暁の異形
序
埋められている。空が青い。
細い雲が流れていく。
細いトンボが飛んでいく。
ススキが、風に揺れている。
白い壁。その暗い土蔵の奥で、男が震えてる。
クワを持った男が重い扉を開け、彼に近づく。
凶暴性をおびた、不老の男。
かつて狂気が彼を、殻に閉じ込めた。
今開放された男は、野原へ赴き、
再びトンボを見つめる。
日が傾き、夕焼けが彼らを染めあげる。
第一話・ある冬入りの朝のこと
冬の朝はいつも、淡い乳白色の空とともに訪れた。そしてあの者達が、僕の住む村を訪れたのもそんな日だった。温かい蒲団にくるまっていた僕の目を覚まさせたのは、あの者達のかき鳴らす奇妙な律動をともなう鼓笛の音だった。おぼろな意識の中で僕は、その音の得体の知れない禍々しさに心を乱され、目を開けた。東から差し込む日差しが、部屋の中をぼんやりと照らしている。音の正体を確かめようと蒲団をはねのけた僕は、身を切るような寒さに耐えかねて再び蒲団にもぐりこんだ。
かーん、かーん、と、一定の律動で鳴らされる、澄んだかねの音、そして時折どんどんどん、と三つ打ち鳴らされる太鼓。その背後に、乾いた風のたてる音のような、不吉な予感をかきたてる笛の音が、ひょおお、ひょおおと、まるで炎に焼かれる蛇がその身をのたうたせるように、高く低く、調子はずれなその音程を、くねらせていた。 ヤニのどす黒く浮いた天井をみつめながら、僕はその音に耳を傾けていたが、すぐに言い知れない不安に襲われ、蒲団を飛び出し、二階から階下に通ずる階段を降り、両親の姿を探した。台所に駆け込むと、割烹着を着て朝げのしたくをしていた母が振り返った。その表情にもまた、不安の陰がさしていた。
「お母さん、あの音なに?」、と僕は母に尋ねた。「お祭りとかじゃないよね?」
「お母さんにもわからないの。あの音は山の上の方でしてるみたいだから、きっとお祭りなどではなくて、お寺の和尚さんの供養のじゃないかしら。お父さんが今聞きに行ってくださってるから、すぐにきっと何かわかると思う」
母の表情もまた不安に曇っていた。僕は「わかった」、と言って階段をのぼり、着物と茶色の半纏に着替えた。そのとき、それまで聞こえていた単調で陰鬱な囃子の中に、長い男の悲鳴のようなものがまじった。僕は慌てて階段を駆け下り、台所の母に向かって叫んだ。
「お母さん! 今の悲鳴なに? あれ、お父さんの声じゃないの?」
母は答えなかった。血の気の失せた顔で、唇を震わせながら僕の顔をしばらく見つめたあと、突然玄関に向かって走り出した。僕も慌ててその後を追った。
母は裸足のまま、玄関からおもてに飛び出した。僕は草履に飛び降り走った。母は庭の中央に立ち、その先に続く小道の行く手を見ていた。僕は母の着物の裾をしっかりとつかみ、小道のを見つめた。囃子の音はその先から聞こえてくる。山の上のお寺などからではない、音はすぐ近くから響いていた。そんな道の折れ曲がった所、濃い緑の葉の陰から、これまで見たことも無い一匹の生き物がひょい、と姿を現した。それは巨大で、奇妙な動きをしながらこちらに向かってくる。その生き物は、人のようでありながら人としては異様に背が高く、また異様に巨大な手と頭をそなえていた。それは左右の足を大きく振り上げ、右に行ったり左に行ったりしながら、ゆっくりと小道を降りてきた。
「お母さん……、逃げよう……」、と僕はつぶやいた。母は無言で、僕の手を着物から引き剥がし、しっかりと握った。いつになく熱く、汗ばんでいる母の手を感じた。母は動かなかった。
その異形の背後に、荒縄で縛られた男達がいて、そこに父の姿があったからだ。それぞれの荒縄の両端を、白く輝く着物を見にまとった者達が手に持ち、その縄を使って縛られた人達を引っ張っていた。父や他の男達は、家畜のように小道を引き摺り下ろされていた。父はよろよろと道を下りながら、母と僕に向かって何か叫ぼうとしているようだったが、父が声を出すたび、両脇の男達が父の背中を、そして腹を、強く殴りつけた。
僕の首筋に、母の手がおかれた。その手は滑稽なまでに震えていた。
父は「逃げろ」と言っていた。
「逃げると言っても……。どこに……」
僕は母の手を強く引っ張って叫んだ。
「お母さん、こっち!」
僕は母とともに走った。異形が僕達を追い、こちらに突進し、その右の手に持っていた何かを投げつけた。それは僕と母の、五尺ほど先に転がった。赤い液体と泥にまみれたそれは、人の生首だった。それは山の上のお寺の、和尚様だった。その首を見た瞬間、母は座り込んでしまい、泣きじゃくり始めた。座り込む母の後ろに、巨大な影がせまった。見上げると、通常の人間の背丈の二倍もあろうかと思われるほどの巨大な怪物が、両手を振り回し、笑いながら僕と母を見下ろしていた。
僕の不安は、その瞬間に恐怖に変わった。異形は雄たけびを上げて巨大な手を僕と母に振り下ろした。僕の意識はそこで薄れた。