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村のはずれの小さな泉には

―村のはずれにある小さな泉、そこには女神様が住んでいて、毎日お供え物を続けると、女神さまが願いを叶えてくれるんだよ。



 そう教えてくれたのは、たしか、泉のほとりにある教会のお兄ちゃんだったろうか。幼いころに聞いたそんなおとぎばなしはこの村に住む少女―アイベルの心に深く刻み込まれていた。だからこそなにもかもに絶望したアイベルが最後にたどり着いたのは、その泉だったのである。

 アイベルは女神様など信じてはいない。けれど絶望の淵に立たされた今、女神様でもなんでもすがってやろうという気持ちだけがアイベルには残されていたのだ。お供え物のかぶを手に泉の淵に立つ。ふりかぶって、かぶを泉にたたきつけた。かぶは勢いよく泉の中へ沈んでいく。そして目を閉じ、両手を合わせて祈るのだった。彼女の、誰にも言えない、お願い事を。




「いってえ!」

「へっ?」



 静かな泉のほとりに突然響いた叫び声。自分の他には誰もいないはずだった。それなのに聞こえた、痛みを訴える確かな叫び声。どこから聞こえただろうか。背後ではない。左右でもない。上空でもない。叫び声はたしかに、目の前の、泉から聞こえたものだった。

 目を開けたアイベルは、おそるおそる湖を覗き込んでみる。



「ってえなあ!かぶを投げ込む奴があるか!もっと丁寧にやれ丁寧に!」

「うわあっ!」



 湖を覗き込んだその瞬間、湖に水柱がたちのぼりそれと共に怒声が響き渡る。その両方に驚いてしまったアイベルは思わずしりもちをつき、それから見上げた。

 目の前の湖上に現れた、男性を。

 引き締まった体を巻きつけただけの白い布で隠し、右手にはたったいまアイベルが投げ込んだのと同じところに傷のあるかぶ。アイベルと思い切り視線がかち合っているその目は、緑色に輝いていた。



「…あ?」

「えっ?」



 その緑色に輝いた目が、不審そうにゆがめられた。



「もしかしてお前、俺が、見えてんのか?」

「えっ、えっと…はい」



 アイベルの答えに、緑色の目がかっと開かれる。



「まじでか!だったらお前!」

「いっ!?」

「この村の連中に知らしめろ!泉に住むのは女神じゃない!神だと!」

「ひっ…」



 かと思えば男はいきなり興奮した様子でアイベルの肩をがっちりと掴みそう迫る。よく知りもしない男性に、しかも、かなりの薄着。アイベルの限界はすでにそこまで来ていたのだった。



「ひ、ぎゃーーーーーー!!!!!変態!!!!!!」

「はぼお!!!!!」



 泉のほとりにスパアンという小気味よい音が響き渡った。








 わずか数分後。

 泉のほとりには先ほどとはうってかわって大変重苦しい空気が流れていた。それは、正座をしたままうつむくアイベルと、その目の前であぐらをかいて座る左の頬を真っ赤にはらした男性の間に。



「あの、なんていうか、いきなり肩を掴まれたうえに迫られて、驚いたというか、その、…スミマセンデシタ」



 重苦しい空気の中でアイベルの口から出たのは言い訳から始まる謝罪だった。言葉の端々に納得いかない

という思いがにじみ出ているのが明らかだ。目の前の男性ももちろんそれを感じ取ってはいたのだが、非難めいた視線を送ることはない。なぜなら彼もまた非を感じているからだった。



「いや、俺もつい興奮しすぎて、悪かった」

「いえ、そんな…」



 男性側からの謝罪の言葉に、アイベルは少しだけ胸をなでおろす思いだった。社交辞令とばかりに口からはそんな言葉が出たが、心の内ではその通りだばかやろうと可憐な見た目に似合わない言葉で男性を思い切り罵倒する。それでも根は小心者であるので男性の顔に未だ痛々しく残る赤みを見て、アイベルはチクリと心が痛むのだった。



「ここに来て、俺が見える人間に会うのは初めてだったもんだからつい、な」

「は?」



 しかしその心の痛みも一瞬で忘れてしまうようなことを目の前の男性は言う。それも至極真面目な表情で。この男はいったい何を言っているのだろうか。そんな、布を巻きつけただけのような格好で、泉の中に潜んでいて。

 そこでアイベルは、はたとあることに気が付いた。

 この男性は、今さっき泉から出てきたばかりのはずである。それなのに、男性の服はおろか、体も、髪も、どこも濡れている様子はないのだ。今日は天気がいいとはいえ、頭まで水につかっていた体がこの短時間に乾くはずはない。いったい、どういうからくりなのか。

 そう考えながらどうやらじっと穴があくほどに見つめてしまっていたらしい、とアイベルが気が付いたのは男性が眉をひそめて「なんだよ」と尋ねたからだった。



「あの、あなたはいったい、何者なんですか?」



 アイベルがそんな言葉を口にすると、男性はいっそう眉間のしわを増やした。そして、ふんと鼻を鳴らすと



「俺は、この泉に住む神様だ」



 と、至極偉そうにのたまうのだった。

 アイベルは思わずもう一度、今度は心の底から「は?」と口に出してしまった。この男、やはり頭のおかしい変態だと言わんばかりの表情である。”神様”はその反応がお気に召さなかったようで、思い切り顔をしかめると不平を口にする。



「お前さっきから神様に対してなんだその顔、いい度胸してんな」

「いや、えーと、その、そもそもわたし神様とかそういうの信じない方なんで…」

「お供え物まで持って神頼みしに来たのはどこのどいつだよ」

「それはわたしにものっぴきならない事情があって気休め程度に神頼みをですね」



 それからアイベルの表情はいよいよやばいこれ本物の変態だ関わりたくないという顔へと変わっていく。アイベルは”神様”の接近を拒むように両手を前へ出し、目を合わせてはいけないとばかりに視線を思い切り横へそらしながら”神様”の猛攻をいなそうとするのだが、得てしてこういった変態は話術が巧みである。こちらが突き放そうとして言う言葉から巧みにキーワードを拾い上げうまく言葉を返してくるのだ。



「ほー、のっぴきならない事情とは」

「いや、それは」



 言えるわけねーだろ、とやはり可憐な見た目に似合わない乱暴な言葉を胸の内でつぶやく。こうなったらあの必殺技を使うしかない、とアイベルは大きく息を吸った。



「あ、あーーーー!!!もうこんな時間!!!帰って家の仕事手伝わなくっちゃーーーー!!!」

「あ?あっおい!」



 左腕を上左と素早いコマンド入力で秘儀『ああんもうこんな時間!帰ってお夕飯の支度しなくっちゃ!』をくり出すと同時に、アイベルは脱兎のごとく駆けだした。”神様”がとっさに伸ばした手は宙をつかみ、ただ、電光石火に駆けてゆくアイベルの背中を見送ることしかできない。

 アイベルの背中はすぐに見えなくなってしまい、伸ばした手をそのままに”神様”はただぽかんと―してはいなかった。



「…逃がさねえぞ、俺が見える、人間」



 そうつぶやいた”神様”の顔には、邪悪な影がさしていた。






 その夜、アイベルは夢を見た。

 件の変態に、追い回される夢だった。やはり裸に布を巻きつけただけの恰好でわたしが神様と文字の入ったたすきをかけたあの変態が、両手にかぶを持って「待て」と叫びながら追ってくる。アイベルは必死にその変態から逃げていた。しかしどうしたことかアイベルの足は異常なほどに重たく、前に進まない。呼吸も、うまくできない。もう背中に変態が迫っているのがわかる。逃げようと思うのにやはり足は動かない。ああだめだ、もう、肩に、手が、置かれる。



「…はっ!」



 その瞬間、夢がはじけて意識がばちりと目を開けた。汗が、つうと流れていく感覚がする。冷や汗だ、とすぐにわかった。

 それからアイベルは自分が横たわっているところがベッドの上だということにようやく気が付く。そうか、今のは。



「…夢、か」



 アイベルはベッドに横たわったまま、はあ、と深い安どのため息をついた。ぎゅうと目を閉じて呼吸をする。夢でよかった、ということをかみしめるように。



「やっと起きたか、うなされてたみたいだけど大丈夫か?」

「え」



 おそるおそる声のした方へ顔を向けると、そこにはいた。件の変態が。



「変な夢でも見たのかよ、夢見が悪いときは寝る前にだな」

「ひ、ひっ」




 宿屋の朝に、アイベルの悲鳴が響き渡る。







「アイベルなんなの!朝っぱらから騒がしいわね!お客さんびっくりしてるわよ!」

「お、お、お母さん!」



 アイベルの悲鳴と同じくらいの騒がしさで怒鳴り声と共に部屋の扉を開いた母に対して、アイベルは必死の思いですがりついた。



「へ、変態!変態が!」

「はあ?」



 そしていまだベッドの端に座ったままの変態を指して必死に訴えかけるのだが、母の反応は芳しくない。母はアイベルの指差した方向とアイベルの顔を交互に見たあと、はあ、と大きなため息をついた。



「怖い夢見たのね、朝ご飯出来てるから、食べて気分切り替えなさい」

「えっ!?ち、違う違う!だってほらそこにまだいる!愉快そうに不愉快な笑い方してる!」

「はいはい、怖い夢見たのはわかったから、はやく着替えてご飯食べる、お母さん戻ってるからね」

「まってお母さん!違うほんとにいる!」



 必死の訴えも母にはいはいといなされるのだがアイベルはそれでも食い下がった。食い下がったのだが、ついにその訴えは母には届かず、無慈悲にもアイベルの目の前で扉はばたんと閉ざされる。

 絶望に満たされたアイベルの背中に愉快そうな、不愉快な声が投げかけられた。



「な?これで信じただろ、俺は神様だからな、普通の人間には見えないんだ、ということはだ、俺が見えるお前は特別な人間と言えるわけであってそれは誇っていいことなんだからな、だからその…なんだ、ええと、俺が言うのもなんだけど、…元気、出せよ」




 アイベルに投げかけられたその声は、はじめこそ愉快そうだったものの次第に勢いを失い、ついには絶望という字が見えそうなアイベルの背中を労わるようにそっと手を添えるのだった。








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