その3 〜翔んで正作〜
二mほどもある姿見に、くたびれたジャージ姿のおっさんが映っている。
「こんにちは、山下正作です」
自分の姿に向け、なんとなく挨拶してみた。
どう見ても、普通のさえないオッサンで、つまり人間だ。
(わざわざ魔王として召喚したのだから、魔族に決まっているって考えなんだろうか。それはちょっと軽率……というか、さすがに一目瞭然じゃないのかな)
彼らは一体何を基準に、自分を魔王と認識しているのだろう、と正作は首を傾げた。
(もしかして、知らぬ間に異世界チートみたいな能力が?)
それは、ありえない話でもないように思われた。
異世界に転生なり転移した人間が、降って湧いたような超絶パワーを身につける──定番、鉄板のお約束だ。普通に考えて、そんな都合の良い話あるわけはないのだが、それを言い出せば、今のこの状況が十分ありえない。
四天王の皆だって、なんの根拠もなく魔王として受け入れているとは考えにくい。きっと、何かあるに違いない。
そうであってくれないと困る。
何しろ彼らは、正作に『最終兵器としての魔王』を期待しているのだから。
是が非でも、覚醒とか、なんかそんな感じのアレになってくれなければ。
正作は、右手を鏡に向けて唸った。
「はぁあああ……!」
手のひらから、エネルギーが迸るイメージ。
時にはかめはめ波ふうに、時には魔貫光殺砲ふうに、色々試してみる。
はたから見れば、絶賛気狂い中といった風情だろうが、一人なのだから気にしない。もとより正作に、そんなことを気遣う余裕はなかった。
できないと、たぶん死ぬ。
文字通り、必死である。
「炎よ、いでよ!」
出ない。
「ファイヤーボール!」
出ない。
「マキシマイズマジック・グレーターテレポーテーション!」
微動だにしない。
「スキトキメキトキス!」
相手もいないのに恋の呪文とか。
「北斗神拳究極奥義、無想転生!」
もはや魔法じゃない(悲しみは伝わってきた)。
そんな調子で二時間あれこれやったものの、全てが無駄に終わった。
息切れしてきたので、少しベッドで休むことにする。
必死になり過ぎて、汗だくだ。
(着替え、どうしようかな)
ジャージの上だけ脱いで、ゴロンと寝台に転がった。
天蓋にレースのかかった、映画などでよく見る王侯貴族のベッドだ。
広くてふかふか。こんな豪奢なシーツに、加齢臭をこすりつけるのはなんだか申し訳ない。
「あれ?」
背中に、違和感。
ナニか、ある。
正作は急いでシャツを脱いで上半身をさらし、そのまま姿見に向かった。
鏡に背を向けた状態で、首だけ振り返ってみる。
「うわ、はえてる」
それは、まごうかたなき羽だった。
コウモリのような──ごく小さな──羽が、彼の背中、肩甲骨のやや下ぐらいの位置で異彩を放っている。恐ろしいことに、その手のひら半分ほどの羽、正作の意思をうけてパタパタ動く。
「人間、卒業ォ〜宣言ッ!」
思わず、叫んでいた。
「すごく、ちいさいです!」
おかしなテンションになってきたのを、正作は自覚する。
ほんのり半笑いである。
頭の中で、オフコース・小田和正の『さよなら』が流れた。
どういうはずみで”そう”なったのかは知れないが、とにかく自分は魔族になった、らしい。なったはいいが──
「こんなサイズじゃ、ねぇ」
試しに、全力で羽ばたいてみた。
思いのほか高速でパタパタさせることが可能であり、それは小さな発見だったものの、やはり宙に浮かぶ気配はなかった。当たり前だ。飛べないおっさんは、ただのおっさんだ。
(いかん、くさっている場合じゃない)
ポジティブシンキング。
これで、とりあえず……
本当にとりあえずだが、人間とみなされ、四天王の皆さんに虐殺されるという方向のBADENDは、なくなったと見てよいだろう。
どちらかといえば良い流れだ。
それに、そうと意識してよくよく観察すると──
「角も、あるな」
白髪まじりの髪の毛にほとんど埋もれてしまってはいるが、手で触れてみると、確かに角が生えている。ごく小さい突起が、計七つ。
(数だけは、立派だ)
彼は、無理やり自分を慰めた。
チート能力はどうやらまったくないようだが、ギリギリ魔族ではある模様。
もしかしたら、『正しい呪文』とか『修行』が必要なのかも分からない。
修行編──
これもまた、ある種のお約束である。
ただし、肉体的に五十歳の男に、どれだけの伸びしろがあるのかについては、いささか心もとない。呪文やらがあるとして、それを自分程度のアタマで理解できるのか。不安材料ばかりが山積みだ。
(あ、チート能力といえば……どうしてぼくは、異世界の魔物の言葉が日本語として聞こえているんだろうか)
同時に、正作の日本語もまた、過不足なく相手に伝わっているようだ。
姿見、鏡面本体の縁に、何か文字が書いてある。
日本語でもアルファベットでも、ギリシア文字でもない不思議な文様だったが──それも、なぜか日本語として理解できた。
「えっと、『四重に偉大なる魔の王、気高きアーマーメイドの名のもとに、魔族の栄光栄華を約束す』──でいいのかな。後で確認してみよう」
羽や角とはまた別な、それもかなりすごい能力だった。どういう仕組みになっているかは不明だけれど、これで希望が出てきたと正作は思う。
(呪文書があるとすれば、たぶんそれも『翻訳』できる。それが使えれば、少しは魔王っぽく振る舞えるかも知れないぞ)
希望的観測であったが、後ろを向いていたらすぐ死ぬような気がしてならない。
無理にでも、前を向いておかなくては。
「そうだ、角だ」
今まで手の先にパワーを集めるように頑張ってきたが、もしかしたら角かも知れない。角に力を集中するような感じにすれば、あるいは──
手を頭にやって、角のあたりをいじくってみる。
なにやら、マッサージに使えそうな程よい丸みがあった。
「エレクトリック・サンダー稲妻!」
牛の牛肉、豚の豚肉のようなフレーズを叫んでもみたが、やはり出ない。
「ウィンド・タイフーン!」
「アース・ノーマッド!」
「アイス・カキ氷!」
そろそろ本格的に病んできそうなので、やめることにした。
「──お疲れ様でした」
鏡の向こうの自分に、せめてもの労いの言葉をかける。
「陛下も、『収納する派』でしたのね」
正作は驚きすぎて、ちょっと浮かんだ。
いつの間にか、部屋の中央に赤ドレスの彼女、エクステリアが佇んでいる。
「え、そ、いつ……」
「つい今しがた。夕餉の支度ができましたので、お迎えに上がりました」
す、と音もなく部屋を進み、正作の前に来るエクステリア。
「陛下も普段、翼を小さくしておく派のようで、わたくし、嬉しい限りでございます」
目を糸のように細め、緩やかに微笑んだ。
彼はポカンとした面持ちで、続く彼女の言葉を待つ。
「──いえ、四天王のほかの面々を見てもお分かりでしょうが、魔族の中にはがさつな奴儕も少なくないのです。翼など、用いる時に広げれば十分でしょうに。飛行能力持ちはそれなりに希少ですので、自慢したい気持ちも分からなくはないですけれど」
バサッ
羽音とともに、彼女の背後に巨大な真紅の翼が広がった。
それは、部屋の壁面、天井に迫るほど大きい。
いくらかの羽毛が、室内をひらひらと舞う。
正作のコウモリタイプとは違い、エクステリアは鳥類タイプのようだ。
(すごく、おおきいです)
服の背中の部分はどうなっているのだろう、と正作は場違いな疑問を抱く。
「邪魔でございましょう? これを、これみよがしに出しっぱなしにする連中がいるのですよね。まったく、もう少し──」
巨大な翼は、広げた時同様、バサッと一瞬で引っ込んだ。
彼は、奇術師のやる鳩のマジックを思い出していた。
「失礼。では夕餉の席へご案内いたします。ご着衣のほうを──」
「あ、はい」
正作は自分が上半身ハダカの状態であることを思い出し、少しく赤面した。