出会い <デジレとマリー>②
突っ立って考えているデジレに、カストルは自慢気に鼻を鳴らした。
「ま、お前、その歳になっても恋とかしたことないんだろう。俺の方が先輩ってこと!」
恋。たしかに、したことがない。
デジレは自分の胸元を見つめた。
そもそも、女性を好きになることなど考えたことがない。その前に、女性は未知の怖いものだと避けてきた。実際に身近な姉や幼馴染みは、理解できないところがある。
しかし、異性に恋することは普通にあるのだ。目の前のカストルもそう。姉もそう。仕えるオーギュストにも、好きな人を教えてもらった。
デジレは経験がない。恋や人を好きになることは悪いことではないと思う。ただ、どういうものかわからない。
「恋って、どんなものなんだ?」
「……え、なんだよいきなり」
「カストルの言う通り、私は経験したことがない。だから今後もし、恋をしても、恋と気付かないかもしれない。そうならないために、どういうものか教えてほしい」
真剣な目と声で、カストルにまっすぐに訴える。
ええー、という小声が聞こえる。カストルは自身の黒髪を掻き続け、しばらくして手を止める。そして、ごほんとわざとらしく咳払いをした。
「仕方ない、俺は先輩だからな。教えてやろう!」
「ありがとう、カストル!」
「恋とはな」
カストルが人差し指を立てる。デジレが息を呑んだ。
「……人によって違うものだ!」
「な、そうなのか!」
「そうだ! だから、自分で気付くもんだ! 人に聞くな、聞かれた相手が困る!」
「わかった!」
自信たっぷりに言うカストルに、デジレはしっかり頷いた。
なるほど、人によって恋が違うというなら、好きになる相手が皆違うのも納得だ。そうデジレは、パズルの最後のピースがはまった時のような感動を覚えていた。
この感動を言葉にしようと言いかけた時。静かだった庭に、なにか音がした。
反射的に耳を澄ます。その音は、どうやら人の声だ。高めで断続的に続くそれは、少女の泣き声だとわかった。
「おっと、女の子が泣き声がするな! これは男として放っておけない! いくぞ」
どこかほっとした風に言ったカストルが、勇ましく声のもとに向かって歩いていく。デジレもすぐにその後に続いた。
ずんずんと進めば、どんどんと泣き声が大きくなってくる。悲壮感はそこまで漂っておらず、子どもが寂しいとわんわんと泣くような声だ。時折抑えようとしているのか、声が小さくしゃくりをあげ続け、またひときわ大きな泣き声が響く。
カストルが、木の傍でしゃがんだ。デジレも従い、腰を落とし気配を消す。カストルが親指で指した場所を見れば、うずくまっているひとりの少女の姿が見えた。
「あらま、可哀想に」
カストルのささやき返事をせず、デジレはじっと少女を見る。髪は、夜に混じるほど暗めでわからない。膝に顔を埋めているので、どんな顔かもわからない。年齢はデジレたちよりも二つか三つほど下のようには見えた。
ぐずぐずと鼻をすすり始めた彼女は、どうやら少し落ち着いてきたようだった。淡く見える青いドレスで、目元を拭って、顔を上げる。
丁度、雲に隠れた月が、顔を出した。
柔らかい白い光が、暗めの髪を鮮やかな焦げ茶色の髪に変える。きらりと、一筋が桃色に輝く。
月を見上げ、月光を受け取った青い青い瞳が、ふわりと柔らかく煌めいた。その泉からすっと落ちたひとつの雫が、白い頬をたどり、ひときわ白く月のように輝いて、滑っていく。
幻想的だった。神秘的だった。
デジレは、息が止まった。心臓が掴まれた。目を、全く離せなかった。
喉が、ごくりとだけ、鳴る。
「あれ、あの子……なんでこんなところに」
耳はしっかり機能したらしい。
カストルの疑問の声に、デジレは目は動かさずに聞く。
「カストル、誰か知っているのか」
「ん、まあ。女の子なら詳しいから」
「誰か、教えてくれないか」
カストルは驚愕した。デジレが一切彼の方を向かず、微動だにせず少女を見つめていることに気付き、さらに目を見開く。
「あ、ああ……。マリー・スリーズだよ。スリーズ子爵家の長女の」
「マリー・スリーズ……」
夢に浮かされているようで、しっかり記憶に刻むように、デジレは呟いた。
カストルは、あまりにも真剣な友人の姿に戸惑っていた。邪魔してはいけないような不思議なこの空気は、おちゃらけた彼には耐え難かった。
「な、なんだよ今まで女の子にはちっとも興味なかったのに。名前もどうでもいいって感じだったのに」
デジレは瞬きをしてないのかと思うほど、食い入るように彼女を見ている。カストルの声に全く反応せず、聞いているのか聞いていないのかも、よくわからない。
「ほら。お前の幼馴染のマリーローズ様、あの子と同じ年齢だよ。あっちはすでに美人で有名の『高嶺の薔薇』だからマリー様って感じだけど、こっちはマリーちゃんって感じだよな。マリー様の陰に隠れてしまってるし、同じマリーで同い年ってことで比較して『道端の野薔薇』とか誰か言ったんだっけ」
カストルがやけくそ気味にぺらぺらと話す。デジレは変わらず動かない。
また、彼女が嗚咽を漏らし始め、大声で泣き始めた。
デジレがはっとして、とっさに飛び出そうとする。カストルは慌てて彼を掴んだ。
「待て、こら!」
「離してくれ! 泣き止ませなきゃ……」
「止めとけ。迎えがきてる」
カストルがデジレを抑えて、指差せば、丁度彼女の傍に保護者らしき男性が現れた。彼女は立ち上がり、彼の手を取って、反対の手で涙をまた拭う。そして、ゆっくり歩いて去っていく。
デジレは彼女が去っていく背中を、完全に見えなくなるまで見送った。