Ⅱ
少女は足音を殺して歩く。
明るい廊下はそれでも夜らしく、冷えた空気を孕んでいた。
そっと角を曲がった。その筈だというのに、人とぶつかりそうになる。慌てて身体をのけぞらせて、少し低いところにある顔に目を向けた。
「あら、アマリリス。こんな夜にどこへ行ってらしたの?」
その声に息が詰まりそうになる。
大きく開いた青い目が、こちらを見つめている。義姉だ。いや、正しくはもうすぐ義姉になる人だ。
息を吸い込めば、ふわりと漂う香水に打ちのめされる。
「庭に、行っておりました」
息すらもかかりそうな距離だ。
幸いにして、それは義姉にとっても不自然だと思われることで、足を引いたのは彼女のほうからだった。
「夜に、庭?」
ことん、と落ちるように首を傾げて、垂れ目がちの瞳がアマリリスを見上げる。
目がくらみそうだ。焦点を壁の灯りの方にずらした。
「夜の、花も、素敵なんですよ。昼とは違って」
にこりと笑って、言ってみせたから、義姉も微笑んでみせる。ほころぶように甘く、アマリリスの首を絞める。
「そう、いいことを教えてもらいました。今度試してみましょう」
「虫が、出ますから。おすすめは出来ません」
「あら、私、意外と平気だったりするのよ」
ああ、きっと。言葉を誤った。
「それでは、おやすみなさいお義姉様。良い夢を」
逃げ隠れるように自室の扉を閉める。
走ってもいないのに息が荒い。
「かわいそうに。今日も怯えちゃって」
アマリリスは顔を上げた。
窓の側に、瑞々しい緑色の髪をした小さな少年がいた。少年は椅子の上で、ぶらぶらと足を遊ばせている。
「お義姉さんはよっぽど君のことが嫌いなのかい」
「いいえ、それは無いと……思いたいわ」
数少ない友人の姿に安堵の息を漏らし、へたり込む。
悪い子だ。いけないことをした。愚かしい間違いを犯そうとしている。誰がアマリリスを許すだろう。許すとしたら、この、妖精の少年に他ならない。
二人の視線が噛み合う。
「冷たさ、というのは嫉妬からくることが多いらしいね?」
義姉は冷たくはない。雪を溶かす側の人間だ。
分かっていないはずがない。妖精パクシーはいじわるだ。
「ふふっ、あは。そうね妬みだわ。私が、お義姉さまを妬んでいるのねきっと」
アマリリスの兄弟姉妹は、軒並み優秀過ぎるほどに優秀だった。それぞれが一芸に秀でているか、あるいは多芸であり、誰もが幼少期から頭角を現してきた。昔から兄の婚約者であった義姉も、父が見込んだ才媛だったのだ。
アマリリスはそんな彼らに比べると、あまりに冴えない娘だった。
家族にとっては甘やかしたいだけの頭の軽い娘で、学院では有象無象として埋もれる生徒。
彼らから負の感情を向けられるとすれば、それは嫉妬などというものではなく軽蔑なのだろう。或いは不可解の念。『どうしてこんなこともできないのだろう?』
いっそそう思ってくれればよかった。
大事にされた。大事にされている。
人に褒められる特技なんて、何もありはしないのに。
「ごちそうさま。今日の君の心は、とても美味しかった」
はっと顔を上げる。
パクシーは先程と寸分変わらず、笑顔で立っていた。
「ここのところ、同じ味ばかりで退屈させていたでしょう。悪いわね」
こんな感情、苦いだけだろうに、パクシーはぺろりと飲み込んでしまう。
「文句が言いたくなったら言わせてもらうさ。それにしても、そんなに肩肘張らなくっていいだろうに」
「見てたの?」
「見守っていたんだよ」
それを知っていれば、もう少し上手く笑えただろうに。
弱音は感謝で包み隠し、礼を吐き出す。
でも。
「彼は魔術師さまよ。けして弱みを見せるなど、あってはならない」
尊大で有能で、都合のいい庇護者であれ。
そうはなれない、そんな力も能もありはしない。ただ、ほんの少しの間だけ、騙せればいい。
詩にも刺繍にも音楽にも愛されることはなかった。愛されなくとも愛せると思えたのは魔法だけだった。
だから、手放すわけにはいかなかった。
あの男の前では、自分も家族と同じく認められるに足る人間だと、無邪気にそう信じていられたあの頃の鎧を纏っていなければ。
畏怖に喰われてしまう。
「随分と危険を冒したね。ばれても知らないよ」
パクシーが労るように囁いた。
ばれるのは、何、だろうか。
ふと思いを巡らせる羽目になった自分に気付き、今日一日でどれほどのものを偽ったのかを理解する。
心の中でそっと失笑して、強がりを取り戻した。
大丈夫。
「今まで隠してきたわ。これからだって隠し通してみせる」
アマリリスは端くれにも満たぬ魔女だった。
◆
ひばりの街で、少年は語る。
「ご存知のとおり、これは古くからの教えです。
貴となく賎となく、魔法使いという種族は人より外にあるものでした。
魔法という奇跡を人は尊び、畏れ、讃えて参りました。
けれども彼らを人の外側の住人たらしめるもの、呪いのような祝福がございました。
魔に魅入られた者は妖精に愛されます。
彼らの死後は混沌渦巻く妖精の国にあり、人が為に用意された空の楽園へ、迎えられることはありません。
そういう言い伝えが、強く強く、唱えられていました」
◆
床下をノックする。
「お加減はいかが」
階段を上がる音に耳を澄ませ、地下室への蓋が開かれるのを待つ。
「おかげさまで」
「耳がいいのね」
「魔術師なんで」
魔術師の青年は異様に回復が速かった。
ぼさぼさだった髪も後ろで束ねれば、それなりに見れるものだ。
随分と顔色も良くなった。アマリリスは彼を、気付かれぬようにまじまじと見つめる。どことなく軽薄そうに映るが、色男と言ってもいいのだろう。
ぼんやりとそんなことを考える。
いっそ見目が整っていない方が、都合が良かったのに。愛想笑いを崩さぬまま、魅了避けの御守りを服の上から握りしめた。
「ねえあなた。名前は?」
「秘密、ってのはどうですか」
「私はアマリリス」
先に名乗られ、青年は苦虫を噛む。
偽名でも適当に名乗ればいいだけだろうに、何故だか深く溜息を吐いた。
「ラケルタです」
陰鬱に言い切った。本名、或いはそれに準ずる名を言ったと考えてしまう。アマリリスはつとめて無表情のまま、目を泳がせた。
「家名を明かすのは、勘弁願います」
「聞くつもりもなかったわ」
小さなテーブルの上に抱えたものを並べていく。
パンに腸詰、林檎とそれから葡萄の果実水。
「当たり前だけれど料理なんてしないから、こんなものしか出せないわ」
「いえ、十分です」
最後に薬箱をそっと置いた。
「そんなに色々と持ち出して、怪しまれませんか」
くすねて来てくれたのはパクシーであるし、妖精のいたずらというのは忘れやすいように出来ている。運ぶときだって、周りに人がいないことを確認してもらった。
理由は伏せて、多少なら問題はないとアマリリスは言うけれど、残念ながら多少では足りない。
「ええ、だから買いに行くわ」
お使いを頼まれてくれると言っているのだ。
「ありがたいのですが、お嬢さん、その……やりくりってご存知ですか」
「安心なさい。私、あまりお嬢様らしく育てられていないの」
土いじりを趣味としている時点で、既に特異だ。
田舎者なのだ、とアマリリスは言うけれど、そういう問題でもないだろう。
随分と変わり者だ、というのは言うまでもない事実だ。なにせ無縁の家に生まれたにも関わらず、魔術に手を出しているのだから。
「ところで、お嬢さん。幾つで?」
「十五になったわ」
とっくに言い終えた後で、少し上乗せすればよかったとアマリリスは思い直したけれど、もう遅い。
きゅっと顔を顰めたいのを耐えて、ちらりとラケルタの表情を伺う。
「驚いた。もっと上かと思ってました」
「あら、ありがとう。大人びていると受け取っていいかしら?」
世辞だろう。あるいはきっと周りよりも背が高いからだ。そんな感想を笑顔でアマリリスは飲み下した。
塀の中、硝子の中、檻の中、木々の中、紅百合の柵の中、小さな小屋の床の下。幾重にも壁を重ねた先にある地下室は、息こそ詰まるけれど、不思議と気持ちが落ち着くものだった。
ここが彼女の秘密の工房だった。
この地下室の存在を知っていたのはおそらく亡き母だけだろう。作らせたのも母だ。この部屋を見つけたときに片付けさせた侍女も、既に嫁いで辞めてしまったから、今知っているのはアマリリスの一人になる。
「なんで最初からここに運ばなかったんです?」
「だって、目が覚めたら地下なんて。いやでしょう?」
ごもっともだ、とラケルタは思う。自分の境遇からして地下というのは悪いほうに自然である。
「心遣いありがとうございます。でも、リスクには見合わないんじゃないです?」
それでも地上に寝かせるというのは悪手だったろう。
アマリリスは澄まし顔に少しばかりの影を落とす。
「一応、結界……みたいなものは出来ているつもりだったのだけど」
アマリリスが何を言っているのかは、一拍遅れて理解した。少しばかり異様な紅百合の列だろう。
「駄目駄目ですね。ちょっとした理由がなければ入らない、ぐらいは潜在意識に関与出来ますが、あまりにも拙い」
「本職はやっぱり手厳しいわね」
「お嬢さんだって一応は魔術師の端くれなんでしょう? 今までどこで習っていたんですか」
その答えは全てここだ。
ここは母の地下室だった。母の日記帳があった。どこから手に入れたのか、高そうな実験器具が揃っていた。何に使うのか分からない薬品の瓶がずらりと棚に並べられていた。表紙が外れそうなほどに古い、一冊の魔術書があった。
アマリリスの母は魔女だった。
アマリリスのやっていることは、声も知らぬ母の真似事だった。
「はははは、これはすごい。独学ってわけですか」
だとしたら、彼女は相当な逸材ということだ。
「いやあ、お嬢さん。力任せにも程がありますね。こんな古い本で学んだ魔法で、俺を運んで来たんでしょう?」
「いえ、私は運んでいないわ」
他に自分のことを知っている人間がいる、その事実にラケルタは顔をしかめる。もっと早く確かめるべきだった。
しかしアマリリスが続けた言葉は、彼の予想を飛び越えて行った。
「妖精に頼んだの」
咄嗟にアマリリスの肩を掴んだ。彼女の身体がびくりと跳ねる。
「妖精、お嬢さんはまだ、妖精と話が出来る」
「え、ええ」
魔術師は妖精と契約を結ぶことで、本来人の身には降ろされることのない魔術を手にする。正確には、その資格を得る。
しかし契約結んだ人間は、その後けして妖精と言葉を交わすことはない。
「はは」
アマリリスは魔女ではない。
それもそうだ、とラケルタは思う。曲がりなりにも良家の娘だ。契約などしているはずがない。あれほどに目を引く妖精の刻印など、身に刻めるわけがない。
物心ついたときから魔術師だった彼が、今まで思い当たらなかったのも無理はなかった。
胸がすく思いだった。
彼女にはまだ、選択肢が残されている。
「何がおかしいの」
そういう彼女は少しむくれていた。本人は涼しい顔をしているつもりなのだろう。生憎ラケルタの、表情に対する目盛りは細かいのだ。
不意に年相応に見えたのがまたおかしくて、笑いそうになる。
「失礼。なんでも、ないんです」
やることは決まった。
「ではお嬢さん。始めましょうか」
「ええ、宜しくお願いします」
傷の具合が落ち着くまで、そう日は掛かるまい。それまでに、せめて自分が彼女のためにできることは──。
魔術師はほくそ笑む。
「まず始めに、この本に書いてあったことは全て忘れて下さい」
アマリリスは青ざめた。