯でしょ。兄さんが、暫く預かるってこと」
「はぁあ!?」
逸陶が声を漏らすと、再び刺さるような他の客の視線が注がれた。すいません、ほんとすいません。謝り、それから小声で「何考えてんだよお前っ、ボコすぞ!」と、素を出しながら、軽くテーブルを叩く。珈琲と紅茶が、やわらかな細波を立てた。しかし、晴市は呆れた様子で言う。
「だって俺んとこ、奥さん子供産んだばっかだよ。そりゃ、さすがに鬼じゃないし、その子が可哀想だし、力になりたいとは思う。でも、色々ほんと、申し訳ないけど、無理なんだ。それに比べて兄さん、今んとこ独り身、いいマンション住んでて、やりたい放題じゃん?」
「俺、28の成人してる“男”なんだけど!? 女子高生なんて世話できるわけねーだろ、仮にもとかそういう可能性だって考えろよ」
「兄さんに、そんな度胸ないっしょ……」
「るせぇなそうだけどさ……」
はいはい。晴市は適当に頷き、メモを指で差した。「とりあえず、待ち合わせ場所と名前」
「2丁目の通りの本屋前で、待ち合わせしておいたから」
「お前、俺の言い分聞く気ねえだろ? 大体、仕事もあんのにガキの世話なんかしてられるかよ」
「その子の生活費は、オヤジが毎月、兄さんの口座に振り込んでくれるってさ。小母さんの遺産と、あとはオヤジと母さんからって。俺からも協力するよ。荷物は今日着くと思う。多分、今頃届いてんじゃないかな。まぁ、家事でも手伝わせればいいじゃん。じゃ、俺、夕飯のお使いあるから。奥さん母体安定まだしてないんだよね、産後のストレスってやつ?」
「おい! ちょっとまて、おい!」
タイムセールは逃せないの! 奥さんラブな俺からにしてみればね! ──そう軽快に言って席を立ち、歩いて行く弟を追いかけようとするが、晴市は手をひらつかせて、ぐーぐーと眠る息子の居るベビーカーを押し、店を出て行ってしまう。伸ばした逸陶の手は、もちろん行き場を失くした。
呆気にとられていたが、クソ。と拳を握り。ぜってー行かねぇ。腹に決めた逸陶はイライラしながら、どかっと席に座り直し、甘ったるいコーヒーを口にしていた。……が。チラ、とメモを見れば、ついでに写真が添えられている。少し考えたが、指でメモをずらし、それをあらわにすると。
(……暗っ)
そこには、重い色合いの黒髪に長い前髪で、レトロな眼鏡をかけた幽霊のような少女が、視線も合わせず写真に写っていた。まるで全てを憚って居るようにも見て取れる。死んだ伯父の妻、つまり小母と少し目付きは似ていて、部品は整っているようにうかがえなくもないが、それにしたってせっかくの暗い髪と重い髪、そして暗く地味な私服で、台無しになってしまっているようにも感じた。
(まぁ、最近のJKみてーに、妙なとこ派手じゃないだけマシだが……このカラーバランスはないだろ。学生だし黒髪は別に悪くないとしたって、少し明るくして……小顔なんだからもっとバッサリとカットがいいよな。ミディアムからショートでもいける。トップは盛り過ぎない程度に少しボリューム出して、前髪はただ下ろすんじゃなくて前下がりに少し流して毛先をワックスで遊ばせて……顔周りとトップにレイヤー入れれば、軽やかに印象付けることもできるし)
服は、シンプルでラフな系統が似合いそうだ。その中で、さりげない小物遣いをすれば光るのに、もったいねぇ。目元は……一重に近い、奥二重。ほぼ一重で垂れてるけど、睫毛がミツで長いっぽいし、印象的だからヘレナでがっつりと……あーでも学生には金額的にキツイか。でも、口紅はピエヌ一択だな。──などと逸陶が写真一枚の中の女性で色々と考えてしまうのは、彼が美容師だからである。美容専門学校を卒業してきちんとした個人経営のサロンに採用されて働きだし、早くも3年が経過しようとしていた。
──元々手先が器用だった逸陶は、幼馴染や母のメイクやネイル、髪型のセットを学生時代から暇つぶしに見ていた。それが意外と本人たちにも、本人たちの友人らにも好評で、褒められることに関して逸陶も悪い気はしていなかった。母に、全体の美のバランスを考える美容学校とか向いてるんじゃない? そう言われ、大学へ通いながら、夜間は美容専門学校へ通った。
しかし、逸陶は最初から美容関係の仕事で食べて行くつもりは、毛頭なかった。その世界は需要はあれど、平均的な収入は低く、成功するのは一握りの人間と聞いていたからだ。それゆえに当初は、精練のつもりで“誰かを綺麗にすること”が好きだからということ。それと、運動部ばかりで培ってきた粘り強さを活かすための所謂“修業”のようなものとして、がつがつと学び続けた。
すると意外にもこれが向いていて、専門学校の講師の勧めで、とあるコンテストへ出場をしたところ、驚くことに1年生の半ばにして優勝をおさめたのだ。そこから本格的に美容師一本に将来を絞ろうと考え、大学を中退し、コンテストに出続け2度優勝。バイトと勉強、実践の下積み(プロではないので、当時はカットでお金は貰ってはいけなかった)を続け、夜間だった専門学校を全日制へ変え、1年多めに在学したところ、コンテストで名を馳せていたお陰か、卒業をして銀座で有名な経営しているサロンから呼び声がかかる。
そのサロンは、逸陶の尊敬している美容界のカリスマ的な存在たちが、勤めているところでもあった。それゆえに格式高く名誉もあったので、学校を出たてホヤホヤのひよこをお客に出すわけがない。 万が一の失敗で品位を落としてしまわないようにと、最初はお茶出しや会計のみの仕事だけ。それでもめげず、カットモデルの客を相手にカットをしたり、マネキン相手にカットをしたり。たまに晴市や母に父、親族や友人を相手にカットを続けていたところ、弛まぬ(たゆまぬ)努力をよく見てくれていた今の店長に、きちんとした客相手で仕事をさせてもらえた。
死ぬ気の努力で培ってたカット技術、マッサージ技術、会話術、シャンプーテク、トリートメントやカラーリングのカラーの選び方、ヘアカウンセリング。それらを発揮し、綺麗になってもらえた初めての客は、上品な老婦人だったが。
『なんだか身も心も若返ったよう。けれど、あなたのお陰で年相応に美しくなれたわ……。本当にありがとう。』
──全てを終えて、淡くも本当に嬉しそうに微笑まれたとき。ああ、俺はこの道を選んできてよかったんだ。こんなに達成感があること、学生時代の部活以来かもしれない。心底そう感じ、妙な感動で泣きそうにもなった。またお越しくださいませ、お客様と初めて担当した方にそう言ってからは、彼女は今も自分を指名してくれる大切なお客様の1人となる。
しかしそういうことから、女性を見る時は全体のファッション、小物遣いにヘアスタイルに髪の状態、メイクや肌の状態までパッと見ただけで「ああ、この人、シャンプーの仕方から間違ってる」「化粧の仕方がイマイチだ。もっと明るいトーンの下地使ったほうがいい」そんな厳密な判断まで出来てしまい、恋人にそれを呟いて振られたという苦い経験もある。同性の男性のことはもちろんだが、異性である女性のことまでわかりすぎるということも困りものだ。心までは、深読みできないところが特に。……
(けど、こんなガキの衣住食についての約束、放るわけにもいかねーか……)
会うだけ会ってみるしかない。くそ、K社の新しいトリートメントが出たってーから、小売店に行って確認したかったのに。少しだけイライラしながら、ため息をついて晴市が払わなかった分のお茶代を払い、足早に逸陶は喫茶店を後にした。