テムズ川をこえて
鳩が飛び立つ―
白い翼の聖霊が空へと舞い上がる。
巨大なライオンの彫像が見下ろすトラファルガー広場で、僕は聖なる鳥が飛んでゆくのを眺めていた。彼方に見えるビッグ・ベンのほうへ、その先の空へと。
鳩の姿が見えなくなってしまうと、僕は振り返って歩き出した。
広場の北側に八本の柱とギリシア風破風を備え、威風堂々と佇む美術館の石段を登ってゆく。
ティツイアーノかラファエロかプッサンか・・・、それとも、母国の画家レノルズかゲインズバラかターナーか。それら珠玉の作品を無視して、僕が向かったのは東翼棟にある一枚の絵。
3年前、パブリックスクールに入学したての13歳の僕は、学校の課外授業でここへ来ていた。ウィンザーからバスで1時間、ロンドンへの道中は、寄宿生活を始めた僕にとって、ちょっとした小旅行だった。
「気に入った絵を一枚選んで感想文を書いて提出すること。」
美術館に入ると、先生が自慢の口ひげを得意そうにちょっと触ってそう言った。
「二時間後に北翼棟31室にて集合だ。なお、館内からは絶対に出ないこと。では解散」
解散といわれても、黒燕尾に白タイの制服はどこへ行っても目立つ。それがこの学校の誇りであり一種のステイタスだが、僕には窮屈だった。
「美術館を抜け出せないかな」
隣でフレッドが悪巧みをもちかけた。
「先生にバレたらどうするんだよ」
僕は小声で囁いた。
「平気、平気。バレやしないさ。チャチャッと感想文書いてしまえば、あとは自由行動だ。館内にいようがいまいが、2時間後に集合場所に行けば大丈夫さ」
フレッドは、手にしていた館内案内図を調べながら言った。
「お、あった、あった。正面入り口とは反対側にもう一つ出入口が。ここからなら見つかりにくそうだ」
アルフレッドは北側の出入口を指差した。
「うん・・・」
フレッドの悪巧みは、危険だが麻薬のように魅惑的だった。
「さ、早く面倒なことは済ましちゃおうぜ」
フレッドは絵を探し始めた。解散した西翼棟は、1500年代の絵画が集められている。
僕より先に歩き出したフレッドが一枚の絵の前で立ち止まった。
「俺はこの絵にした!」
フレッドは絵から目を離さずに言った。
そんなに気に入った絵を見つけたのか。絵なんて、これっぽっちも興味のないはずのフレッドなのに。
フレッドに追いつき絵を見上げると、露わな裸身をさらけ出したヴィーナスが、キューピッドに胸を愛撫されながら接吻されている。僕は狼狽した。
「何、赤くなってるんだよ、エド」
フレッドが隣でニヤニヤ笑っている。フレッドに見られていると思うと、よけいに血が上ってくる。慌てて絵から目をそらした。
「この絵に決まりだ。最高傑作じゃないか。ブロンツィーノ様々だな。俺も、将来、画家になろうかな」
フレッドはニヤニヤしながら、絵をしげしげ眺めている。思春期の入り口にいる僕らにとって、その絵は禁断の果実だ。大人の世界の甘美な誘惑に満ちている。
「好きにしろ。僕は他の絵を探す」
「あ、おい、エド」
僕は、フレッドを置いて歩き出した。立ち去る前に、フレッドに気づかれないよう、目の端でもう一度絵を捉えてから。成熟した女神の肉体が、眩しく僕の心を乱した。あのキューピッドがちょっとうらやましかった。
心の奥底に芽生えた憧れと動揺を抑えるべく、うろうろと展示室を彷徨った。今年できたばかりのセインズベリー翼棟には1250~1500年までの絵画が飾られている。美術館で最も古い作品群だ。罪悪感を払いのけるかのように、僕は宗教画に見入った。
ラファエロのカタリナなんかいいじゃないか。キリスト教を説いて殉教した聖女。ブロンツィーノのヴィーナスとは正反対だ。こんな絵の感想文を書けば、先生うけもいいだろう。
そう思いながらも、胸をおさえるカタリナの手があのキューピッドの手に見え、カタリナの顔をむける先にキューピッドの顔が重なって見えてくる。恥ずかしさと罪悪感でひとりでに顔が赤くなってくる。くそ、フレッドのやつ。
僕はカタリナを諦め、セインズベリー翼を後にすると、再び西翼棟を突っ切り東翼棟に移動した。ブロンツィーノからは一刻も早く離れたかった。
東翼棟で僕は一枚の絵をみつけた。
雨の中、蒸気を上げながら、橋を猛スピードで走ってくる列車。
まるで邪心から走って逃れようとする今の僕のようだ。
そうだ、この絵にしよう。
僕の心はようやく落ち着きを取り戻し、ソファーに座って感想文を書き始めた。
「ふぅ・・・」
しばらくして感想文を書き終えると、ソファーでくつろいだ。
僕らの学校の燕尾の制服は目立つ。時折、同級生のグループが二、三人でやってきては絵の前で話をしていた。どの絵にするか決めかねているようだ。
感想文を提出してしまえば自由になれる。僕はソファーから立ち上がると、先生を探すことにした。その頃には、僕の頭からは、あの艶かしいヴィーナスの絵も、フレッドのこともすっかり消えていた。
人ごみの中に先生の後姿が見えた。
「先生!」
声をかけたが、先生は隣の生徒との会話に夢中で、僕の声に気づかなかった。
先生の姿を追って、次の一室に急いだ。ところが、部屋に足を踏み入れたとたん、僕は雷に打たれたように動けなくなった。脳天から足の先まで衝撃が走った。目にとびこんできたのは、雪のように白い天使だった。
天使。この世で見つけた天使。