ノワゼット侯爵夫妻①
『くちびる同盟』28話「いい子」頃
ノワゼット侯爵邸に帰ると、いつも笑顔で迎えてくれる妻の代わりに、家令が穏やかな笑みをたたえて立っていた。
フェルナンは、嫌な予感がした。
この展開は、何度か、もう指で数えきれなくなるほどには経験したことがあった。この後聞かされる、妻のカロリナがどうしたああしたということに、振り回されなかったことはない。
家令のアルマンはフェルナンに帰宅の挨拶をすると、そのままの流れで言い放った。
「奥様が、失踪しました」
「はぁ?」
「旦那様がもうすぐお戻りですとお伝えしに行ったところ、部屋がもぬけの殻でした」
フェルナンは頭を抱えた。しかし間髪入れず頭を働かせる。
「……デジレとマリー嬢のところだな」
理由はすぐに思いついた。おそらく弟のデジレの相手であるマリーに会いに行ったのだろう。
先日、デジレにようやくシトロニエの祝福が起こったとカロリナが興奮して喜んでいた。
フェルナンも祝福の関係者として、結婚後に義父より内容を説明されていたので、理解していた。要するに、あの真面目すぎる義弟に相手ができたということだ。フェルナンにとっても喜ばしいことだった。
その後、カロリナはしきりにマリーに会いたいと言い続けていた。
フェルナンとしても、そろそろいい加減に会わせてあげた方が良いだろうと、デジレとマリーを侯爵邸に招待しようと準備をしていた。そうしないと、社交界では感嘆の声しか出ないほど完璧な淑女なのに、家では自由奔放に駆け回るカロリナをなだめることができない。
ただ。その準備が、彼女には遅かったらしい。
「彼女は今の自分の状態を理解していないのか?」
少し頭痛がして、フェルナンは頭を押さえる。
まだ、いつも通りに微笑むアルマンを見て、ため息をつく。
「アルマン、本日の夜会の予定は?」
「本日はアマンド子爵家主催のものだけです」
「間違い無い、その夜会だ」
デジレとマリーは夜会に参加し始めたとカロリナから聞いている。
しかもアマンド子爵家は、カロリナの親友の実家だ。訪ねるにはちょうど良い、勝手知る場所だろう。
「ララも姿がありませんので、共に出かけたかと」
「ララがいるのか。まあ、一人でないだけましだが、主人があの状態でとめられないのは看過できない」
カロリナの侍女であるララは昔から彼女に仕えているせいか、主人に弱い。その主人も主人なので可哀想なところもあるが、そこはしっかりと指導しなければいけない。
「向かわせますか?」
「いや。私が迎えに行く」
「準備はできています、旦那様」
平然と言うアルマンを彼は睨む。早すぎる準備は、どう考えてもわかってやったことだ。
脱いだばかりの上着を羽織って、フェルナンは馬車に乗り込んだ。
彼は、深く長い息をはく。
カロリナが侯爵邸に通っていた日々もそれなりに邸が明るくなっていたが、いざ彼女が嫁いでくると、ひとりのはずが分身して侯爵家にやってきたのかと思うほど毎日が賑やかで騒がしい。
しかも、侯爵家は皆彼女の味方だ。妊娠発覚時など、大事件だと鬼気迫るアルマンたちに、外出先から訳もわからず邸に強制連行された。その後はフェルナンでさえ今まで見た事がないほど、侯爵家総力を挙げての祝賀会が催された。
カロリナは愛されている。
ひとり家族が増えただけでこれだ。これからもっと騒がしくなるのか、と遠い目をしつつ、馬車にてまた深く息をはくが、フェルナンの顔には笑みが浮かんでいた。