~テムズ川をこえて~No.6
教会を飛び出すと、トラファルガー広場の脇を通って大通りを走った。人々の好奇と驚愕の目をかわして、ひたすら走った。どこへ逃げても逃げ道はないよう気がした。目の前にテムズ川が見えた。行き止まりだ。もし僕に羽があったら、ジェーンと一緒にテムズ川を飛び越えられるが、そうもいかない。テムズ川沿いを走るしかない。彼方にビッグ・ベンが見えた。遠い。走りきれない。どこか隠れる場所は・・・。
ふと見ると、テムズ川に船が係留されているのが見えた。
紺色の船体には「タターシャル・キャッスル号」の文字が刻まれている。川岸から橋が船へ渡されている。
船で逃げよう。僕は橋を渡って船へ降りた。船には木のバーカウンターがあり、オープンデッキでは、客が飲み物を手に川風をうけながらくつろいでいた。
いつ出航するのか、どこへ向かうのかわからないが、とりあえず岸から離れられれば、追っ手から逃げおおせるだろう。
無賃乗船の僕らは身を隠す場所を探した。船体脇の階段下に人けのない積荷スペースを見つけ、そこに降りることにした。
積荷スペースには、大型の缶がいくつも並んでいる。缶の間に身を押し込めるようにしてジェーンと僕は座った。
「船が出航すれば、逃げ切れるよ」
「でも、どこへ・・・?」
「わからない」
先のことなど考えてはいなかった。逃げることしか考えていなかった。
「大丈夫。なんとかなるさ」
「ごめんなさい、あなたに迷惑をかけて」
ジェーンの申し訳なさそうな顔に、僕は首を振った。
「迷惑なんかじゃない。僕は君に助かってほしいんだ。生きて幸せになってほしい。
誰だって、自由に自分の人生を生きる権利があるんだ」
「自由に・・・」
川岸の木立から鳩が羽ばたき、テムズ川の向こう岸へ飛んでいった。
「魂は飛ぶ。見えない世界へと。そこで魂は至福に満たされ永久に楽園に住む・・・」
ジェーンは鳩を見上げながらつぶやいた。
「何、それは?」
「プラトンの言葉よ。ブレイドゲードにいた頃に読んでいたの。そう、ずっと自由に生きたかった。あの頃のように自由に・・・」
牢獄に閉じ込められていたジェーン。羽ばたきを奪われた籠の中の鳥。白い翼を持った天使のようなジェーン。僕はジェーンの横顔を黙って見つめていた。
ジェーンは視線を僕に移し、ブルーグレーの瞳で僕を見つめながら言った。
「私を自由にしてくれたのはあなたよ、エドワード」
初めてジェーンから名前を呼ばれて、僕は赤面した。川風がジェーンの金色の髪を揺らし、僕の頬を優しく撫でていった。
「おい、そこで何をしている」
頭上から、野太い男の声が響いた。
見上げると船員のようだ。
「す、すみません」
僕はとっさに謝った。
「両親とはぐれてしまったもので、探していたらここへ来てしまったんです」
「ふん、こんなとこに両親はいないだろう。いたずらなガキだ。それになんだ、その格好は?」
男は、僕とジェーンの服装をしげしげ眺めた。
「結婚式か、さもなきゃ、仮装パーティか」
「け、結婚式です。姉は船で結婚式に向かうところなんです。船員さん、船はいつ出航するんですか」
「出航?」
男は笑い出した。
「船は20年近くここに停泊したままさ。坊ず、ここが船上パブだと知らないんだな」
「船上パブ?」
呆気にとられた僕に
「出航なんて永遠にするもんか」
男は笑いながら言った。ひととおり笑い終えると、男は真顔になって
「だから、俺は船員なんかじゃない。ここに搬入にきている業者だ。坊ず、嘘をついてもダメだ。ここは、ガキの遊び場じゃない。さっさと出ていけ。さもないと、警察につまみだしてもらうぞ」と言って睨みつけた。
「わ、わかりました」
僕とジェーンは慌てて船体脇の階段を登った。階段を登っていると
「いたぞ!」
再び頭上から声がした。見ると、川沿いの道をあの執行人が走りながら、僕たちを指差して叫んでいた。その後ろから、フェッケナム神父が走ってくる。見つかった。
逃げようにも、船と陸を繋ぐものは一本の橋だけだ。
僕たちが橋にたどり着く前に、執行人とフェッケナム神父が橋を駆け下りてきた。
逃げ場を失った僕とジェーンは、デッキの上を走った。船首まできて振り返ると、追手の二人がこちらを目指して走ってくる。
僕とジェーンは船首の手摺りに身をよせていた。
「エドワード、ありがとう。もう十分よ」
「え?」
「私は、執行人の手にはかからない。自分の行く先を自分で決めるのよ」
ジェーンはそういうと、手摺りを登り始めた。
「ジェーン、ダメだ!」
僕はジェーンを追って、手摺りを登った。
ジェーンが手摺りの向こう側に降りると、風がドレスの裾を扇いだ。
「私を自由にしてくれてありがとう。この流れを超えて、いつかまたあなたに巡り会えるわ、きっと・・・」
ジェーンは手摺りの向こうから、僕に顔を近づけると、そっと頬に口付けした。
そのままジェーンは手摺りから手を離し、ふわりと風に身を任せるようにテムズ川へ落ちていった。
「ジェーン!」
僕は叫びながら、川に飛び込んだ。ジェーン。君を救いたい。暗い川底へ向かってジェーンの白いドレスが沈んでゆく。手を伸ばしても届かない。息が苦しい。ジェーン・・・。僕の意識は薄れていった。
―魂は飛ぶ。見えない世界へと。そこで魂は至福に満たされ、永久に楽園に住む―