ノワゼット侯爵夫妻②
①の後~『くちびる同盟』三章に入るまで
夜会で気疲れしたフェルナンが自宅の扉を開けると、妻が腕を組んで立っていた。
「おかえりなさい」
ぶっきらぼうな声に、顔は頬を膨らませ、不機嫌が滲み出ている。膨らんできた腹を見せつけるかのように、でんと玄関に居座るその姿は、まさにご立腹だった。
「……ただいま」
「ずるい」
カロリナがフェルナンの帰宅の挨拶を遮るように強く言う。
「私だって夜会に出て、デジレとマリーを見守りたかったのに!」
「ああ」
叫ぶ彼女に、フェルナンはわかっていたかのような顔をして、近くの使用人に上着を渡す。そしてカロリナの横をすたすたと歩いていけば、彼女は慌てて彼に食いついた。
「ちょっと、フェルナン様!」
彼女が腕に絡みついて止める。フェルナンはため息をついて、彼女に顔を向けた。
「君は今の自分の状況を知りなさい。前回叱られた内容を忘れないように」
「前はどうしてもマリーに会いたくて……そんなことよりも!」
すっとフェルナンの進行方向に立ったカロリナは、可憐な顔を不満げに歪めて彼を見つめる。
「ララを懐柔しましたね? 絶対に奥様は邸から出てはいけませんって、私のお願いを全く聞いてくれないんですよ!」
「当たり前だ」
「ララだけじゃなくて、アルマンも、みんな! お身体が大切ですって、ここに私を閉じ込めようとするんです!」
「君がおとなしければ、こういうことにはならなかった」
「フェルナン様の指示ですよね。ひどい、なんて横暴な!」
「この侯爵家の主人は私だが」
むううとむくれ続ける彼女を尻目に、いつの間にか傍に控えていたアルマンにフェルナンは声をかける。さっと渡された一枚の紙を広げて、一通り目を通すと、フェルナンはため息をついた。
「それにしても、あの二人は夜会を網羅する勢いだな。これに全部私も出席するのか……」
びっしりと夜会の予定が書かれた紙は、カロリナがデジレの侍従から貰ったものだ。これに従いデジレとマリーが参加すると知らされている。
次の夜会はとフェルナンが確認していると、カロリナがひょっこりと紙を覗きこむ。彼はそんな彼女を見て、また息をはいた。
「夜は君の傍にいてあげたかったんだが」
「でしたら、私も一緒に……!」
「それは駄目だ。やはり私が一人で全て行く」
きらきら目を輝かせたカロリナが、がっくりとうなだれた。
何をしでかすかわからない彼女と、見張りも兼ねて邸で一緒にいてあげたかった。しかし夜会に、しかも今度は自分がデジレたちを助けるのだと張り切っている状態の彼女を、彼らと同じ場所にいさせる方が危険だとフェルナンは感じていた。まして身重、前例がある。
カロリナはこれ以上言っても駄目だと悟ったようだった。少しおとなしくなったものの、やはり頬を膨らませる。
「浮気したら許しませんから!」
「そんな目的じゃないのは知っているだろう」
「でも、妻の妊娠中は夫が浮気しやすいから、しっかり手綱握ってなさいって」
「誰だ、そんなことを言ったのは。またジャンか」
よく顔を出す従弟を思い浮かべる。少々おせっかいなきらいがある彼は、しばしばフェルナンたちの喧嘩や誤解を引き起こしてきた。悪意が全くないのはよくわかっているので、たちが悪い。もちろん、彼のお陰であるところもあるのだが。
それにしても、とフェルナンは不安げなエメラルドの瞳をじっと向けてくる彼女に目をやる。
誰に言われたかは知らないが、浮気など少しでもすると思われたのなら、非常に不本意だ。
「どうして私が、君が悲しむことをしなくてはいけないんだ」
カロリナが、ぽかんと口を開ける。しかしすぐに笑みを浮かべると、嬉しいといった感情を少しも隠さずに、フェルナンの腕に絡みついた。
「フェルナン様、大好きです」
彼女が幸せそうに、彼の腕に頭を預ける。そんな妻の様子に、フェルナンは柔らかく微笑んだ。
「私もだ」
「駄目です」
「え?」
「ちゃんと言葉にしてください」
嬉しそうに口角を上げて、カロリナがフェルナンを見上げる。フェルナンは一歩後退った。
「そうね、十回言ってください。これから私を一人寂しくさせるんですから」
「十回……」
美女の麗しい笑みが向けられるが、そこには小悪魔のような可愛らしいいたずら心があった。
どうするかと弱った彼は、しばらく考え、決めた。
「カロリナ」
呼びかけ、反応をみせた彼女の耳元に唇を寄せて、囁く。
カロリナが、ぱっと顔を綻ばせる。彼女がこれ以上ないと顔に喜色を滲ませて、フェルナンを見つめた。
「その言葉でしたら、特別にあと四回にしてあげます!」
「え、いや、今のは十回分」
「もちろん同じ言葉で、ですわ。今すぐに言えとは言いません。私、良き妻ですから、次の夜会までの猶予をさしあげます!」
次の夜会はいつだったか。フェルナンが紙に書かれていた予定を思い出す。
「明日までに……あと、四回……」
フェルナンが、虚ろな目で唸る。カロリナはそんな彼の腕にじゃれて楽しそうにうふふと笑う。
二人が夫婦の部屋に消えていくのを、周りの使用人はにこにこして見送った。