Ⅳ
春の冷たい風の中、少年は語る。
「彼が望まないにも関わらず少女は水を得た魚、いえ、花のように知識を吸い上げていきました。
一度機会を逃してしまったせいでしょう。彼の傷はとうに癒え、探しに来た魔術師は一人残らず去ったにも関わらず、二人の秘密の花園は築かれたままでした。
終わりが引き伸ばされたとしても、その臨界点は少女の休暇が今度こそ底をついた時。それは暗黙の了解の内にあり、ともすれば明日消え去り行くかもしれないのだと互いが承知しながら、二人の魔術師は確かに師弟へと変わってゆきました。
しかし過ちは、もう始まっていたのです」
◆
あの一件以降、義姉は度々温室を訪れるようになった。
お茶と焼き菓子を用意させ、アマリリスとのお喋りに興じる。次回の約束を取り付けることで、急な来訪は無くなった。
アマリリス当人の義姉への引け目も、消えはせずとも緩やかに慣らされていった。
端から見れば十分に打ち解けたと言えるだろう。
「病気? なにか悪い病でも、流行っているのですか」
「そうではなくて、いえ、違わないわね」
義姉は憂鬱げに打ち明ける。
「人の病ではなくてね、葡萄の病なの」
「それは、大変です」
この土地の重要な収入源だ。不穏な知らせに、アマリリスは眉をひそめる。
「ええ。どうやら例年のとはまた違うらしくてね。今はまだ大事には至っていないけれど……」
木々の影を横目に、冷めた紅茶をそっと飲み干した。
小屋の壁に背中を預けながら、ラケルタはアマリリスが来るのを待っていた。
「お嬢さん、先程の話ですけど」
「聞いていたの」
盗み聞きをせめているわけではない。最近は特に、彼がここにいない時間が増えているようだから、まさか義姉のいる時間にいるとは思っていなかった。
「見つからないようにはしていましたよ」
「ならいいの。それで、話ってあのこと?」
ラケルタは頷く。
「必要なのは植物学者ではなく、魔術師ですね、ありゃあ」
「見てもいないのにどうして」
「見たんですよ」
領内には多くの葡萄畑がある。彼曰く、確かにあちらこちらの畑の環境は異様だった、と。
「確かに黴や菌が原因であるんでしょうけど、それを変異させているのは呪いの類いです」
「呪いって……いったいだれが」
呪い売りの魔女がいる、という話を聞いたことがある。心の底から呪いを望んだ者の前にしか現れないと噂される、稀代の魔女だ。彼女の仕業だとしたら、手の打ちようはあるのだろうか。アマリリスは寒気を覚える。
「ご安心を。おそらく自然発生したものですよ。大方たちの悪い怨念が、外からの肥料にでも紛れ込んでいたんでしょう。今年は少し、陰惨な事件が多かった」
風邪を拗らせたようなものだと言った。良くあることではないが、先例はいくつかある。ただの凶作と片付けられたものを数えれば、更に増えるだろう。
あまり知られていないのは何故かと問えば、魔術師の無関心だ、とラケルタは悪態をつく。魔術師というものは、人のことなど構いやしないのだ、と。
「なんて、ここぞと愚痴を言ってみましたが、要はまだ世に出ていない研究だというだけでして」
決まりが悪そうに、取り繕って笑った。
「まあ、お嬢さんがその目で確かめてくださいな。俺の見当違いかもしれませんしね」
◆
早くも翌日の日暮れに、アマリリスは何の前口上もなく切り出した。
「魔術師さまは来られない。手の空いているものがいない。そんな事例は知らない、と」
時期が非常に悪かった。次の学会のための準備が大詰めに入る頃で、彼らはアマリリスの言葉に見向きもしなかった。
パクシーを共犯として、屋敷から一人抜け出して気付かれぬように帰ってくるだけの魔術は身に付いている。それが裏目に出たのだろう。若い娘が一人、いくら先代領主の娘を名乗ろうとも、相手にされることはなかった。
ここまでなら何もおかしなことはない。アマリリスを刺したのはその先だ。掴めない、触れられない。同じ空気すら吸っていられるのか怪しいほどに、魔術師の巣は少女を剥がし落とした。慇懃なまま煙に巻かれて、言葉と意思を塞がれた。薄い膜で包まれて、透き通った水の中に沈められたよう。彼らがどうして畏れられていたのかをその身でやっと理解した。
魔術師と人間はきっと違う生き物なのだ。少なくとも彼らはそう思っている。アマリリスがそう感じてしまった。爬虫類のような冷たい瞳に浮かぶ無関心が、そう語っているようにしか思えなかった。
人が古来より、彼らを畏れる理由は、かくりよの妖精が近寄れないほどにあたりを飲み込んでしまうから。
生来の魔術師というのはそういうもので、異常なのは、彼なのだ。
「ラケルタ、あなたはあれがどういうものか知っているんでしょう。どうしたらいいのかも、きっと」
異常であるから、アマリリスの師として成り立った。
「あなたはその研究に関わっていた。そうではなくて?」
世に出る前に陥れられて、埃を被っていたのだ。
その予想に対し、人らしくありすぎた彼は否定を示さない。
「お嬢さん、そんな怖い顔をなさるな。人為のない呪いというのは時が洗い流してくれる。確かに今年の収穫は散々でしょう。けれどそれが分かっている。君の兄上も父上も、義姉上だって優秀なのでしょう? しかるべき対応をしたのなら、今年はなんとか乗り切れる。そうじゃないんですか」
アマリリスが何を求めるのか、分かってしまった。それを言わせぬように遮るように、穏やかに諭した。
アマリリスはその言葉にしっかりと頷き、それでも彼を見つめかえす。
答えは決まっているのだ。
「力を貸して」
「その意味が、分かっているんですか」
今この場に魔術師は一人たりともいない。そういうことに、なっている。
例えラケルタが事を成そうとも、その成果はアマリリスを経由しなければ世には出られない。
それはつまり、アマリリスが魔術師であると明かすことに等しいのだ。
故に確かめる。
それで返ってくる答えなどいくつもありはしないと知って、アマリリスがどんな娘なのかなんてきっと分かりきって、ラケルタは引き止める。どんなに微かであっても、躊躇ってくれたのなら。
彼女が泣く未来がある。それを理由に、止められると考えて。
だというのに彼女は。
「だって、それで泣く人がいることには変わりないのでしょう?」
出会った頃のように、濡れた瞳を輝かせて、不敵に笑ってみせるのだ。
「私たち以外に、今、誰が出来るというの」
その言葉に浅く溜め息を吐いた。
とうに毒されていたのだ。
その我が儘と間違いの果てに、幾千の後悔があるとアマリリス自身が知っているくせに。
その幼い強がりに、ラケルタは幾万の敬意を払ってしまう。
自分は、弱くなった。
「ああ、もう……腹ぁくくりましょうか!」
やけを少々、声を上げた。
誑かしたのは彼女のくせに、アマリリスは惚けた顔でびくりと肩を弾ませる。先程までの毅然とした雰囲気は嘘みたいに消え去って、そこには幼さを残す少女が目を丸くして立っている。
まず吹き出したのはラケルタの方だった。つられたようにアマリリスも笑い声を漏らす。
「あなた、馬鹿ね」
「俺を囲うような危機感のないお嬢さんには、言われたかないんですがね」
「本当に。ふふ、本当に馬鹿だわ、私たち」
自嘲すらも楽しげなアマリリスに、ラケルタはわざとらしく呆れ顔をする。
それに気付いたアマリリスが、少しばかり殊勝に言った。
「これからは気をつけるとしましょう」
「こんなのが二度三度起こってたまるかってんですよ」
それからの毎日はとても目紛しかった。天井がひっくり返るように、昼夜は入れ替わる。人目を避けきることは叶わず、少しずつ疑いは溢れ出していく。現場を押されられさえしなければ構わない。秘すべきものはもう、蜥蜴の青年ただひとり。
誰かが、愚かだと囁いた。少女自身がそう詰った。罵倒に耳を貸し、相槌を打ち、それでも彼女は聞き入れない。
「幸せな結末を導けると知りながら目を瞑るのは、魔術師さまではなくってよ」
今はまだ子供でいられるのだから。たとえ現実に否定されようとも。
アマリリスは信じたいものを、御伽話を信じると決めたのだ。
◆
「お父様、お話しがあります」
乾くほどに眼を開けて、痛くなるほどに背筋を伸ばし、アマリリスは静かに強く唱え上げる。
もう何も、震えるものなどありはしない。
病のこと。その原因。そして最後に解決策。
息を休ませてしまえば、もう二度と口を開くことはできなくなる。急き立てられるように言葉を継ぐ。
「これを領内に行き渡らせて下さい」
空を煮詰めたような青色の瓶に、彼女の全ては詰められている。
「この薬を水で薄めて畑に撒けば、例の病は収束に向かうでしょう」
老いた父は変わり果てた愛娘の声が途切れるのを、怖いほど静かに待っていた。
そして、問う。
これは何処で手に入れたのか、と。
アマリリスは、目蓋を閉じる。
大丈夫。パクシーがここにいる。ラケルタが待っている。
怖くない。
痛む喉から、最後の言葉を汲み上げる。
「私が作りました」
お前の娘は魔女だ。
アマリリスの耳元で、少女自身が囁いた。
◆
温室の扉が開いた。彼女だと分かりきっているのに出迎えに行けないこの身が恨めしかった。
夜闇に溶けてしまいそうなほどに黒い少女が歩いてくるのを、ラケルタは待ち続ける。
「お帰りなさい」
この言葉にアマリリスは一瞬、力なく微笑んで、ラケルタの身体に倒れこんだ。
「……お嬢さん?」
返答の一つも喉を迫り上がっては来ない。
泣きじゃくる。
何かを失ったのだ。何も持っていなかったけれど、それでも抜け落ちてしまったものがあったのだ。
変わってしまった。変えてしまった。
ああなんてことだろう。耳の中にはアマリリスを責める少女がいて、頭の中はかき混ぜられたようにぐちゃぐちゃだ。
怖いほどの欠落感が、ここにある。
ラケルタは何も言わず、縋り付くアマリリスをただそのままにさせていた。
言葉を探す。何か、言うべきことがあるはずだから。
この、強くて愚かな少女が、ラケルタの中の何かと重なって仕方なかった。
魔術師になることは決定づけられていた。幼い頃よりそう言い聞かせられてきた。
世にも珍しい、片親のみが魔術師の家に生まれ、母と死に別れ、魔術師でない父に育てられた。
「たとえ魔法使いが人じゃなかろうと、魔法は人のため使うものだ」
そう信じていた。
「ありがとう。俺の最初の弟子が君であったことを、誇りに思う」
誰が為の魔術師だ、と。かつてそう呻いて、信じていたものを諦めて。
ああ。
嘆息する。
眩しくて仕方なかったのだ。
まるでかつての自分を見ているようで、放り出すことができなかった。どうか傷つかぬよう、と願いながら、自傷すら止められなかった。
それでも。
俺は、君の理想を、守れただろうか。
「俺は今日、ここを出ます」
吃逆の音だけが、ラケルタの胸を伝う。
秘密は破られた。終わりの時はすぐそこまで迫っている。
分かっていた。言う必要もなかった。
ラケルタは硝子の天井を見上げる。
「行かない、で」
このまま星でも降って、あれもこれもを無かったことにしてはくれないかと考えた。星が願いを聞き届けることはなく、堕ちる星が過去を焼くこともない。そういう風にできている。
「破門と免許皆伝と、どちらがお好みですか」
「ずるいわ、そんなの」
掠れた不平と同時。くい、と襟が引かれた。抵抗なんてする間も無くラケルタの首は傾き、アマリリスは踵を上げる。
軽く触れた感覚が口付けだったと知ったのは、彼女の顔を見た後だ。
「好きよ、ラケルタ」
どこで覚えたのやら。溜息を飲み込んで、そのまま唇を重ねた。
先にそうしたのはアマリリスの方だというのに、彼女は逃げ出すように身を反らせるから、細い腕をいつかのように捕まえる。
涙の味がした。
「待つなよ、お嬢さん」
「待たせなさい、馬鹿」
真っ赤な顔で、睨みつけるようにこちらを見ていた。悪い子供だ、ラケルタは呻く。
「待って待って、待ちぼうけて、とびきり不幸になってみせるわ。薄情者の冷血漢ね。とんでもない悪党だわ」
精一杯に口角を上げ、アマリリスは嘲ってみせる。震えた声はきっと、笑い声のはずだった。
ラケルタはくしゃりと、正しく崩れた笑みをこぼす。
「そうならないよう、せいぜい頑張るとしますか」
やっと笑ってくれた。アマリリスは、そんな気がした。
残る時間は後僅か。温室の扉が閉まるその時まで。
音も立てぬように、最後まで閉め切った。
これ以上は余計な我が儘を言ってしまうと思ったから、アマリリスは月からも目を逸らし、ラケルタを背後に歩きだす。
「おやすみなさい、ラケルタ」
別れの言葉は必要ない。いつだって、眠りの言葉は明日の出会いを保証しなかった。彼らはそれを知っていた。
「おやすみ、アマリリス。君を愛している」
低く、唸るように。祈り、囁くように。
風に流されてしまいそうなほど、それでも、耳を疑うなんてできないほどに、確かな言葉を告げる。
彼女が振り向いたときにはもう、蜥蜴は夜闇に沈んでいた。
「……ずるいのよ」
あと幾夜、枕を濡らすことが許されるだろうか。
どうか枯れるまでは、許してほしい。