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16. 演者

自室に戻り、ラルフは深くため息をついた。

癇癪は上手く治まったようにも見えたが、所詮ははったりのようなものだ。


「この国を良くしたい」と、ラルフは願った。

信ずる神のために、生を望んだ恩人達のために、そう願った。

……けれど、この数年、ラルフが見てきたものは汚濁に塗れている。

だからこそ、ルイの純粋さは珍しく思えた。が、


「さすがに……なぁ……」


もう少しはしっかりしろよ……と、小さく毒づく。こういう時、母国の言葉は便利だ。誰かに聞かれても誤魔化しが効く。

ルイとて事情があるのだと理解はできる。が、理解したところでラルフの労力が変わるわけではない。


「……権威も、権力も偽物。それは俺だって同じだ。……偽物どうし、お似合いかもな……」


俺の場合、血筋まで偽物だけど……と、その言葉は胸に秘め、窓辺に歩み寄る。


「……?」


ツバメだ。一羽のツバメがじっと、ラルフを見ている。……いや、違う。()()()()()()()()


「……あ」


ルディの語ったことを思い出す。……何度も何度も、鳥になって会いに来た友人。自分が看取ったカラスも、きっと……。


「…………。ごめんな、ルディはもう、いないんだ」


窓を開け、そう伝える。言葉が通じるかはわからないが、せめて、伝えたかった。……もう、本当の意味で徒労になってしまうのだと。来る必要はどこにもないのだと。

ツバメはしばしラルフを見つめていたが、やがて、小さく鳴き声を上げて飛び去った。


「…………。サン=コリーヌの鉄道事業について、何か聞いてくるか」


俺に情報をくれる貴族なんか、たかが知れてるけど……と毒づき、ラルフは部屋を後にする。……そこで、亜麻色の髪を持つ、「兄」の顔がぽつねんと浮かんだ。




***




ミゲルは酒場で、稼いだ日銭を勘定していた。

……給仕の娘が1人減ってから、同じ病でまた1人、2人と減った。皮肉にも、それが今のミゲルの稼ぎに繋がっている。

ティーグレは腹がいっぱいになったのか、地べたで大の字になって眠りこけている。


「……おお。今日もいたのか。生きてて何よりだ」


聞き覚えのある声に顔を上げる。……顔見知りの組合だが、頭数が少し足りない。


「……?おい、フランク。ピエールの野郎はどこいった?酒場なんか嬉嬉として来るに決まってんだろ。ジョルジュもだ。……まさか、また事故か?」


ミゲルに問われ、男は静かに頷いた。他の面々も何も語らず、沈んだ面持ちで椅子に腰掛けていく。

……それだけで、惨状が伝わった。


「……俺らにゃなんの資産もねぇ。貴族さまがどうなろうが、市民が強くなろうが、頭が変わるだけで俺らにとっちゃなんてこたねぇ……」


無産階級の労働者(プロレタリアート)は弱々しく項垂れ、空虚な拳が膝を打つ。

何度も、何度も、浮いた骨の鳴らす音が響く。


「……いっそ、俺らで革命を起こしちまえば……」


ミゲルは何の言葉も返せなかった。……確かに、思想を偽って属した組織は少しばかり大きくなりつつある。

けれど、70年ほど前……あの革命がなければ流されなかった血と、革命がなければさらに奪われた血。……それを、今、天秤にかけることができるだろうか?


「……シケた空気だねぇ。酒が不味くなるじゃないか」


女の声が、その空間に波紋を呼んだ。


「あァ!?女はすっこんでろ、なんも分かってねぇくせによォ!!」


弾けるように、1人の男が立ち上がる。


「ああ、分かりゃしないね。やけっぱちになって酒カッくらってんのに、できもしない「革命」の話なんて偉そうにおっぱじめちまってさぁ」


長い黒髪の女は男の怒号にも怯まず、応えるようすっくと立ち上がる。


「あんたらみたいな阿呆はどうせ、どんなに時代が変わったって使い捨てられて終わりさね」


ふん、と鼻を鳴らし、女は酒場を後にする。

……フランクが舌打ちとともに酒瓶を手に取るが、その腕はミゲルに掴まれた。


「……やめとけ」


低い声で制すると、彼は再び項垂れ、顔を覆った。


「使い捨てだって……?阿呆だって……?ピエールやジョルジュもそうだったってのかよ……」


やがて漏れ出す嗚咽。ため息を吐きつつ、ミゲルは黒髪の女を追った。……ティーグレの方をちらと見たが、呑気そうに眠りこけていたので放っておく。


「気持ちは分かるぜ」


肩をいからせて歩いていた女が、ミゲルの声にはたと振り返った。


「アイツらは確かに阿呆で使い捨てられるしか能がねぇ。……けどよ、そんなの……わざわざ口に出すもんじゃねぇだろ」


へぇ、と、どこか感心したように、女は一歩、ミゲルに歩み寄った。


「だけど、あたしゃ言ったことを恥じたり悔やんだりしないよ。……誰かが事実を言わなきゃ、変えられるもんも変えられないさ」


黒曜石の中、ラピスラズリの青が散らばったような瞳だった。


「……みんな分かってて諦めてるに決まってんだろ」

「どうだか。そんなもん、変に賢いあんたが決めつけてるだけってこった」


ずい、と女はさらに近寄り、ミゲルの頬に触れる。


「……でもねぇ、情に厚い男は嫌いじゃないよ」


白い指がかさついた唇をなぞる。真っ赤な紅を差した口元が、ゆるりと弧を描く。


「俺も聡い女は嫌いじゃねぇ。……が、遊ばれるのはごめんだね」

「なら、本気で遊ぶのはどうだい?命を燃やして愛を贅沢に使い潰すのさ」


踊り出すよう、軽やかに。

詩を歌うよう、なめらかに。

夢に誘うは、夜闇に煌めくラピスラズリ。


「情熱的な誘いだねぇ。……でも、そういうのは大好物だ」


赤い髪が女の白い頬に被さろうとした刹那、


「コルネーユッッッ」


娘の叫びが響いた。

顔を真っ赤にして、金髪の娘……ソフィはつかつかと歩み寄ってくる。


「なんだい、ソフィ。お楽しみだったのに」

「嫁入り前なのに何してるのよ、もう……!」

「あたしが誰と遊ぼうが、あたしの自由。……舞台の上じゃ理想のヒロインなんだ。別にいいだろ?」

「そうじゃなくて!!そういうのはもっと好きな人と、こう……!!」

「やだね。あたしは遊ぶのが好きなんだ」


べ、と舌を出し、女優はふいとそっぽを向く。


「喧嘩はそこらにしとけ?俺にも実は心に決めた人がいんだ。軽い冗談だよ」

「おや、それにしてはノリが良かったけど?」

「抱くも抱かれるもお手の物だ。……そういう悲劇的な身の上でね」

「微っっっ妙にウソかホントかわかんないとこついてきたねぇ……」


ジロジロと一通りミゲルを眺めたあと、コルネーユは再びソフィに向き直った。


「そんなこと言っても、この前の脚本はあったじゃないか。濡れ場」

「……え。……な、なんでわかったの……?」


耳まで真っ赤になって、ソフィはもじもじと頬を手で覆った。


「そりゃあ、演じる側は何度も読み込むからねぇ。アレがコレの喩えだ……なんて、お手の物さ。あ、お兄さんも良かったら見に来てくんない?「劇団アーネ」って言うんだけどさ」


考えとくぜ、とテキトーに返し、ミゲルは酒場の方を見やる。

……凹んでいるフランクのことは、しばらくそっとしておいた方がいいだろう。


「それとも、助っ人になる?」

「お、給金は?」

「食いつき早っ」

「……あら、それは考えた方がいいかも。アルマンのお仕事のこともあるし……」


ワイワイと話しあう3人の姿を物陰からしばし見つめ、亜麻色の髪の青年は踵を返した。


「……僕は、ジャンに戻る資格はない……」


ブツブツと虚ろに呟きながら、「ジョゼフ」は暗がりの方へと歩いていく。耳元で囁く亡霊はもういない。

……頭の中でずっと、誰かの声がする。それが()()()の声なのか、もう分からなくなってきていた。


その日の公演は、ジャンではなく代役が舞台に立っていた。




***




「……すごい演技だったな。コルネーユ……だったか」

「そうだなぁ。……道具係としては、見納めになるんだろうな」


公演後の馬車の中で、2人の青年が語り合う。


「アルマンが手に職をつけていて助かった。……おかげで、民草の声がよく聞こえる」


隻眼の青年は馬車の窓の外、酔い潰れた労働者、地べたで眠る浮浪者、路上に立つ娼婦の姿を一つ一つ確認していく。


「……俺は、アルマン・ベルナール()()として、伯爵家に仕えるけど……でもさ、劇は見に来たっていいよな?」


どこか名残惜しそうに、アルマンは尋ねる。

塗料の匂いが染み付きボサボサに跳ね散らかっていた髪は、今は整髪剤で整えられている。


「好きにするといい。……むしろ、素晴らしいことだ」

「……子爵っぽい話し方になってきたじゃん。昔はフランス語すらからっきしだったのに」

「……そういうアルマンは、変わらないな」


ちりりと傷んだ片目を撫で、ラルフは馬車の外の喧騒に耳を澄ませた。……少しずつでいい。まだ、焦る必要はない。

そう思えるほど、ラルフの暮らしは豊かになっていた。




***




「……ジャンが相手じゃなきゃ、やっぱり詰まらないね」


控え室の椅子に座り、コルネーユは擦り切れの目立つ台本を手に取る。


「このヒロインは……「私」は、ソフィ。そんなもの、読めばわかるわ」


深窓の令嬢のように、あるいは恋する乙女のように。

世界を知らない小鳥のさえずりが、コルネーユの喉から紡がれていく。


「だからよ、ソフィ。私はソフィを演じるの。ソフィの恋を演じて、その中でジャンに抱かれるの」


うっとりと、何度も読み返した脚本を胸に抱き、微笑む。


「私はソフィとひとつになっていくの。ソフィの物語に抱かれているの。……ああ、大好き、大好きだわ、たまらないくらい」


表紙を撫で、キスをし、熱い息を吐く。


「……愛してるよ、ソフィ」


その声は、確かにコルネーユのものとして響いた。


「だから……あたしは、あんたを守れる女を演じるのさ。本名(リゼット)でなく、芸名(コルネーユ)で……ね」


唇が弧を描く。何度目かのキスを、女は台本の上に落とした。

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