~テムズ川をこえて~No.3
とりあえず、僕は路地へ逃げ込んだ。走り続けで、心臓が飛び跳ねているようだ。とにかく少し休みたかった。それに、町中では僕の制服も、彼女のドレスも目立ちすぎる。
息が上がってしばらくはお互い口がきけなかった。僕は彼女がまだ目隠しをされたままでいるのに気づいた。
「ごめん、気づかなくて」
僕より少し背の高い彼女の顔に手を伸ばして、目隠しをはずした。目隠しと共に、束にされていた黄金の髪がほどけて肩に流れ落ちた。目を開けた彼女は、ブルーグレイの瞳でまっすぐ僕を見つめた。その曇りない澄んだ瞳に見つめられると、僕の心臓は早鐘のように打ち始めた。走っていたときより苦しい。全身の血が逆流しそうだ。いったい僕はどうなってしまったんだ。僕はその場に固まってしまった。
「助けてくださって感謝します。どうもありがとう」
彼女のほうが先に口を開いた。
「あ・・・いえ・・・」
僕はしどろもどろに答えた。なんて無様な。恥ずかしさで、顔が赤くなる。彼女に見られないよう顔をうつむけると、まだ彼女の手を握っていたのに気づいて、慌てて離した。
「き・・・君は、どうしてあんなところに・・・」
「私は反逆罪で処刑されるところだったの」
「は、反逆罪?そんな、信じられない。ありえないよ。君みたいな人に罪なんて」
僕の言葉に今度は彼女がうつむいた。
「私は・・・生きていてはいけないんだわ」
ブルーグレイの瞳が哀しげに曇った。
「嫌だ!」
僕はとっさに叫んでいた。
「え」
「僕は君が死ぬのなんて嫌だ。絶対嫌だ。だって、僕は君を・・・」
続いて出そうになる言葉を飲み込んだ。また心臓が早くなる。うつむいた視線の先に、彼女の左の薬指に指輪が光っていた。
「け・・・結婚してるの?」
前後の脈絡のないトンチンカンな質問だ。また自分が恥ずかしくなった。
「ええ、政略結婚だけど・・・」
「政略結婚?」
僕より年上だろうが、彼女だってまだ若い。結婚するには若すぎる。
「君は、結婚できる年齢なの?」
「16歳よ。結婚に年齢は関係ないわ。子供の頃に結婚相手を決められてしまうこともあるくらいですもの」
政略結婚、反逆罪・・・。彼女の背後には、何か抗いがたい運命が渦を巻いているように思えた。
「君は、きっと身分の高い人なんだね」
僕の言葉に答えようとする彼女を、僕はとっさに制した。
例の男達が、美術館から飛び出してきたのを見たからだ。狭い路地にいる僕らに気づかず、男達は二手に分かれた。
「どこか隠れる場所を探そう」
燕尾のコートを脱いで彼女の肩にかけた。
どこへ隠れよう?この格好で遠くへは無理だ。
ふと、トラファルガー広場の一角に教会があったのを思い出した。
美術館に入る前、先生が、ここが原野だった頃からあった教会だと言っていた教会だ。
通りを回ると高い尖塔を空へ伸ばしている教会が見えた。三角破風の下の玄関廊から中へそっと入り込んだ。コリント式の白い列柱が続き、浮き彫りの施された天井からはシャンデリアがぶらさがっている。礼拝時間ではないせいか人はそんなにいない。
数人が、光差し込むガラス窓のある祭壇に向かって、頭を垂れて祈っているだけだ。
僕は、脇の小部屋へ彼女を誘った。