~テムズ川をこえて~No.4
ひとまず落ち着ける。
「さっき君は政略結婚をさせられたと言っていたね」
先刻途切れた話を僕は続けた。
「ええ、私の曽祖父はヘンリー7世で・・・」
「ヘンリー7世?」
僕は耳を疑った。ヘンリー7世といえば、チューダー朝のイギリス国王だ。歴史の授業で習った記憶を辿った。
「ええ、母はヘンリー8世の妹の娘」
「ちょ、ちょっと待って。君の時代は今とは随分隔たりがあるんだ」
「え?」
「だって今は20世紀だもの」
「20世紀?」
今度は彼女が驚く番だった。
「そういえば、あなたの服は不思議な服ね」
彼女は、僕の燕尾のコートを肩から下ろして見た。
「ああ、これは燕尾服っていうんだ。イートン校の制服だよ。あ、イートンは君のいた時代にももうあったはずだけどね。ヘンリー6世によって1440年に創られた学校だから。もっとも、お姫様の君が知ってるかどうかわからないけど・・・」
「お姫様なんかではなかったわ。私はサフォーク公の娘としてふつうに育ったわ。あの腹黒いノーサンバーランド公が父母に近づくまでは・・・」
「そのノーサンバーランド公が君を政略結婚に?」
「ええ、彼の息子、ギルフォ-ド・ダッドリーとの結婚を取り決めさせたのよ。私には・・・想う人がいたのに・・・」
彼女の最後の言葉にチクンと胸が痛んだ。
「君は・・・好きな人と結婚できなかったんだね」
彼女は、積もりたての淡雪のような顔をうつむけてうなづいた。
「エドワードとは・・・結ばれなかったわ」
「エドワード?僕の名前もエドワードだよ。ああ、自己紹介が遅くなったけど、僕はエドワード・シーモア」
その言葉をきくと、彼女はうつむけていた顔をさっとあげ、少し高揚した表情で僕の手を取った。心臓がドキンと鳴る。
「エドワード・シーモア!私のハートフォード伯と同じ名前だわ」
「ハートフォード伯・・・。僕は・・・」
僕はあえぐように言った。
「ハートフォード家の長男だ」
あまりの偶然に、それ以上、言葉にならなかった。
時代を超えて、こんなところで出会えるなんて。いや、もちろん、彼女の想い人と僕は違うけど。でも、僕と同じ名前の僕の祖先だ。
「ああ、なんという偶然。あなたに助けられるなんて」
彼女は熱っぽい瞳で僕を見つめた。見つめられて、今度は僕がうつむく番だった。
「き・・・君の名前は?」
「ああ、ごめんなさい。私はジェーン、ジェーン・グレイよ。今は、ジェーン・ダッドリーだけど・・・」
「君はどうして意に沿わない結婚をさせられたの?」
「義父は、私の血脈を利用して、エドワード6世亡き後、私を女王に祭りあげるつもりだったの。私には、何が起こっているのかわからなかったわ。父母もそうだったと思う。
義父は、息子と私を結婚させ、私を即位させたわ。でも、義父の本当の狙いは、息子ギルフォードを王位につけること。そして、ゆくゆくはギルフォードと私の子供を王位につけることだったのね。私が即位すると、すぐに夫のギルフォードは自分を王にしてくれと頼んだのよ。私にそんなこと・・・。私は自分が女王になった自覚すらないのに・・・」
欲望と策略の渦巻く中で、彼女が翻弄されているのがわかりかけてきた。
「それで、どうして君は反逆罪なんかに・・・」
「王位継承権は、本当はエドワード6世の次に異母妹のメアリーにあったのよ。義父は、いまわの際のエドワード6世に詰め寄って、メアリーから王位継承権を剥奪してしまったの。ノーサンバーランド公の策略に反発した議会は、メアリーこそ正統な女王だと発表したの。
メアリーはそれを機に挙兵して、ロンドン塔に押し寄せてきたわ。私は、ロンドン塔に閉じこもったの。もう王位なんてどうでも良かった。私はただ故郷のブレイドゲートに帰りたかった・・・。ヒースの花咲く原野を昔のように妹達と馬に乗って駆け巡りたかっただけ。私は喜んで王位を返上したわ。ロンドン塔から故郷へ帰れるなら。
でも、メアリーは私がロンドン塔から出るのを許さなかった。女王として戴冠したロンドン塔に、今度は囚人として囚われの身となってしまったのよ。義父も反逆罪として投獄され・・・そして、処刑・・・。なんて恐ろしいこと!こんなことになるなんて。私はいつまで幽閉されたままでいるの?一生?ああ、でも、悲劇はそれで終わらなかったのよ。メアリーが即位してスペインの王子フェリペと結婚すると発表すると、国民は反発したわ。スペインはカトリックの国ですもの。メアリーもカトリック教徒。新教徒への弾圧を恐れて反乱が起こったわ。その反乱が国民だけのものだったら、私の運命も最悪の方向へ向かなかったかも・・・」
「どういうこと?」
「その反乱に父が関与していたのよ」
「そんな・・・」
「メアリーはもう私達を見逃すことはできなかった。父が捕まって処刑が決まったと知ったとき、私はもう生きていく力を失ったわ。ああ、お父様。お父様を失って、どうやって生きていけるでしょう」
ジェーンの肩が震えた。僕はそっとジェーンの肩を抱いた。
「メアリーに恩赦を乞うことはできないの?」
「ええ、メアリーはフェッケナム神父を私の元へ遣わして、カトリックに改宗するなら私のことは特赦すると伝えてきたわ。処刑から終身刑へ・・・。もう二度とブレイドゲートに戻ることはないの。昔のように自由に馬で野原を駆け巡ることも・・・。罪人として一生ロンドン塔から出ることもなく、いつメアリーの気がかわって処刑されるかわからない恐怖におびえながら・・・。もう・・・生きていないほうがいいの」
ジェーンの伏せた瞳から涙が零れ落ちた。長い睫毛が涙に濡れている。
彼女が負わされた荷はあまりに重い。僕に何ができるだろう。彼女のためにできることはいったい・・・。
だが、今の僕にできることは、ポケットを探ってハンカチを差し出すくらいだった。
ジェーンは涙に濡れた瞳をあげて僕を見た。朝露に濡れた白バラだ。
ふいに彼女の背後のカーテンが揺れ、
「そこにいるのは誰だね」
男の声が聞こえた。