その1 〜山下正作〜
二〇十六年二月三日水曜日。神戸某所。
午後四時二十七分。
山下正作は、トラックに轢かれかけた子供を助けた。
三車線道路。幅広の横断歩道。
赤信号なのに突っ込んでくる大型トラック。
たまたま子供、一人。
狙いすましたように。
ほかの大人たちは歩道に退き、正作だけ子供の方へ跳んだ。
「うっ」
アスファルト。
全身を強く打つ。擦れる。
ここまで派手に転ぶのは、子供の頃以来だ。
脳が瞬時に沸騰し、しびれる。
(歩道)
それだけ考え、足が動く。手が子供に触れる。
人のざわめき声。音。
車のクラクション。
後続の車にまきこまれることもなく、正作とその子は、歩道脇のガードレールにたどり着いた。
「あ、あの、大丈夫?」
子供──十歳ほどの──は、肩を震わせるや、乱暴に正作の手を振りほどき、通行人の間を駆けて行ってしまった。
正作は、駆け去る子供の背を、無言でぼんやり眺めていた。
「ちょ、待てよ」
「きゃ」
などといった声が遠い。
(怪我、なかったのかな。心配だけど、まぁ、走れるぐらいだから大丈夫かな)
落ち着くや、身体の端々に鈍い痛みがあるのに気づく。
ズボンの左膝が、薄くやぶれて血が出ていた。
背中と左腕にも、鈍痛。
「大丈夫ですか。救急車とか……」
背広の若者が、右手にスマホを持ったまま訊ねる。
「あ、はい。はい。大丈夫です大丈夫です、ありがとう」
正作は弱々しく小声で何度も頭を下げ、人だかりの中からそそくさと退散した。
(ズボン買い換えなきゃ。また、お金がかかるなぁ)
人生の落伍者というと、様々の基準があるだろうが、とりあえず自分がかなりそれに近い状態であることを、正作は自覚していた。
***
山下正作、男。
昭和四十一年一月七日──午年生まれの五十歳。
奈良育ちの一人っ子。
なにをどうということもない中流家庭に育ち、高校時代は、アマチュア無線とファミコンにはまった。当時は、今より不良とよばれる人種がずっと凶悪で、正作も幾度かターゲットにされたが、幸い、自殺するほどは追い込まれなかった。キーワードは、焼きそばパン。
友達は、あまりいなかった。
これまた当時流行っていた漫画、ハイスクール奇面組などを読み、「自分もこういうふうに学校生活が送れればいいなぁ」と憧れてはいたが、それは夢想の彼方であった。カノジョなどに至っては、「この世のどこかに、いるという」ほとんど天竺のような扱い。
高校卒業後は、大阪の米飯製造工場へ就職。
どこかの大企業勤めの人が引退してから興した会社だそうで、中小企業ながら、それなりにしっかりとしたところだった。後になるほど、そう痛感した。
頭まですっぽりとおさまる白衣を着てマスクをつけ、夏場など汗だくになりながらも、パートのおばさん達にまぎれて、大釜で炊かれた白米、豆ごはん、酢飯、赤飯などを小学校の給食用容器につめたり、スーパー・コンビニ用のおにぎりをパッケージングしたり、資材搬入を手伝ったりした。
お酒は好きだったが、会社の忘年会は嫌いだった。
社長は、社内で孤立気味な正作を気遣って、都度都度声をかけてくれるわけだけれど、
(いい人なのは分かるし、こんなこと考えるのは恩知らずなんだろうけど……なんというか、負担だなぁ。いっそ放っておいてくれた方が、惨めじゃない分マシだ)
と、当人は思っていた。
人恋しさがないわけではないが、集団でいるよりは一人でいるほうが安らいだ。
奮発して買ったPC98のパソコンをちょこちょこいじったり、VHSビデオで留守録したアニメを週末楽しんだり、たまにガンプラなどを買ってきて組み立て、
(最近のガンプラは、指まで動いてすごいなぁ)
などと感心したり──要するに、そういう人間であった。
安月給ながらも、生活は安定。
孤独ながらも居場所はあり、世間も好景気。
思い返すに、この頃が正作の人生中、もっとも幸せな期間だったのかも知れない。
転機が訪れたのは、一九九八年。正作、三十二歳。
父が倒れた、と報があった。
末期の前立腺ガン。骨転移。下半身麻痺。
三十年ローンで建てた家は、地価高騰時に買ったもので、売っても返済額とは相殺しない。団体信用生命保険には入っていなかったので、父の死後は、母親にその負担がのしかかる。
「で、返済は残り、いくらあるの?」
「二千万円ぐらい」
病院の待合室で、力なく、母が答えた。
父は、生来の保険嫌いで、がん保険はおろか、生命保険にも加入していなかった。会社人でなければ、天引きされる年金や健康保険すら払わなかったに違いない。戦前生まれの、奇妙な頑固さを持つ人だった。
翌年、父は亡くなり、正作は母を引き取った。
家を売ったときには、父が倒れたときから更に安くなっていた。
悪いことは重なるというが、一九九九年。
ノストラダムスの大予言と同期するかのように、天災が正作に降り注いだ。
当世はやりのリストラである。
人の良い社長は、世の不景気にも負けずギリギリまで雇用を守り続けたが、やはり限界はある。社内での和になじめず、さりとてさほどの実務能力もない正作は、客観的にいって、実に切りやすい人材だった。
「退職金、色をつけておいたから。本当にごめんね」
母親は、レジ打ちのパートをはじめた。
正作は、しばし打ちひしがれた後──どうやって生きていこうか考えた末、独学で基本情報技術者資格を取ることに決めた。
世は空前のITバブル。趣味でいじっていたパソコンでなら、もしかしたら職にありつけるかも知れない、という判断だ。
四度目の試験で、ようやく合格。
二〇〇一年。何十ものお祈りを受けたのち、正作は小さなベンチャー企業になんとか就職した。契約社員として。
発電施設に絡む、ある端末の制御ソフト外注。
工場で使っているシステムのUI改善。
企業用ホームページの新規作成。
ちょっとしたブラウザゲームの保守管理など、言語も方向も雑多な仕事を、のべつまくなし処理していった。たいていは、別会社への派遣だ。
毎度変わる職場、そのたびに勝手の違うやり方。空気。
固定残業制だとかで、いくら残業しても給料が増えることはない。
職場に寝袋を持ち込むほどに働いても、血尿が出ても、それは変わらない。
やがて母も倒れ、寝たきりになっても変わらない。
ローンは返済しなければならない。仕事は、たとえいずれもが手間仕事で、スキルアップに繋がらないとしても止められない。
(生きるって、大変だなぁ)
二徹後の真夜中、帰途につく正作は、夜空を見上げて少し泣いた。
そしてリーマンショック。
正作は再び職を失い、別会社で派遣社員となる。
仕事がないわけだから残業もないが、給料はさらに下がり、やっていけなくなった。母親の医療費、自分が借りたわけでもない住宅ローン。
昼の仕事に続け、夜はコンビニのバイトをすることになった。
午後七時から入って、十一時まで。
バイトは若い子が多く、四十男の正作は、それだけで浮いていた。元来、社交的な性格でもない。いつしかバイトの間で、あだ名が「キモじい」となった。
二〇十五年の暮れ、とうとう戦力外通知が来た。
解雇されたわけではないが、実質は同じことである。
何しろ、いくら面談という名の面接を受けても、次の派遣先が決まらない。決まらなければ、給料もない。スマホアプリ制作もおぼつかない、オブジェクト指向の真価もいまだによく分からない、といって人付き合いも満足にできない──言われた作業を、ただこなすしかできないアラフィフ男には、むしろ遅すぎの判決だったか知れない。
昨年母が死に、遺産放棄で医療費やローンの負担はなくなった。
が、仕事もなくなった。
雇用保険受給目当てでコンビニのバイトも辞めてしまったが、先の展望もない。
仕事の関係で住居を神戸に移していた正作は、日々目的もなく、三宮あたりをうろついた。五年前に患った腰椎ヘルニアの再発を気遣いながら、ただ、人混みの中を歩く。とぼとぼと。
いっとき、わざと安物の背広姿で外食し、孤独のグルメごっこをやってみたりもしたが、虚しくなってすぐやめた。あれは、もっとまっとうな……充実した大人がやる遊びなのだろう。
(何のために、生きるのか)
若者が戯れにやる思考遊びが、今の正作には重すぎた。
***
二〇十六年二月三日、夜。
自宅のマンション(1DK)に戻った正作は、かんたんに傷の手当をした後、コンビニで買ってきた発泡酒の缶をあけ、チーカマの束をコタツの上に転がした。ささやかな酒宴のはじまりだ。
23インチの液晶テレビが、どこか外国の事件を報じている。
(……さっきのって、もしかしたら異世界転生フラグだったのかも)
などと、益体もないことを考えつつ、むいたチーカマを齧る正作。
誰かを助けようとしてトラックに轢かれたり、刺されたり、爆発したりすると、なぜか知らん、異世界へ行けることになっていた。誰が最初に思いついたのやら、ちょっと気の利いた導入だ。
「ま、お手軽な現実逃避だよなぁ」
ビールの味など、とうに忘れた。発泡酒こそ、我がビール。相変わらず先の視えない人生ではあるけれど、今夜はほどほどに気分が良かった。
自分のような人間でも、世の役に立つ機会があったのだ。
何しろ、先の子供──性別すらよく分からなかったが──の死ぬ運命が回避されたのだ。少なくとも、少子化社会にとっては善いことであろう。
あるいは将来、あの子は国を救う大政治家やら大企業家になるのかも知れない。
そう妄想することは、慰めとしても悪くない。
ひっそりとほくそ笑み、次のチーカマをむいたところで、玄関の扉がバンと乱暴に開かれた。
「え」
特殊部隊、そんな単語が正作の脳裏によぎる。
その連想にふさわしく物々しいコスチュームに、名前は知らないがとにかく小銃のようなものを構えた数名が、たちまちコタツに座ったままの彼を囲い込んだ。
「え」
もう一度、正作。
「こいつか」
「面倒なことをしてくれた」
「なに? 善行をつんで天国へでも行くつもりのヒトなの?」
集う銃口が目先につきつけられる様は、どこまでも非現実的だ。
「え」
三度目。
「……拍子抜けだな。もっと仲間がいるかと思ったが」
「単に、巻き込まれただけか」
「処理班は?」
「五分後」
「あっそう。んじゃ、行方不明ってことで」
「じゃあな、オッサン」
誰かが、正作のコメカミに何かを押し当てた。
「え」
カヒュッ
それが、彼の聴いた最後の音だった。