一話目
わたしの好きな人は変わっている。
変わっているといったって見た目が変わっているわけではない。むしろ見た目は普通。いや、お世辞抜きにしてもかなり上の方といっても過言ではない。
数年前、彼がまだ中学生だったころなんかはファンクラブみたいなものまであったという噂だ。もちろん噂だし、本当かどうかはわからない。けどその時の彼といったら本当にすごかった。なにしろ生徒会では書記を務め、運動部に入っていなかったものの体育祭では出る競技出る競技ぶっちぎり。勉強をすれば常に上位をキープ。
出来過ぎるほど出来過ぎた彼は当たり前のように県内トップの進学校に進んだ。
そこでもまた生徒会にかかわり、その後は誰もが知る大学に進学した。まさに文武両道、才色兼備。天は二物を与えず、なんてことは嘘だ。二物どころか三つも四つも与えているようにしか思えなかった。
そんな彼のどこが変わっているのか。
おそらくわたし以外、誰も気がついてはいないだろう。だって
「……センパイ、女の趣味悪すぎ」
駅目のカフェの一番奥の席。狭いテーブルいっぱいに広げたノートに赤ペンを走らせていた彼――小森センパイはぎょっとしたように目をむいてこちらを見る。
「……あ、アカリちゃん、あの、突然、何を言って」
「この前はなんだっけ。サークルの部長サンだっけ? その前は一つ下の茶道と華道が趣味のヤマトナデシコちゃんで、その前は」
「あ、アカリちゃん!」
ゴホゴホとせき込みながら、センパイの大きな手がわたしの口をふさぐ。そしてちらりとあたりを見回す。
すでに時刻は7時を回っていて、カフェにいるのはわたしたちのほかはくたびれた会社員か、学生らしい人がぽつぽつといるぐらいだ。
どうやら聞こえてなかったと確認するやいなや、センパイは小さく息を吐く。
「……あのね! ここアカリちゃんの部屋じゃないし。まだ人がいっぱいいるから! 誤解されるでしょ」
でも本当のことだしなぁ。
そう。センパイが変わっているというのは彼が付き合う女の趣味だ。
見た目やブランドは申し分のない相手ばかりだ。唯一の欠点といえば、相手にセンパイ以外のそれなりの相手がいることぐらいか。
例えば、ヤマトナデシコちゃんの時は幼馴染。サークルの部長さんの時は、ケンカ別れしたサッカー部のエース。そしてもう一人の――手でもごもごつぶやいていると、センパイは再び大きく息を吐いた。そしてじっとわたしを見て「もう、変なことを言わない」と約束させられた。
しぶしぶうなずくと、口をふさいでいたセンパイの手がようやく離れた。
「突然、何を言い出すかとおもったら……。アカリちゃん、勉強するんじゃなかったの?」
ため息交じりにつぶやいた先輩に私は肩をすくめる。
「するよ。するけどさぁ、なんか思い出しちゃって」
「思い出したって、何を?」
「昔のこと」
そういうと、赤ペン片手に頬杖をついていたセンパイが少しだけ妙な顔をして、黙り込んだ。そんな何気ない顔でも、先輩の見た目の良さは崩れない。
おかげで今でも地元では先輩のことが好きだという女の子は多い。それはギリギリ彼と同じ学校に通っていたわたしたちの学年はともかく、センパイが卒業した後に入学した子の中にも好きだいう子がいるのだからびっくりだ。
そんな彼女たちの中での先輩といえば、生徒会書記で頭のいい、イケメンといったところだろう。けど、わたしの中でのセンパイはというと頭は良いけどとにかくヘタレ。
無駄に行動力はあるくせに、いざという時に立ち止まってしまう。
とにかく一事が万事要領が悪い。
けれどもこんなことをいってもきっと誰一人信じる人はいないだろう。
けど、わたしはそんなセンパイだとわかっても好きだった。その切っ掛けは今から3年前のことだ。
当時のわたしはまだ中学生だった。
センパイはわたしよりも3つ上だから高校2年。その夏のこと。
そのころからわたしはセンパイのことは知っていた。なにしろわたしの4つ上のお姉ちゃんがセンパイと同じ生徒会だったから。
といったって周りにいたちょっと大人びた子のように好きとか、かっこいいからというわけではない。お姉ちゃんから時々名前が出るから、というだけの理由だ。
わたしのお姉ちゃんはとにかく優等生で、生徒会の副会長をして、成績も上位。周囲からも期待されていて両親からしても、妹のわたしからしても自慢の娘、姉だった。
その姉が口にしていた友人の一人。それがセンパイだった。
そのセンパイと初めてあったのがその年の夏のことだった。
その日はちょうど駅の東口の大通りを中心にした祭りがおこなわれていた。元は駅近くにある小さな神社が祭の起源らしいが、今となっては祭りの中心は大通りに連なる出店の数々だ。オーソドックスなお好み焼きや焼きそばをはじめ、綿菓子やヨーヨー釣り。近くの子たちにとっては夏のビックイベントの一つだ。
わたしもその日はクラスの友達といっしょに、浴衣を着て祭りへと繰り出していた。
そこで他のクラスメイトと合流しひとしきり遊び、それから家に戻った。片手にはヨーヨーをもち、チョコバナナと唐揚げで膨れた腹をかかえたわたしは、家の手前でふと足を止めた。
家の前。白い街路灯の灯りの下に誰かがいるのがみえた。
一人は姉。もう一人は姉よりも少しばかり背の高い男の子だった。姉と同じぐらいの年恰好だから友人の一人だろう。そんなことを思いながら再び歩き出そうとしたわたしの耳にふと何かが飛び込んできた。泣き声だ。咄嗟にわたしは無意識に物陰に身を潜めた。
二人の話し声は昼日中ならば聞こえなかっただろう。だが、夜の住宅街。雑踏もほとんどない中では、わずかに離れたところにいてもはっきりと姉の声が。すすり泣く声がきこえてきたからだ。
「……どうして」
肩を震わせうつむくお姉ちゃんに、一瞬戸惑った様子を見せた彼は次の瞬間、ごく普通に。まるで当たり前にするかのようにお姉ちゃんを両手で引き寄せた。
「先輩……」
「ごめん……、小森」
涙交じりのお姉ちゃんの声に、わたしは思わずあっと声を上げそうになった。
あれが、あの有名な小森センパイか、なるほどみんなが騒ぐわけだ。わずかなあどけなさは残るものの、噂通りの美形だった。
センパイはためらいがちに引き寄せたものの、それ以上のことはしなかった。
お姉ちゃんの肩から離れた両手はだらりと下がったまま。むしろ縋りついているのはお姉ちゃんの方だった。
それがわたしには衝撃的だった。
何しろお姉ちゃんが泣いていることなどめったに見たことがなかったからだ。
最後に見たのは随分前のことだ。たしかあれはかわいそうな映画を見ていた時。その時だって、あんなふうにこらえきれずに泣きじゃくるようなことはなかった。
それがあんなふうに、見たこともない男の子に縋りついて泣いているなんて。
いろんな意味でショックだった。
わたしは両手で口を覆ったまましゃがみこむ。
そして大きく二度ほど深呼吸をした。そして少し落ち着いたところで、わたしは最近のお姉ちゃんが変だったことに気が付いた。
ぼんやりすることが多くなったし、大好きなハンバーグも残していたし、ため息も多かった。
「……ごめん、小森、本当にごめん」
涙声のお姉ちゃんに、センパイはあわてたように首を振る。
「いや、そんなこと! 先輩こそ、大丈夫ですか?」
「……はは、小森くんの前で泣くなんて、迷惑だよね」
「そんなこと」
センパイははじかれたように叫ぶ。だが、すぐさまはっとしたように言葉を切った。
「……そんなことないですって。そもそも先輩がオレに気を遣うなんてヘンですよ」
「ははは、そうかな」
いったんは笑い声をあげたお姉ちゃんが、再びぐずぐずと泣き出した。
「……もう、ダメかもしれない。私たち」
「え?」
思わず声をあげた小森センパイの顔を、わたしは今でも忘れられない。
そこにあったのは同級生たちがもてはやしていたあの整った顔立ちをした、優等生ではない。剥がれ落ちた仮面の奥に見えたのは、わがままで自分勝手な欲望をむき出しにした男の人の顔のようにわたしには見えた。
「……ダメって、そんなの、何かの勘違いじゃ」
「彼のこと好きだって、言われたの」
わずかに震える姉の声に、小森センパイの顔がこわばる。
「……言われたって、誰に?」
尋ねる小森センパイに、姉は小さくかぶりを振る。
「……わかんない。多分、一個上の人だと思う。その人がね、この前学校にきたの。で、写真を見せられたの。二人で、とった写真」
「で、でも、あの人は生徒会長だし、誰かと一緒に写真ぐらい」
「わかってる!」
お姉ちゃんが叫んだ。
「でも、さっき二人で歩いているのを見たの! 今日、私、一緒に行こうって誘ったんだよ。でも、用事があるって断られたのに。二人で、笑って……」
そういってまたしても姉はぐずぐずと泣き出した。
それはあの時、漫画に牛乳をこぼしたときの泣き方よりももっと幼くて、妹のわたしから見ても弱くて、守ってあげたくなるようなそんな泣き方だった。
それを黙って見つめていた先輩の両腕が、のそりと動く。
ゆっくりとお姉ちゃんの背に回され、そして――だらりと下がる。
苦しそうな顔をして顔をゆがめ、そして次の瞬間、センパイはひどく悲しそうな顔をした。まるで小さな子が泣きじゃくっているのかと思うような。そんな無防備な泣き顔だった。
そしてそれを数秒でかき消し、再びその手を挙げたかと思うと、姉の頭にぽんと乗せやや乱暴にかき回した。
「センパイ、まーだそんなこといってんの? っていうか、あの相良先輩が、二股とか器用なことできないことぐらい知ってんでしょ? その女の手にのって動揺してどーすんのさ」
「……小森く、……」
泣きじゃくる姉の頭を、小森先輩は何度も何度もなでていた。
それを見て、わたしが思ったのは――この人、バカなのかな? だった。