After that story.
『そうして彼女は、海にとけた』
パタン。
本を閉じる音が、やけに大きく響いた。
とりあえず、と。手近な枕の上に、青い表紙の短編集をそっと置く。
それから、大きく背のびをした。
ついでに首を回せば、骨が鳴る音が聞こえる。
ふと目をやった時計は、夜明けの近さを示していて。
気づいたとたんに空腹を訴えてくる腹に、苦笑いがこぼれた。
「何か、作んねーと」
独り言は一人暮らしの必須アイテムだ。
そんなことを行ったのは誰だっけ?
くだらないことを考えながら立ち上がる。
腰と背中が異様なくらい軋む。
晩メシ食ってからずっと座りっぱなしだったんだから仕方ねーけど。
マジ勘弁、と屈伸を一つして、僕はカーテンを開けた。
蛍光灯に慣れていた目が痛む。
そんなことはどうでもよかった。
できすぎだろう、と思う。
窓ガラスの向こうは、見たこともないような色に覆われていた。
黒、にはほど遠い藍色から紺碧、群青、淡青をへて限りなく透明に近い青色へ。
世界一の画家がどれだけ精緻な技法を駆使しても、かなわないだろう姿だ。
夜明けとの狭間で立ちすくむように瞬く明星が、月のない天球にかすかに光る。
はるかかすむ山の向こうからは薄紅色の雲がたなびき、夜と朝の隙間をあでやかに照らし出している。
物語の中の彼女も、こんな空を見たんだろうか。
希望なんて何一つないような、あの状況で。
重い足をひきずるように船の縁によりかかって、それでもこんな空を見ただろうか。
そうだとしたら。それはどれほどの救いだったろうか、と僕は思って。
しばらくぼうっとたちつくしたまま、陽がのぼる姿を見つめていた。
窓からさしこむ光が、フローリングの床をこえて、枕のうえに置いたままの本にも届く。
徹夜までして読まねばならないものではなかった。
それはあくまで空言で、僕の日常には関係ない代物だ。
にもかかわらず。
この、息をのまずにはいられない極彩色の世界が、彼女が願ったそれのようで。
僕は認めずにはいられなかった。
ああそうだ。
世界はこんなにも、美しい。