その24 〜褒美〜
二〇十六年二月三日水曜日。神戸某所。
十六時二十七分。
ガブリエラ・ジーン・ニューマンは、トラックに轢かれそうになった子供が、通りすがりの中年男性に助けられたのを目撃した。
「オーゥ!」
映画やドラマでは、定番過ぎてどうしようもないといった場面であるが、『実際に目の当たりにする』という事実が、彼女の脳髄を揺さぶった。
あのタイミングで、自分の危険も顧みず──
(前世紀に絶滅した侍の魂は、こうしていまだ息づいているのね)
ガブリエラは、ごく素直に感動していた。
そして助けられた子供は、あの男性に抱きついて涙するのだろう。
──と思いきや、子供は中年男性の手を振り払い、何故か人混みへ、こちらへ向けて走ってきた。
「きゃ」
彼女は、ぶつかられた拍子に、右手──子供と接触した部分──に、輝くような痺れを感じる。
(痛ッ──なに、スタンガン?)
反射的にガブリエラは自分の手を確認するが、火傷など、そうした痕跡は何もない。
子供は、すでにいなくなっていた。
ガードレールのところで、スーツ姿の若者が中年男性に話しかけている。
おそらく、中年男性の行動を褒め称えているのであろう。中年男性は「ダイジョウブ」「アリガト」と言っていたように聴こえた。
ズボンが破れ、少し血が出ている。
助けられた子供は何故か──本当に何故か? 走り去ってしまった。しかし中年男性は、特にそれを気にすることもなく、静かに去っていった。
(これは映画化、待ったなし)
瑠璃子にいい土産話ができた、とガブリエラは思った。
***
待ち合わせまで、まだ時間はある。
ガブリエラは、三ノ宮駅近くの喫茶店で、時間を潰すことに決めた。
からんからん、とドアベルが鳴る。
「イラッシャイマセー」
昨日から、かなりお馴染みになった日本語。
上品そうな中年女性が、店主のようだ。
「ドウモ、ドウモ」
ガブリエラはそう言いながら、スマホに『Could I get a coffee?』を和訳したものを表示させ、店主に見せる。
「オー、イエスイエス。サンキュー」
問題なく通じたようだ。
その証拠に、店主はサイフォンでなにやらやりだした。
thank youとI'm sorryは、日本人にとっては慣用句のようなものらしいので、空気のようにさらっと流す。同じ要領で、ガブリエラは「May I use your bathroom」とやり、トイレを借りた。
予想通り、清潔そうなトイレだ。
どこかの髪型がすごいフランス人ではないけれど、出先でトイレがアレだったりすると、彼女はとても悲しい気分になる。さりげないことだが、人間、ふとしたことの積み重ねで、良い流れになったり悪い流れになったりする。ガブリエラは、そう信じていた。
何かが倒れる音がした。
(……?)
特に深く考えず、彼女はトイレの扉をあける。
額に、何か硬く冷たいものがあてられた。
咄嗟に首を左に傾ける──と同時に鈍痛。
額の右端からこめかみと、何かが抜ける。
「──ッ!」
眼の前の誰かが、叫んだ。
たぶん日本語。
反射的に、その誰かを両手で押した。
今度は脇腹、下腹部、右太腿。
撃たれていると分かった途端、より強い痛みが襲う。
「アァアアアッ」
トイレから出たところで、がくりと膝立ちになる。
さっと右手で右側頭部を触ると、血がべったりついた。
「ア」
何か言おうとしたが、途中から血が溢れ出しゴボゴボと鳴った。
視界の片隅、カウンター横でさっきの中年女性が倒れている。
(強盗?)
ガチャッと音がした。
さっきガブリエラが押した相手は、迷彩服を着ており、特殊部隊のコスプレをしているかのようだ。さっきの音は、小銃を構えた音。
店内には、似たような者達が何人もいた。
「──」
「──」
何か言っている。
良くわからない。
ただ、涙が出てきた。
痛いからか。死が怖いからか。
そんなことを考える余裕もない。
血が詰まって息もできない。
銃声がした。
意外に響かない。
消音装置、そんなことを彼女は考える。
「──ッ!」
「──ッ?!」
まだ何か聴こえる。
幻聴のつぎは幻視。
アーミーもどき達の手足が飛んだり、肩から裂けたり、首が千切れたりしている。まるで地獄の光景。そうか、自分は地獄行きだったのか、とガブリエラは少しだけ悲しくなった。
特に悪いことはしていないつもりだが、かわりに大して善いこともしてきていない。洗礼を受けていないのがまずかったか。それとも仏教の輪廻転生か。なら次に生まれ変わった時は、もう少し良い子になろう。
「転生などない」
声がした。
英語だ。
「あの世もない。従って、天国地獄、極楽煉獄もない。少なくとも大工の息子は天国地獄などと世迷言で民草を惑わせはせなんだし、王子は転生なんぞ説かなんだ。あれなる『物語』は、ヒンドゥーやゾロアスターの影響なる」
英語だが、奇妙な響きだった。
少し違うが、たとえばシェイクスピアの台詞回しのような、古風な印象だ。
いや、そもそも英語かどうかも分からない。
ガブリエラは膝立ちのまま何かを言おうとしたが、やはり血の泡しか出なかった。
「今際の際にしては典雅なる詩想よな、娘よ。父母を想うなど凡庸な流れにないのは、いくらか大生の気に沿った。ゆえ、彼方へ征くにあたり、この大生より三つ褒美をつかわす」
かすれた視界の先で、その人物が指を三つ立てているのが分かった。
身体の大きさは、彼女と大差ない。
声は明快に伝わるのに、姿はぼんやりとして良く分からない。
その声から、女でなければ声変わり前の少年ということになる。
「一つ。娘よ、”法則改変者”に触れた以上、汝はここでは死なない。この希望は、今の汝にとり宝であろう」
そう告げ、指を一つ折る。
「一つ。常なる『世界渡航者の法則』の加護に加え、大生の権能の欠片を、汝に下賜する」
そう告げ、また指を一つ折る。
「終の一つ。今代の魔王のもとへ汝を送ろう。順序からして汝は魔族ならん。人間の里へ征かば、そこで汝は終わる。慈悲の配慮と心得よ」
最後に指が折られたところで、ガブリエラの意識は途絶えた。




