第五話・濡れた泥の斜面
母に場所を譲ってもらい、穴に首を突っ込んで右上方を見ると、真っ暗な中に白い小さな点が見えた。あれがきっと空だ。どれくらいの距離があるかちょっとわからないけど、水路には水がちょろちょろと流れて濡れており、ぬるぬるとしている。その白い点までたどり着くのは、相当きつそうだ。濡れた泥だけならまだいい。そこにもし、ゴツゴツとした剥き出しの石があったとしたら、下手をすれば怪我をするかもしれないし、最悪、濡れたこの坂を滑り落ち、石によって体中を削られ傷だらけになり、動けなくなることもあり得る。そして、落ちた先には……。僕は左後方に視線を移し、闇の中に目を凝らしたが穴の奥の奥に何があるのかは全く見ることは出来なかった。そこは音のない、完全な闇だった。僕はお志乃ちゃんと場所を交代した。しばらく穴の右と左を見ていたお志乃ちゃんはやがて僕に向かって言った。
「上に誰かいるかもしれないね」
「そうだね……。夜になってから昇ろう、その方がきっと安全だね」
「うん」
僕たちは穴を母に譲ったけど、母はもうその場所に興味を無くしたようで、父の死体を水から引き揚げて抱いてしゃがみ、まるで赤ん坊でもあやすように優しく語りかけていた。でもその眼は笑っておらず、大きく見開いて僕とお志乃ちゃんを見ていた。幽霊のようなその鬼気迫る形相に、僕の母親への信頼と愛は急速に冷めていった。
「寒い……」お志乃ちゃんが僕の左腕をつかみ、身体を寄せてきた。僕たちは母とは逆の壁際にしゃがんで抱き合った。お志乃ちゃんの肌は、柔らかくて温かかったけれど、いつまでもこうしていては、身体は弱っていくばかりだろう。なんとかしないと……。そう考えていたら、突然お志乃ちゃんが、僕に接吻をしてきた。やわらかい唇の感触に僕の思考はしびれたようになった。僕は思わずお志乃ちゃんの身体を両手で力いっぱい抱きしめた。お志乃ちゃんは声を殺して泣いていた。母はずっと怖ろしい目でこちらを見ていた。
時折、僕たちは身体を離して穴から外の様子を確認した。外はなかなか暗くならず、僕はやきもきとしていた。そんな時、檻の向うの、入口が少し騒がしくなり、例の白い着物を着た男達が、僕たちの牢の扉を開け、にやにやと笑いながら、また母を連れ出そうとした。叫び声を上げる母から、彼らは首のない父の死体をもぎとり、泥水に投げ込んだ。母は悲鳴を上げながら、引きずられていった。母が僕の方を、すがるような目で見たが、さきほどまでの幽霊のような形相を思い出した僕は、母に対してなんの感情もわかなかった。僕は震えるお志乃ちゃんの肩をしっかりと抱いた。
やがて、夜が来た。
僕は穴から上方を確認した。白い点はもう見えない。その代わり、所々にオレンジ色の輝きが見える。昼には見えなかったけど、僕たちが今いるこの檻と同じものが、地上に至るまでにいくつかあり、そこから漏れるわずかな松明の明かりなのだろう。お志乃ちゃんにも穴の様子を確認させた後で、僕は言った。
「僕が先に行くね」
お志乃ちゃんは、小さく頷いた。冷たく柔らかい泥を押し開きながら、僕は頭から、そこに入り込んだ。想像していたよりも穴は横幅が狭く、身体を斜めにしながらでないと、進み辛い。ただ、泥は湿っていて柔らかく、石も全くないようだったので、指先とつま先をしっかりと泥に食い込ませれば、滑り落ちる危険もなく、上方に進んでいけそうだった。僕はお志乃ちゃんが穴に入れるくらいの位置にまで進み、後ろを振り返ろうとした。でも穴が狭いために、首が回らず後ろまで見ることは出来ない。しょうがなく僕は腰を浮かせ、股の間から下の様子を見た。お志乃ちゃんが穴に顔を入れて、こちらを見ていた。僕が声をかけると、ゆっくりと、窮屈そうに穴に入ってきた。足の裏に、お志乃ちゃんの頭が当たり、僕は上へと進んだ。夜が明けるまでに、地上につかなければ……。大丈夫だ、この様子ならきっと、すぐに地上に出られるはずだ……。