ベルナールが見たはじまり③
スリーズ邸を目的地とした馬車の中、デジレはじっと、飽きることもなく抱いている彼女の顔を見つめている。ベルナールは、そんな主人を観察していた。
デジレは、彼女の名前を呼んだ。伯爵に女性関係は特にないと報告してきたベルナールにとって、それは驚くことだった。
デジレは男性貴族なら網羅するほど記憶力がよいが、対して女性の名前と顔を全く覚えなかった。話している瞬間は覚えていても、話し終えるとすっかり記憶から抜けている。そうすることで自衛しているかのようだった。
そんな彼が、女性の顔と名前が一致している。それはどこかで、会ったことがある上に名前を覚えたということだ。
目を閉じて、ぐったりとしている少女を見る。暗めの濃い茶色の髪は特別に艶があるわけではなく、顔のかたちも悪くはないが特別良くもない。至って平凡な少女だった。
急なキスをしたのだから、デジレが恋い焦がれていたのかと考えるにしても、失礼だが首を傾げてしまう相手だ。そもそも、デジレは誰かを気にしているという様子は全くなかった。あれば嘘や隠し事が苦手な彼のこと、ベルナールにはすぐに見抜く自信があった。
「デジレ様は、そちらのご令嬢をご存知なのですか」
ひとまず声を掛けても、デジレは全く反応しなかった。ただただ、ずっと彼女を見つめている。
その目には特別な感情も見られず、澄んでいる。ベルナールは全く、主人の考えがわからなかった。
馬車が止まり、スリーズ邸に着いたと御者から連絡される。頷いてデジレに伝えようとベルナールが前を向けば、彼は無理矢理身馬車の扉を身体でこじ開け、急いで飛び出していくところだった。
仰天した。どう考えてもおかしい彼をひとり放っておくわけにはいかない。ベルナールもすぐに降り立つ。
デジレは先程までの静かさは嘘のように、彼女をしっかりと抱いて、邸まで走っていく。彼が玄関のチャイムを激しく鳴らしている時にようやく、ベルナールは彼に追いついた。
「で、デジレ様」
たしなめる間も無く、玄関の扉が開く。
眠そうに目を擦っている、使用人と思しき少女が開けたようだ。半分開いている目で、ぼんやりとデジレを見ている。
「夜分遅くに申し訳ありません、私はデジレと申します! こちらのご令嬢が倒れたので、お連れいたしました! すぐに! すぐに横にしてあげてください!」
デジレが、髪を振り乱して、余裕なく訴える。
ベルナールはその必死さにさらに驚いた。驚いたのは彼だけではなく、目の前の使用人の少女も目を丸くし、デジレの腕の中の少女に気付き、慌てて邸の中に向かって走っていった。
すぐに、廊下の奥から大きい足音が聞こえてきた。焦げ茶色の髪の、気絶している少女の父親と思われる中年の男性が走ってくる。彼は玄関まで到着すると、戸惑ったようにデジレと彼女を交互に目を向ける。
「すぐに彼女を休ませて! 早く!」
デジレにはそんな困惑など関係ないようで、彼に彼女を差し出す。彼はデジレの勢いにためらいながらも、彼女を受け取った。
完全にデジレの手から彼女が離れた時だった。デジレが、心からほっとした顔をした。
そして、役目を果たしたとばかりに肩を落とし、ふらりと身体を揺らして、邸から出ていった。
その様子を、誰もがぽかんと見ていた。
言葉にならないためらいがちな声が、邸の中から聞こえる。
ベルナールはひとまず彼らに一礼して、主人の後を追った。
ベルナールはデジレに肩を貸し、なんとかシトロニエ邸の部屋まで到着した。ソファーに座らせ、ぐったりとしている彼を見ながら、汗を拭う。
スリーズ邸からシトロニエ邸に戻るまで、デジレは糸が切れたように放心していた。うんともすんとも言わず、まるでそれまでの彼が夢だったのではと思うほど、変わり果てていた。
もともとおかしな行動をするところはあったデジレだが、今回は異様なほどおかしい。なにがおかしなものを口にしたのか。ベルナールは今日一日を最初から思い出していた。
「あら、早かったのね」
カロリナが顔を出した。彼女はデジレに目をやり、血相を変えた。
「デジレ! どうしたの!」
走り寄るカロリナに、デジレは虚ろな目を向けた。青ざめている唇が僅かに動いて、閉じられる。
話せないとすぐに判断したのか、彼女はベルナールに詰め寄った。
「なにがあったの! 見ていたでしょう、報告しなさい!」
ベルナールは慌てて夜会の一連の出来事を思い出す。
なにがあったか、すべてのはじまりはあの光景だ。
「デジレ様が、キスしまして」
「はあ?」
カロリナが目を点にする。
「デジレが、キスされたじゃなくて?」
「はい。間違いなく、していました。夜会の会場の中心で、それなりに長く」
驚きすぎてただ見るだけだったあの場面は、意外にもしっかりとベルナールの脳裏に焼き付いていた。
カロリナは言葉を失っている。それはそうだ、ベルナールも聞いたら驚く。
あのデジレがそんなことをしたと聞いても、理解できない。
「……相手は、誰かわかる?」
「たしか……マリー・スリーズ様です。子爵家の」
「たしか?」
「デジレ様が彼女をそう呼んでいたので、おそらく」
「知っていたの!?」
カロリナがひときわ大きな声を出す。
すぐにさっとデジレに向いた彼女は、半ば無理矢理に彼を揺すって、声を掛けた。
「デジレ、デジレ! 貴方、キスしたの?」
暗く沈み込んだ目をしているデジレは、頭を抱えて低く唸っている。
「……し、しました」
「どうして? なんで、そんなことをしたの?」
勢い込んで聞くカロリナの声は、責めてはいないが語調が強かった。デジレはくしゃりと顔を歪めて、首を振る。
「わからないのです……。わからない! どうして、俺は、あんなにひどいことを!」
そして、頭を深く抱える。
「彼女を見たところまで覚えているのに、それから靄がかかったみたいに記憶が飛んで! 気付いたら唇がくっついていて、すぐに離したんだ!」
まさか、覚えていないとは。ベルナールは驚きすぎて目が落ちそうだった。
たしかに、デジレがしそうな行動ではなかった。しかし、あれだけ熱烈に口付けしておきながら記憶がないとは、言い訳にしても拙い。ただ、ずっと見てきたデジレの今の様子を見れば、嘘はついていない。だからこそ驚く。
カロリナも同じようだった。彼女もエメラルドの目をまんまるにして、いきなりのお父様、と声を張り上げて部屋を飛び出していった。