~テムズ川をこえて~No.2
いや、違う。僕は、目をこすった。翼がない。
よく見ると、清らかな光に包まれたような白い肌の女性だった。
天使とまごう清らかさ。この世のものとは思われない美しさ。
美しい、と僕は思ったが、実際、彼女の顔は見えなかった。白い布で目隠しをされていたからだ。
目隠し?何故だ。
僕の目は、ようやく彼女を取り巻くものが見えてきた。
美しいその女性は、肌と同じように白いドレスに身を包み、僕の目の前で、司祭のような初老の男性に導かれるように手を取られ、台の上に身をかがめようとしている。
台?いったい何の・・・。
傍らに赤いタイツの男が立っていた。憐れそうに彼女を見下ろしながらも、その手にはキラリと光る斧を持っていた。
斧?いったいどういうことだ。
僕の目線よりやや上の壇上に黒い布が敷かれ、その上に藁が置かれ、そこに台がある。そこに今しも身をかがめようとしている乙女。あたかも殉教する聖女のようだ。
これは舞台で行われている芝居か?いや、違う。僕は自問自答した。
これは・・・絵だ。壁に掛けられた一枚の・・・。
いや、これが絵であるはずがない。僕はすぐにその考えを否定した。
生々しいほどの彼女の肌は本物だ。血の通った生身の人間だ。
彼女は手探りで台を探している。
ダメだ、それは斬首台だ。そんなところにいたら殺されてしまう。
僕はとっさに手を伸ばして、彼女の手をつかんだ。なめらかで柔らかい手だった。
「逃げるんだ!」
僕は叫ぶと、力づくで彼女を引っ張った。目隠しの彼女は、わけのわからぬまま、僕のほうへまろび出てきた。僕は彼女の手を摑んだまま走り出した。
チラと後ろを振り返ると、呆気にとられた神父と死刑執行人がこちらに顔を向け、慌てて追いかけようとしている。
「僕についてきて!」
僕の言葉に、彼女は走りながらうなづいた。彼女は僕に全てを委ねている。今、彼女を救えるのは僕しかいない。
館内の人ごみをかき分け必死に走った。人々が驚いて叫んだり、指をさしたりしている。
振り返ると、斧を持った執行人が恐ろしい形相になって追いかけてくる。神父がその後ろからよろめきながら走ってくる。
出口、出口はどこだ。
混乱した頭の中で、僕は必死に考えをめぐらした。
―正面入口とは反対側にもう一つ出入口が―
ふいにフレッドの言葉を思い出した。フレッドが指差した館内案内図を頭に呼び起こし、北翼棟を走りぬけ、北側の出入口へ向かった。追手の足音が迫ってくる。
出入口付近にフレッドの姿を見つけた。
「フレッド!」
僕の声に振り返ったフレッドは、僕に引かれて走る女性に気づいて口をあんぐり開けた。
何かを言おうとして言葉にならず、口をパクパクさせている。
「追手を引き止めてくれ!」
僕は叫んだ。呆気にとられていたフレッドはわけのわからぬ様子だったが、斧を持って追いかけてくる男達に気づくと
「わ、わかった」
と言って、執行人の腹に体ごとタックルした。
「恩にきるよ!」
僕は走りながら、フレッドに言った。今日ほど彼に感謝したことはない。
そこへ出入口にいた警備員たちが押さえ込みにかかり、その隙に僕達は美術館を抜け出した。