第三話・志乃(しの)
怪物が、握り締めていた腕を放り出しくぐもった声で笑った。入り口から大勢の者達がゆっくりと部屋に入ってきた。男、女、老人、子供、その三十人ほどの者達は全員裸で、首を荒縄でくくられていた。最後に入ってきた一人の少女を見て僕は驚きに声をあげそうになった。それはこの山を下ったふもとにある町のタバコ屋の娘、志乃ちゃんだった。身に衣服をまとわず髪をぼさぼさと振り乱したその姿は、いつもこざっぱりとした身なりで礼儀ただしく、僕達子供たちの優しいお姉さんといった彼女とかけ離れた姿ではあったけれど、このご近所ではめずらしいその整った顔立ちを、僕が見間違えるはずはなかった。僕は無言で太い檻を両腕でつかみ、顔を冷たい扉にこすりつけ、その隙間から志乃ちゃんたちの様子をじっと観察した。
三十人ほどの裸の者達は、その後入ってきた白い着物の男達によって首の縄をとかれ、十ほどの檻に数人づつ入れられていった。ただひとつの檻を残してすべてがうまり、檻の外に残されたのは志乃ちゃんだけ、という状態になったところで、その異変は生じた。部屋の中央で志乃ちゃんを取り囲んでいた着物の男達が、志乃ちゃんを連れて残された一つの檻へとそろって入っていったのだ。それは僕達が入れられた檻の、ちょうど真向かいに位置しているが、その暗い檻の中で何が行われているのかまでは見ることが出来ない。ただその檻の中から、男達の叫び声や笑い声、志乃ちゃんの悲鳴などが聞こえてくるだけだった。
長い時間が過ぎ、その退屈さにじれた僕が、檻から顔を離して左右を見ると、僕の右では父が、左では母が、僕と同じように扉に顔を押し当て、部屋の様子を見つめていた。僕は母に言った。
「あれ、志乃ちゃんだよね。タバコ屋の」
母は僕の方を一瞬見たが、無言でまた扉に顔をつけた。僕はさらに言った。
「あれ、何やってるの? 志乃ちゃん、何をされてるの?」
父も母も無言だった。
しばらくして、正面の檻から一人また一人と白い着物の男達が出てきて、談笑を交わしながら去っていった。その言葉はやはり、僕の知らないもので、僕にはうまく聞き取れなかった。真っ白だった彼らの着物は、泥水にぬれて汚れていた。彼らの全員が去ってしまうと、暗い部屋にはまた重い沈黙が垂れこめた。その沈黙に、押し殺したような嗚咽や、ひそひそと囁かれる声や、ののしり声が時折混じった。
僕はじっと扉に顔を押し付け、志乃ちゃんの檻の様子をうかがった。そこには、志乃ちゃんと思われる者の、部屋の松明にてらされちろちろと光る、泥に濡れた身体が横たわっていたが、いくら見つめていても、その身体は、ぴくりとも動かなかった。その檻の手前の床の上では、腕をもぎ取られて動かなくなった男が、あざ笑うかのように、僕を見返していた。
その後僕は、母の太腿を枕にして、しばらく目を閉じていた。父と母もぐったりとして、壁に背をあずけていた。朝、彼らに捕らえられてから、恐らく数時間たっていたろう。空気はどんよりと湿っており、土の匂いと、血の匂いが混ざり合い、僕の鼻を刺激していたが、やがてその中に、ぷん、と味噌の匂いが鋭くして、僕は思わず身体を起こした。
「お昼ご飯?」、と僕は、うわずった声で、父と母に尋ねた。二人は何も答えなかった。母は悲しそうな目で、檻の向こうをじっと見つめていた。父は何か言いたげに、闇の中で目を光らせ、蔑むような険しい表情で僕をにらみつけた。父は歯軋りをするかのように、顎を左右にゆがめたあと、ぷいと壁の方を向いてしまった。僕は漂ってくる味噌汁の匂いにすっかり心を奪われ、檻に張り付き、入り口から食事が運ばれてくるのを待ちわびた。暗い部屋の中央には相変わらず、腕をちぎられた男の死体が置かれており、僕の方をうらやましそうに見つめていた。僕はそんな彼の哀れな姿を見て、不謹慎にも鼻歌を歌いたくなってしまったけれど、後ろから僕を見つめる父の鋭い視線を感じ、それはやめた。
昼飯は……、来なかった。
ついさっきまでは全く感じなかった空腹を、味噌の匂いで思い出してしまったためか、僕の腹はぐうぐうとなりっ放しだったが、いくら待っても入り口には誰も来なかった。しびれを切らした僕は、振り返って母に尋ねた。
「お昼ご飯は、来ないの?」
母は生気のない目で僕の方をちらっと見た後、再び視線をゆっくりと檻の向こうに向けた。まったく感情というものを感じさせないこの母の仕草に、僕は戦慄を覚えた。そんな機械的な動きの母を見たのは初めてだった。僕はさっきの父の鋭い視線を思い出した。父にも、そして母にも突き放されたように感じ、一人きりになった気がして、僕は震えながら母から目をそらした。暗い部屋の中央で、手をもがれた男がまだ僕を見つめ続けていた。その男の顔に、僕に対する深い嘲りと憐憫を読み取った僕は、得体の知れない苛立ちを覚え、力いっぱい檻を揺さぶった。だがそれは、びくともしない。水音をたてて立ち上がり、僕は檻を揺さぶり続けた。そんな僕に、後ろから父が声をかけた。
「やめとけ。無駄に体力を使うな。俺はまだ、望みは捨ててない」
僕は檻を握り締めたまま、動きを止めた。心臓が痛いほど脈打っていた。全身の血がたぎっていたが、僕は力なくその場にしゃがみ込んだ。冷たい水が僕の腰を濡らした。その瞬間僕の下腹を、軽い衝撃が襲った。食欲に加えて尿意、排泄欲が僕を襲ったのだ。黙り込んでしまった父、そして魂の抜けてしまったかのような無表情な母を交互に見たあと、僕は母に向かって言った。
「お母さん、おしっこ」
土壁に首をもたせかけていた母は、頭をゆっくりと起こして僕を見た。その眼には、松明の炎が反射しきらめいていて、僕の心は再び凍りついた。母は無言で私を見つめ続けた。そんな母に代わって父が言った。
「その辺でしろ」
「その辺って?」
「どこでもいい。状況に大差はない」
僕は泥水から立ち上がり、檻に向かって放尿した。その向こうに横たわる、腕をもがれた男が、おかしくてたまらないという顔をしているように、僕には見えた。志乃ちゃんの檻は、相変わらず闇につつまれていて、何の動きもなかった。僕はそそくさと用をすませ、母の隣にしゃがんだ。母の身体はがたがたと震えていた。