Ⅰ
その女は魔女だった。
一目でそうと分かる彼女の容貌は冷たいほどに整いながら、灼けるくらいに歪だった。黒髪に縁取られた、小さな青白い顔には二種の赤色が乗せられている。一つは爛々とした大きな瞳。二つめは胸元より鎖骨を通り、首筋から頬へと這う赤い紋様。その深紅の入墨は腕のようでもあり、蛇のようでもあり、鮮やかに咲く花のようにも見えた。
人々は噂する。彼女が馬車から降り立ったその日から。まことしやかに物語を組み立てては井戸の中へと捨てていく。
血と喪で象られたかのような魔女は、未だうら若き娘御だった。
その若さはなにゆえか。蛇の生き血の霊薬か。頭蓋骨の粉薬か。或いは本当に、嫁入り前と言ってもよい少女なのか。
魔女の娘だ。いかな魔女か。はぐれの魔女だ。蜥蜴の尻尾か。であれば何故、かの少女はちぎられた。盗人、謀反者、禁忌の呪法、策略に絡められた無辜の術者。そも、彼女は魔術師ですらなく、疎まれた良家の隠し子か。
井戸からくみ上げられた囁きは、楽しげにひばりの町を駆け巡る。町の外れに小さな工房を構えた魔女の耳に入る日もそう遠くない。
それはよく晴れた日のことだった。
魔女は町に馴染まぬまま、日常に嵌め込まれていた。
井戸端の噂に含まれた嘲りや蔑みは未だ薄く、ただほんのりと悪趣味に、今日も魔女は格好のおしゃべりの種だった。
「件の魔女、とはあちらの娘さんですか」
不意に割り込んだ少年の、指差す方に目を向ければ、遠くに彼女の姿があった。波打つ黒髪の間から、白い顔が浮くように、こちらをじっと見つめている。
噂の張本人が現れたのだから。お喋りは止まり、ぴりりと空気が張り詰める。魔女は何事もなかったように無表情のまま、小さく一礼をして足早に去っていった。
「よかったよかった。気に障ったわけじゃなさそうです」
にこにこと、子供らしかぬ話し方で少年は微笑んだ。きっと、この少年が彼女の耳に入る前に話を遮ったおかげだろう。
一人が不思議そうに眉をひそめる。
「あんた誰だい。見ない子だね」
「これはこれは、失礼しました。当方は先日この町に辿り着いた、旅の詩人です」
少年は会釈をする。帽子を直したときにはっきりと見えたその顔は、一人で身を立てるには幼過ぎるように見えた。
「かの魔女は秘密と不思議の匂いに塗れています。さぞや数奇な人生を歩いたことでしょう。いや、あの若さですから、抱えているのは案外薄っぺらい経歴やもしれません」
その舌はよく回る。一体誰に話しているのかも分からないまま、勝手気ままに捲し立てる。
「実はここに、ぴったりな物語があるのです。どうぞひとつ、聞いてはいきませんか」
吟遊詩人の少年は既に、ぞろぞろと後ろに観客候補の子供達を引き連れており、世間話に花を咲かせる大人たちなど"ついで"だと、返事を待ちもしないのだ。気がついたときにはもう、人々は彼を中心に円を描いている。まるで妖精に誑かされたようだ。
吸い込む息の音が始まりの合図。
「今から語るは小さな魔女の物語」
軽やかに、竪琴が開演をかき奏でる。
子供達は魔法にかけられたように、膝を抱えて、耳を澄ませ始めていた。
ほんの少し、むかしむかし。そんな口上より続く。
「これは悪い男と悪い女、悪い魔法使いと悪い魔女にまつわる、愛と恋の物語です」
◆
「森に囲まれた南の辺境、その小さな土地を治める領主の屋敷には立派な温室がありました。それは先代の亡き奥方のために建てられたものであり、今はその末娘のためにあるものでした。
老いた父は家督を長男に譲り、他の兄弟姉妹もそれぞれ別の場所へと去ったあと。残された嫁入り前の齢の末娘は、一日のほとんどをその温室で過ごしていました。
大きな温室には庭師すらも立ち入らせない場所があり、そこは彼女の、彼女だけの王国だったのです。
国境は鮮烈にして優美な毒花で引かれており、誰も立ち入ることはなく。
その奥に何があるなんて、誰も知ろうとは思わなかったのです」
◆
鬱蒼と茂る木々の隙間。
その男は眠るように蹲り、死んだように倒れ臥していた。
少女は男から数歩離れたところで立ち止まる。転がっている何かが人だと気付いたときには、少しばかり近付きすぎていた。
この森は彼女の家の敷地内だ。あまりに広いから屋敷の塀だとは分からなかったにしても、この男が越えて来たことは違いない。
行き倒れるにはおかしな場所で、盗賊や暗殺者といった類と考えるほうが自然だった。
人を呼んでくるのが正しいのだろう。分かりきったことを理解しながら逡巡する少女がいる。
生臭い臭いが鼻をついた。腐臭、ではない。血の臭いか。
「生きていない、のかしら」
少女は一歩、距離を詰めた。彼女の靴の踵は低く、服も邪魔になるようなものではない。
身を守る手段、大丈夫。試したことはないけれど、手負いの者が相手なら、きっと。少女は無謀にも心を決めて、そっと男に手を触れる。
上等だったのだろう、男の擦り切れた外套を引く。布以外の重みが指に響き、蓋をされていた血の匂いが露になる。
おそらくろくな人間ではない。引き返すなら今だ。ぱっと手を離し、上体を引いて、それでも彼女は足を動かさない。その目は彼を見続ける。
ここらでは珍しい燻んだ赤毛は男にしては長く、重たい黒の外套が異質だ。年は若い。騎士団に入った二番目の兄と同じくらいに。怪我は軽くはないのだろうが、まだ死んではいない。
視線は青年の首筋で止まる。少女がずらした外套の下の襟から覗く赤い色。血管よりも透明な赤い線は、それは。
少女は膝を下ろした。何を考えているのか、何も考えていないように、その赤色の正体を確かめるため、息も殺さずその手で襟に手を伸ばす。
赤毛の下、顰められた眉の下、閉じられた瞼がぴくりと動いた。
伸ばした少女の手は瞬く間もなく男に掴みとられた。
身動きが取れない。少女の腕を掴む手は骨が軋みそうなほど強く、熱い。その手の甲にもある赤い紋様に、息を飲む。
過呼吸気味に唇を震わして、少女は、男の揺らめく目を見定める。弾む脈を飲み干して、きれいな顔に尖った笑みを貼付けて。
「ねえ、魔術師さま。私の助けは必要かしら?」
賛美歌でも歌うかのように、囁きかけた。
魔術師の彼が目を覚ましたとき、あたりはすっかりと夜だった。
カンテラの灯りがぼんやりと周囲を照らしている。
おそらく、まずい状況ではないのだろう、と彼は判断する。傷の痛みはいつの間にか引いていて、確かめれば間違いなく手当が施されている。
しかし、はて。彼はそれなりに体格の良い青年だった。意識の定かではない人間なんて、森の中を運ぶ苦労は並大抵ではない。二人、三人掛かりか、それとも随分と鍛えられた人間か。
未だ朦朧とした頭を抑える。記憶にないわけではない。ただ、よく、思い出せない。
いつから続くかわからない、鈍い頭痛に溜息を吐き、よろめきながら立ち上がる。まともに眠ったことなど、遠い昔のようだ。
寝かされていたのはベッドというよりもテーブルのようで、足は盛大にはみ出していた。
地面は堅い。長方形が並べられた、きれいな石畳だ。明らかに人の手が入った植物が四方を囲んでいる。
なんて閉塞感のある外界なのだろう。彼は無意識に息を殺しながら、空を仰ぐ。空の下には天井があった。まるで大きな鳥籠だ。透明な天井を支える金属は放射状に広がり、ともすればステンドグラスの枠組みのようにも見えただろう。もっとも、魔術師である彼が教会に足を踏み入れたことなど、片手で足る回数だが。
月明かりはガラスの天井を通して降り注いでいる。か細い星がちらりちらりと瞬いていた。
「こりゃあまた、卦体な」
薄ら笑った。こんな閉じ込められ方は初めてだった。
ここはガラス張りの温室だ。この規模ならば植物園と言ってもいいだろう。
温い空気を肺の奥まで吸い込む。土の匂い、草の香り、どれもここしばらくに嗅覚に刻まれたものとは種類が違う。
こんな暗がりなら、悪くない。
背後にて、軽やかに石を踏む音がした。
少女の顔が橙めいた光に照らされている。
「目が覚めたのね」
彼は思い出す。自分を見つけたのは、この少女だ。
部屋着なのだろう、簡素だが質の良さそうなワンピース。その袖から覗くのは白い細腕だ。夜よりも深い、緩やかな流れを描く黒髪が、尚更に彼女を白く見せていた。
只者だと思えるほどに、ありふれてはいない。その整い方はある種、魔的なものがあった。
何よりも、その瞳。薄明かりの中でも分かる赤色は、若い娘のものとしてはあまりに鋭い。
「助けてもらったことには礼を言うが、あんた、何者……」
言いかけて、飲み込んだ。ガラスの壁の向こう側に見えるのは、けして小さくはない屋敷だ。何者か、なんて彼女は既に語っているも同然だった。
人を使う側の人間だ。第一、彼女では男一人を運べやしなかっただろう。
「お嬢さん、何のつもりなんです? 控えめに申し上げても、自分をここに引き入れるのは正気の沙汰じゃあないでしょうに」
取り繕ったのは言葉の枠組みだけで、青年は邪険な空気を隠さない。彼女は笑い声を零す。嘲るような吐息だった。
「ずいぶんとまあ、ずけずけと言うのね。恩義せがましく言ってみるけれど、私、あなたの恩人じゃないのかしら?」
「生憎、俺の会いたくない人間も、俺が死んだら困るわけでしてね」
命の恩人と敵は残念ながら不等号では結ばれない。
しかしこの毒のある笑みを見ていたら不思議なことにかえって毒気が抜かれるというもので。それが一層不愉快で青年は仏頂面を決め込んだ。もっとも彼女が敵だとしても、逃げ切る体力なんて残ってはいないのだが。
「追われているの」
「追われています」
「ええ、ええ。そうでしょうね」
彼女はぼんやりと突っ立っていた。黙り込んでいるのは考え込んでいるからか。笑みはもうなく、とても小さく見えた。
喋りだす素振りなど失ったままに、不意に少女は声を上げる。
「ねえ、魔術師さま。私たちに害を成す者でないのなら、あなたが何者かなんて知ったことではないの。決めたことよ。私はあなたを匿うわ」
まるで呪われているかのように都合のいい言葉が吐かれる。天秤が狂ってしまいそうだ。回ってくるつけは、きっと酷い。
少女の佇まいからは博愛の精神や慈悲は感じられない。張りつめた声、背筋、瞳、そして口元に薄らと浮かぶ背徳の笑み、その残滓から察せられる答えはひとつだろう。
求められているのは対価だ。
「お嬢さん、俺に何をお望みで?」
「私の先生になって」
青年は目を丸くする。引いたはずの熱でも残っているのでは、と自分の耳を疑った。
けれども、戯れなどではない、そう言うように少女は胸に手を当て、身を乗り出した。
揺れる瞳に、それでも揺るがぬ赤い意志を浮かべて。
「あなたから魔術の手ほどきを受けたく思います」