第四話・救出
再び怪物が、入口の所に現れた。僕はゆっくりと腰を浮かせ、そろりそろりと扉の所まで歩み寄り、檻の太い丸太を両手で掴み、その間から怪物の動きを観察した。そいつは僕たちの檻の正面、お志乃ちゃんのいる檻に入り、そして何かを引きずりながら出てきた。それはお志乃ちゃんの裸の身体だった。怪物は、お志乃ちゃんの両足首を巨大な右手で握り、ずるずると引きずっていた。黒い髪は水に濡れ、習字の筆のように地面に黒い線を描いた。怪物は部屋の中央まで来ると、今度は逆の手で両腕のない男の頭を鷲掴みにして、引きずって出口に向かった。僕はお志乃ちゃんの身体を、食い入るように見つめた。
その時……、お志乃ちゃんの顔がこちら側を向いた。お志乃ちゃんは顔中に黒い痣を作り、その顔は涙でぬれていた。その口が、ぱくぱくと開き、そして力なく左手があがり、僕に向かって差し伸べられた。その時の彼女の、哀しそうな顔と言ったらなかった。僕は一瞬躊躇したが、彼女に向かって叫んだ。
「お志乃ちゃん!!」
「あああ……、うわああああ!!」お志乃ちゃんは顔をくしゃくしゃに歪めて、声をあげて泣き始めた。僕は右手を丸太から離し、こちらを向いて僕を見つめている怪物に向かって、右手こぶしを突出して咆えた。
「おおおおおお!! うおおおおおお!!」
怪物はお志乃ちゃんと両腕のない男から手を離し、怒りを顔に浮かべながらこちらに歩いてきた。そこで父が僕を羽交い絞めにして檻から引き離した。
「馬鹿め! 何してる!」
「助けるんだ!! お志乃ちゃんを!!」
「馬鹿!! 無理だ!!」
巨大な怪物が檻の向うに立ち、両手を開いたり握ったりしながらこちらに襲いかかる素振りを見せる。その背後から、白い着物の男達二人がかけより、怪物を後ろに下がらせた。二人は何やらひそひそと相談していたが、南京錠を開け、母に向かって手招きをし始めた。母はそんな二人の手の動きを、無表情に見つめるだけだ。やがて二人は痺れを切らし、牢屋に入ってきて二人がかりで母を牢屋から引きずり出そうとした。
「おい……」
父が僕の身体から両手を離し、着物の男二人に声をかけた。二人が振り返った。逆光のためにその表情はよくは見えなかったが、ニヤニヤと笑っているようだった。父は大股で二人に歩み寄り、驚く二人の顔面を猿臂(肘打ち)二回で打ち砕いた。二人は絶叫し、身体を揺らしながら、檻から出て部屋から逃げ出した。怪物は、二人の後を追うかどうか迷っているようだったが、巨大な手を開けっ放しの檻の扉から差し入れ、逃げようとする父の頭を掴み、それを握った。ぼん、という音がし、怪物が手を開くと、父の頭は血に濡れたボロ雑巾のようにひらひらとはためき、そして父の身体は、力なく泥水の中にくずおれた。
「ひ!! ひいいいいい!!」
母が絶叫し、奥の壁を両手でかきむしった。ぼろ……、と壁の一部の土がはがれ、泥水に落ちて音を立てた。怪物は、父を殺して安心したのか、ゆっくりと部屋の出口に向かい、出て行った。僕は浅い泥水に浸かった父の死体を前に、ガタガタと震えていたが、お志乃ちゃんのことが気になり、はいずりながら檻を出て、お志乃ちゃんの元へと向かった。その手を握ると、彼女はまた泣き出した。
「う、うわあああん!!」
お志乃ちゃんはよろよろと起き上ると、僕に抱きついてきた。ぬるぬるとした泥にまみれたその柔らかい身体に、僕は一瞬、むらむらとしてしまったけど、そんなことをしている暇はなかった。僕は唇を彼女の耳に押し当てて、小声で言った。
「逃げよう……。大丈夫、ここさえ抜けられれば……」
そこまで言った時、入口から大勢の白い着物の男達が入って来るのが見えた。その手には太い丸太が握られている。その中の一本が、僕に向かって振り下ろされるのを見た。「あっ」とお志乃ちゃんが声を上げたのまでは聞こえたが、その後僕は、意識を失ってしまった。
そして……。
気が付くと僕は、元の檻の中で、お志乃ちゃんに手を握られ、彼女の太腿に頭を預けていた。お志乃ちゃんが心配そうに、僕を見つめていた。「よかった……」、振り絞るような声だった。ばしゃっ、ばしゃっという水音が気になり、僕は起き上がり、暗闇に目を凝らした。奥の壁際で母が笑いながら、壁土を崩して出た土を泥水にぼろぼろと落としていた。見ると結構深い穴が壁には開けられていた。
「あれは……」
僕がそういうと、お志乃ちゃんが説明してくれた。
「あの壁の向うにね、狭いけど空洞があって、用水路のように水が流れているの。あの女の人が、偶然それを見付けて、そこから逃げ出そうと、穴を掘ってるみたい」
「あれ、僕のお母さんだよ」
「え! そうなの? じゃあそこに倒れているのが、お父さん?」
見ると泥水の隅に、まだ父の身体が浸かっている。
「うん……。お父さん殺されちゃった……」
「かわいそうに……、でもね、私のお父さんも殺されたの。手を千切られて」
僕はちらっと、檻の向うを見た。両腕のない死体は片付けられたのかもう床には無かった。お志乃ちゃんが僕の頭を、ぎゅっと抱きしめた。
「あの穴から、逃げられるといいんだけど……、でも、駄目でもいい。あなたが一緒だから、もう怖くない。ずっと私と一緒にいてくれるよね?」
「うん、もちろん」僕は力強く答えた。
ばしゃ、ばしゃ、という水音が止まった。母がこちらを見て、うれしそうに笑った。どうやら、人が水路に入り込めるくらいの大きさの穴が、壁に開いたようだ。
「いこう」「うん……」
お志乃ちゃんが、僕の手を握って引っ張った。