ぼくのかたおもい
寒さに身を縮めながら、いつものように家への道を歩く。
仕事のし過ぎなのか、最近肩凝りが酷い。日に日に酷くなっているように感じるのは気のせいだろうか。そんな僕に追い打ちをかけるように、強めの風が正面から吹き付けて、残り少ない体力を奪っていく。
時刻はすでに深夜0時過ぎ。
幅の狭い寂れた通りには、当然ながら自分以外に人はいない。
時折、すぐ近くを通り過ぎていく車の存在がなければ、この世界に一人だけ取り残されてしまったように錯覚してしまいそうだ。
思わずこぼれた白い溜息は風に吹かれてすぐに消えた。まるで魂が抜けていくようだと、くだらない事を考えて少し笑った。
どうやら寝不足でおかしなテンションになっているようだ。
「早く帰ろ」
一人呟き、足を速めた。
しばらく歩くと見えて来る古びた自動販売機。
そのすぐ横に見知った姿を見つけて、自然と頬が緩んだ。
彼女はまだこちらに気付いていないらしく、両手で缶を持ちながら空を眺めていた。
その視線に釣られるように空を見上げれば、雲のない星空に丸い月が輝いていた。
彼女と初めて出会ったのはいつだったろうか。
ほんの気まぐれで、仕事帰りに少しだけ遠回りをして立ち寄った自動販売機。
そこに彼女はいた。
そういえば、その時も彼女は今と同じように空を眺めていたっけ。
綺麗な人だなと思ったけれど、さすがに声はかけなかった。ただ軽く会釈だけして、飲み物を買った。
その時は自動販売機を挟んで彼女と反対側に立ってそれを飲んだ。
ただそれだけ。
それから彼女の事が何となく気になって、たまにこの自動販売機に立ち寄るようになった。
だいたい今日と同じくらいの時間に来れば彼女はそこにいた。
初めて彼女の存在に気付いてから、一体どれだけ経った頃だろうか。
僕は勇気を出して彼女に声をかけたのだ。
もう何て声をかけたのかは覚えていない。
たぶん「寒いですね」とかそんな感じの事だったと思う。
その時の彼女は随分と驚いた顔をしていた。
まぁこんな深夜に、突然知らない男に声をかけられたら当然だろう。
通報されなくて良かったと心から思う。
それから会うたびに少しずつ会話をするようになり、いつの頃からか仕事帰りにここに寄るのが僕の日課になっていった。
僕はいつものように「お疲れ様」と声を掛けると、お気に入りのコーヒーを買って彼女の隣に立って空を見上げた。
「満月かな?」
僕の質問に彼女は「残念」と言って笑った。
満月は明日みたいだ。
彼女と過ごす、このほんの僅かな時間が僕の唯一の楽しみで癒しだ。
どんなに疲れていても彼女と会えれば、全てがリセットされるように思うのは気のせいだろうか。
「疲れちゃったな」
彼女が儚げに呟く。
「僕も疲れたよ」
そう言って同調する。いつもの事だ。
どうやら彼女の勤め先もブラックのようで、随分と親近感を感じている。
こうして軽く愚痴を言い合って少しだけ笑うのがお決まりのパターンだ。
缶コーヒーを飲み終えるまでの僅かな時間、そうやって会話を楽しんで、寂しさを押し殺して帰路につく。
本当は食事にでも誘いたいけれど、その時間さえお互い満足にとれない日々に歯がゆさを感じる。
こうして毎日のように会っているのに、少しだけ遠い。
それが僕らの関係だ。
家に着くと、ちょうどスマホが鳴った。
画面には彼女からのメッセージ。
『明日も頑張ろうね』
たったそれだけで、今の関係も悪くないと思える僕は単純なのだろう。
良い気分で手洗いうがいをして、顔を上げると鏡に彼女の姿があった。後ろから抱き付くようにして、僕の肩に顔をのせる彼女。それを見て思わず顔がニヤけてしまう。
しかしすぐに冷静になって、目を閉じて頭を振った。
いくら彼女が好きだからと言って妄想もここまでくるとさすがにヤバイ気がする。
「疲れてるんだろうな」
そうやって自分に言い訳をして溜息を吐き出した。
次の日の朝。
ほんの少しだけ早く支度が終わった。
なんとなくコーヒーが飲みたくなって、いつも彼女と会う自動販売機に寄っていく事にした。
深夜と違い、朝はそれなりに人通りのある道を歩き、目的の場所へやってきた。
あくびをしながら、いつものコーヒーを選んだ。音を立てて落ちて来たそれを取り出す時、視界の端にあった物に違和感を覚えた。
何かと思って視線を動かせば、いつもの彼女の定位置に白い花束が置かれていた。
それを見て、僕は思い出した。
数年前にこの辺りで人が亡くなったのだ。
確か過労が原因の自殺で、トラックの前に飛び込んだという話だった。
もし、と思う。
もし僕が彼女と出会えていなければ、その人と同じように死んでいたかもしれない。
だからと言って、別に死にたかった訳ではない。仕事に追われあまりに忙しい毎日を過ごしていると、ふと思うのだ。「楽になりたい」と。
そんな時、すぐ目の前に楽になる手段があったとしたら、思考力の低下した頭でそれを選択してしまいそうになるんだ。
だから……。
ここで亡くなった人が他人のように思えなくて。
僕は買ったばかりのコーヒーを花の横に供えたのだった。
会社への道すがら、僕は考えていた。
彼女はあそこで人が亡くなった事を知っているのだろうか。
その事を彼女に伝えるべきだろうか。
もし伝えたとしたら、彼女があの場所に来なくなるのではないか。
そうなったら、もう彼女に会う理由がなくなってしまう。
仮に伝えなかったとしても、いずれ知ってしまうかもしれない。
そんな事を思うと、僕はいてもたってもいられない気持ちになるのだった。
心ここにあらずと言った感じで一日を過ごした僕だったが、帰る頃にはある覚悟を決めていた。
そしていつもの自動販売機の横で空を見上げる彼女を見て安堵した。
その足元には今朝見た花束は置かれていなかった。昼の内に誰かが片付けたのだろう。
いつものように挨拶してコーヒーを買う。
何気なく彼女の方を見て頬が緩んだ。
「コーヒーなんて珍しいね?僕のまね?」
少しふざけて彼女に問いかける。彼女が手に持っていたのは僕がいつも好んで飲んでいるコーヒーだったのだ。
「偶然だよ」
そう言って笑う彼女は、少し照れたように視線を逸らせた。
「ねぇ」と僕が問いかければ「何?」と彼女がこちらを向く。
いつもの何気ない会話と違う、緊張感のある空気が流れた気がした。
「付き合おっか」
出来るだけ自然に、普段通りに聞こえる声で彼女に言った。
それを聞いた彼女は少しだけ驚いたように目を見開いた後で小さく笑った。
「それって告白?」
「うん」
少しの沈黙の後で彼女は答えた。
「嬉しい」と。しかしその後で「でも」と言った。
一気に血の気が引く気がした。
「でも、なに?」
少し震える声で彼女に尋ねる。
空を見上げた彼女の瞳は潤んでいた。
「私には誰かと付き合う資格なんてないの。ずっと独りでいなきゃいけないから……」
満月の光に照らされた彼女の瞳はキラキラと輝いて見えた。
彼女が涙を堪えているのは、まるわかりだった。その涙の意味を僕は知らない。
でも、ここで引き下がるなんて事はできなかった。
「資格ってなんだよ?そんな理由は認めない。僕の事をどう思ってるのか教えてよ」
「そんな事言わないでよ……」
そう言ってこちらを向いた彼女の頬を涙が流れた。
僕は何て言っていいのか分からずに「ごめん」とだけ告げて彼女を抱き寄せた。
彼女は驚いたように少し固まった後で、僕の胸に顔を押し付けて泣いた。
僕は彼女の頭をそっと撫でながら、泣き止むのを待った。
随分と長い時間そうやって抱き合っていたように思う。
ようやく泣き止んだ彼女が顔を上げて「ねぇ」と言った。
僕は「なに?」と出来るだけ優しい声で彼女に問いかける。
少しの沈黙の後で彼女は照れたように言った。
「好き」
その言葉が聞きたかった。
「うん、僕も好きだよ」
「でも……」
と再び彼女は言った。その後の言葉を聞くのが怖くて僕は言葉を重ねた。
「関係ない。何があってもずっと一緒にいるから」
彼女が僕をじっと見つめる。
「本当に?」
「もちろん」
僕の言葉に彼女は何かを考えているようだった。
でもここまで来たら後は押して押して押しまくるのみ。
僕は彼女が何を言ってもそれを肯定すると決めていた。
「だったら」と彼女は言った。「私の為に全てを捨てられる?」
それに対して僕は当然のように答えた。
「もちろん」
彼女は困ったように笑って「ありがとう」と言った。
「好きだよ」
僕は改めて気持ちを伝える。
「私も」
その言葉に頷いて、そっと口付けた。
寒さのせいか、彼女の唇はとても冷たく感じた。
ゆっくりと唇を離して、彼女と見つめ合う。鼻が触れ合う程の距離で見つめ合うのは、なんだか少し恥ずかしい。お互いに照れたように笑って、再びどちらからともなく口付けた。
何度目かの口づけを交わした後で、彼女が言った。
「お願いがあるの」
彼女は、また泣きそうな顔をしている。
そんな彼女を僕は泣かせたくなかった。
だから「僕に出来る事なら何でもするよ」と言って、彼女の頭を撫でた。
「本当に?」
心配そうな彼女に僕は頷いて見せる。
そして意を決したように、僕を真っ直ぐに見る彼女の顔を車のヘッドライトが照らした。
「じゃあ、ここで死んで」
「え?」
次の瞬間、僕は宙を舞っていた。
景色がゆっくりと流れる。
まるでスローモーションのような世界で、僕は自分の死を悟った。
さっきまで彼女がいた所に視線を向けるが、そこには誰もいなかった。
代わりにあったのは花束と一本の缶コーヒーだった。
そして車にぶつかる寸前に、僕は耳元で彼女の声を聞いた。
「これでずっと一緒だよ」