泉のほとりにて
「…はあ、とりあえず、ほんとに人じゃないってのは、んん、ほんとは信じられないですけど、わかりました」
「いろいろ余計な言葉が多いなおい」
茫然自失しながらも着替えを済ませ朝食を終えたアイベルと、とりあえず疑い深いところは多々あるけれど母に見えなかったことは紛れもない事実なので本当に本当は認めたくないのだけれど人ではないということだけは認めざるを得なくなった自称神様は今、女神様の住むという泉のほとりで向かい合って座っていた。
正座をするアイベルの向かいであぐらをかいて座る自称神様の表情からは不服や不満といった感情がありありと見て取れる。それを知ってか知らずか、アイベルの表情もまた疑惑や疑心といった感情に満ち満ちているのであった。
両者はそれぞれそのような表情でしばらくにらみ合っていたのだが、ついに口火をきったのはアイベルだった。
「で、その、えーっと、まずなんとお呼びしたらいいですかね?」
「神様だ」
「うわ」
アイベルの遠慮がちな問いに、ふんと鼻をならしてどうだ神様だすごいだろう敬えと言わんばかりの顔で即答した自称神様に対して、アイベルは心の声を隠しきることができなかった。当然隠しきることのできなかった心の声は目の前の自称神様の耳に入ることになり、自称神様の表情が一瞬にして歪む。
「うわってなんだおい」
「いや、なんか自分から神様って呼ばせるの図々しいなって思いまして」
「言うに事欠いて図々しい」
どうやらアイベルははなから心の声を隠すつもりはなかったらしい。疑惑や疑心といった感情に満ち満ちた目で自称神様をじとりと睨み付けながらそれらを一切隠すことのない言葉ばかりがアイベルの口から出ていく。
「お前、さっきから神様になんつーことを」
「ほら自分を神様って呼ぶ、そういうのも図々しいですよね」
「図々しい言うな!神様は名前がねーんだよ!大人しく神様って呼んどけ!」
「はあ、まあ、そういうことならそうしますけどお…」
「だからお前なんつー顔を…」
自称神様を神様と呼ぶことを承諾するアイベルの表情には言葉とは裏腹に納得いかないという思いがあふれ出ているのだった。アイベル自身がそれをまったく隠す気がないためにダイレクトに伝わるその感情は怒れる神様を疲弊させる。
「はあ、まあとにかく、俺の話を聞いてもらうぞ」
「ええーっ」
「聞いてもらうぞ」
「…はあ、まあ、いいですけどお」
アイベルの神様を舐めきった態度についに必殺技発動のゲージが溜まり、神様の最終奥義『ドスをきかせる』が発動したことでようやく話が一歩進むことになる。それでもおよそ神様を目の前にしたとは思えないアイベルのそれにため息をつきつつ、神様は語り始めるのだった。
「お前は、この泉に住むのはなんだと聞かされている?」
神様のつむぐ物語は、ひとつの質問から始まった。
「まあ、小さいころに教会のお兄ちゃんから聞いたのは、女神様が住んでるって話ですけど」
いまだ不服や不満といった表情を隠そうともしないアイベルはまるで不平を言うように口を尖らせて神様の質問に答える。神様はそんなアイベルに殺意にも似た怒りを覚えつつも、物語を語ることに意識を向けるよう努めた。幸いにもアイベルの答えは神様の意に沿うものだったらしいが、「そうだろうなあ」とため息交じりにつぶやく神様の顔は苦々しげである。
「実際俺が来るまでは、この泉に住むのは長らく女神だったからな」
「はあ…」
神様の語りに相槌をうつアイベルの表情にはやはり不服や不満、そして疑惑や疑心といった感情が見られるものの、先ほどよりはそれらが和らいでいるようだった。女神という言葉が出てきたことでいよいよこいつ何言ってんだやばいと思ったが、たしかに母にはこの男が見えなかったという事実を思い出したからである。そしてなによりアイベルに女神のことを教えてくれた教会のお兄ちゃんの、あの純真で混ざり気のない、キレイな瞳を思い出したからだった。
「その女神っていうのは、まあ言っちまえば俺の姉さんたちだ」
「神様にもそういう関係があるんですか」
「まあな、それで先代の女神はひとつ上の姉なんだが、このたびその姉が嫁入りすることになってな」
「嫁入り」
「姉さんは嫁入りするところの泉に移ることになるんで、空いたこの泉に俺が来たってわけだ」
「はあ…」
あまり積極的にかかわりたくない相手なのにこうして相槌をうってしまうのは家業の影響かもしれなかった。宿屋には日々さまざまな客が訪れる。そうした客をもてなすことこそ宿屋の仕事であり、客に気持ち良く自らの旅路を語ってもらうのももてなしのひとつだ。そんな幼いころからしみついたもてなし精神からアイベルの口をついて出た感想は
「なんだか、人間臭い理由ですねえ」
というものだった。
「まあ、神様だって案外人間臭いもんなんだよ」
「くさい?」
「そこだけ拾うな、つーか先に人間臭いって言ったのはお前だからな!」
「ちょっと記憶にないですね」
「数秒前だぞおい」
神様の非難めいた視線をものともせずに「なんのことやら」とのたまうアイベルに、神様はやはり諦めたようにため息をついて話を先に進めることを優先するのだった。
「それで、世代交代をしたはいいんだが、問題はそこの教会の神父も代替わりしてたってことであってだな…」
「教会の神父様、ですか?」
神様の口から出た、思いがけず現実的な言葉にアイベルは少し驚いてしまった。
教会の神父様といえばアイベルもよく知った人物である。純真で混ざり気のない性格をしている、疑うことを知らない青年。その性格ゆえに村の人々からはよく愛され、よく世話を焼かれている存在だ。
「ああ、俺が姉さんからこの泉を引き継いだのが3年前、そして、教会の先代が急逝して急きょ今の神父になったのが5年前…せめてもう2年前に引き継げてたらこんなことにはならなかったんだ…」
「い、一体何があったんです?」
あまりに真剣な口ぶりで神様が語るので、アイベルは不服や疑心といった感情をいつの間にか捨て去った真剣な表情で、ごくりとつばを飲み込んだ。うなだれ、眉間のあたりをぎゅうと指で抑え込んだ神様は、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「先代にはまだかろうじて女神の声を聞く力があった…だが、だが今の神父には…その力すら…ない…!」
「その力がないと、どう、なるんですか…」
「あの神父は毎日、毎日…!」
もう一度、ごくり、とつばを飲み込む。
「俺に…女神様と呼びかけてくる…!」
アイベルは一瞬だけ真剣な表情を保つことが出来たのだが、神様の言葉を心の中で繰り返すとその意味の分からなさにたちまち眉間のしわをなくし、あっというまにぽかんと呆けた表情に変わる。それは表情だけにとどまらず、アイベルの口からもあふれ出ることになるのだ。
「…は?」
「毎日毎日、朝昼晩…!女神様おはようございます今日もよい一日を、女神様お昼ですねどうぞ食べてください、女神様おやすみなさいよい夢を…これを毎日だ!もううんざりなんだよ!」
「はあ…」
必死な表情で思いを訴える神様とはうらはらに、神様を見るアイベルの表情はかなり冷やかである。必死な神様は少ししてからようやくアイベルのその顔に気が付いて、じろりと睨み付けた。
「わけわかんねえこと言ってるって顔してやがんな」
「わかるんだったら少し自重されたらどうなんですか」
「いいだろう、ならお前にもわかるように説明してやる」
「あっ無視された」
アイベルの冷やかさを隠さない物言いを無視して神様は眉間にぐっとしわを寄せた真剣な表情で続ける。
「神様である俺に毎日毎日女神さまと呼びかける行為はすなわち―俺に対する、アイデンティティの否定だ」
「アイデンティティ」
その単語に、アイベルはいくらか冷やかな表情を和らげた。
「考えてもみろ、男である俺が毎日毎日女のような扱いをされて正気でいられると思うか?お前も自分に置き換えて考えてみろ!毎日毎日、男に間違われたらどうだ!」
「男に…」
アイベルは考えた。否、思い出していたのだ。もうどれくらい前のことだっただろうか、けれどアイベルはそれをはっきりと覚えている。
ショートカットのよく似合う女優がいた。アイベルと同じ年頃の女の子はみな憧れて、もちろんアイベルも大きな憧れを抱いたのだ。憧れを抱いた少女のすることといったら、真似をすることだった。同じ年頃の子はみんな髪を切った。当然、アイベルも切った。憧れの女優とおそろいになって喜ぶアイベルを見て、その日初めて宿を訪れた数人の客が母に言ったのをアイベルは聞いたのだ、しっかりと。
かわいい息子さんですね、と。
「…殺意を禁じ得ませんね」
「その答えは予想してなかった」
アイベルの いかくで かみさまの こうげきが さがった▼
「まあ、そういうことなら同情はしますけど、わたしに何ができるっていうんですか」
「おう、よく聞いてくれたな」
神様はアイベルの質問にそう答えると、「こっからが本題だ」と前置きをして語り始める。
「お前は今のところ、俺の声が聞こえるだけじゃなく姿まで見える唯一の人間だ」
「はあ」
「だからお前の口から教会の若いのに伝えるんだ、泉の女神は世代交代をして、神様になっているってことをな」
「はあ?」
同じ言葉でもアクセントの位置が違えばこうも相手に与える印象は変わるのかと思わせるほどの見事な使い分けによるコンボ技が決まる。コンボ技をまともにくらった神様の表情の変わりようもまた見事で、まるで必殺技発動のゲージがぐんと伸びるのが見えたかのようだ。
一方でコンボ技を決めたアイベルはといえば一変した神様の表情にも一切動じることなくこいつ何言ってんだ的な表情を崩すことのないまま口を開く。
「嫌ですよそんな頭のおかしい人みたいなこと」
「仕方ねえだろ、恨むんなら才能のないあの若いのを恨め」
「なんかこう、夢枕に立つ的なこと神様なら出来るんじゃないんですか」
「姉さんほどになれば出来るんだけど」
「とんだ無能な神様ですね」
「おい」
「はっ」
「鼻で笑うな!」
ついにアイベルの口から飛び出した嘲笑に神様の語気も荒くなる。一方でアイベルはその余裕はどこから湧いて出てくるのか神様の憤怒の形相にも動じることなく淡々と言葉を続けるのだった。
「ていうかですね、そんな面倒な事しなくたってなんていうかこう、手紙的なものでいいんじゃないんですか?」
「え、手紙?」
「姿が見えなかったり声が聞こえなかったりしても、手紙なら読めるんじゃないんですか?差出人に泉の神様って書いて、あのお兄ちゃんなら神様からの手紙だーってほいほい信じますよ」
「…あ」
両者の間に数秒の沈黙が流れる。
「とんだ無能な神様ですね」
「やめて」
「はっ」
「鼻で笑わないで」