An assassin.
「君のことなど何ひとつ、僕は信じていなかった。そう言えば満足かい?」
涼やかな笑みとともに、彼は言い放つ。
毒入りの盃を、飲み干したその口で。
「今なら、まだ逃げられるよ。ララフローラ。
いや、アサシン・N・ブラッド殿とお呼びした方がいいのかな?」
興味がわいた。素性を見抜いた鋭さもさることながら、毒を盛られたことを知ってなお、相手を生かそうとする精神状態に。
「扉の向こうには衛兵がいる。逃走経路は窓をおすすめするよ。
ここは三階だが、君の苦にはならないだろう」
淡々と言葉を紡ぎ終えると、彼は赤い布張りの椅子に腰をかけ、黒檀の机の上で両腕を組んだ。毒が末端から体を侵しはじめたことを、他者に気づかせない優雅さで。
「少しは驚いてくれないか、流血を嫌う暗殺者殿。
君の素性を掴むのは骨が折れる仕事だったんだから」
感情のない双眸にかき消された苦笑が、誠実で凡庸な好青年の仮面の残骸をしらしめすように揺れる。潜入して半年もたった今になってようやく、彼のひととなりに触れた気がした。もしかしたら、彼も似たようなことを考えているのかもしれない。
すべては、積み重ねられた嘘のたまもの。
貴族にとってメイドは人に値しない。単なる家具だ。気まぐれに手を出してくる彼の睦言など、はなから信じるに足らなかった。
だが。
ならばなぜ、わたしはこの場にいるのだろう。
日陰を歩いてきた暗殺者が、この陽光の下で彼に素顔をさらしている。仮面としての顔ではない、見たこともない女の姿に同様の片鱗すら見せない彼に、王位継承者の一人としての貫禄を垣間見た気がする。それもまた、知らなかった顔だ。
できることなら、彼の治世の元で歩んでみたかった。
そう思う程度には、惹かれていた。
そんなことを悟って、わたしは笑う。
餞にもならないだろう、自分を殺してゆく者の微笑など。
「ここは君のいるべき場所ではない」
沈黙の中に思い浮かぶ、他愛もない夢物語の連なりを断ち切ったのは彼の声だった。
よく手入れされた爪先がさし示す先は、貴族の館に相応しい精緻な木彫りで飾られた窓。
解毒の要求すらしない投げやりさが、茶番の終りを示している。
「いきたまえ」