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つむろぐふたごのものがたり  作者: 燈真
第五章 兄と妹と真実
54/73

5-10

「いいえ先輩。それが、違うんです」

「……違う?」

 どう記憶を攫い直しても、どこにも歪みはない。これのどこが違うって言うんだ。自然と視線が鋭いものになっていたらしい。ゆうちゃんが一瞬頬を強張らせた。しかし、続く言葉は明瞭に、正確に、俺を打ちのめした。

「慧一先輩、本当は、佳乃ちゃんは帰ってこなかったんですよ」

「……え?」

「佳乃ちゃんは帰ってこなかったんです。お母さんと孝己君、そしてお父さんになり代わった藤原定家。この三人が、あなたが本来二年間を共に過ごしたはずの人たちです。そして、これこそが、先輩の歪みです」

 嘘だろう。だって、二年も佳乃がいない生活なんて、それこそ想像もつかない。

 まさしく、悪夢だ。

「慧一先輩。佳乃ちゃんがその本の中に入ってしまった時、あなたは、事情がわからないなりに佳乃ちゃんが戻ってきてくれることを強く望んだ。でも、望みすぎた。お母さんが出てこられなくなっても良いから、と。その結果がこの世界です。本来はじき出されるはずのお母さんは本の中に閉じ込められ、代わりに佳乃ちゃんは帰ってきた。いやなことを全部忘れて明るく楽しく過ごしている。“つむろぎ”の力を失ったまま、お母さんがいないことに何一つ感情を動かさずに。先輩はその世界を失いたくないから、幾つもの疑問を後回しにし、あるいは放棄し続けた。結果がこれです。孝己君は慧一先輩の歪みに関わりなく『本の中の家族を取り戻す』という使命に挑み、藤原定家に巻き込まれて本の中から帰ってこられずにいる。本来力を貸すはずのお母さんはおらず、いるのは力を忘れた佳乃ちゃんだけ」

詰みましたね。乾いた空気にその言葉が静かに腰を下ろす。

「このままではもう、誰もこの家族を助けられない」

 このまま、ずっと、佳乃だけが笑顔で取り残されて、終わる世界。なんというバッドエンド。誰もこんな結末、望んではいないのに。

「……こんなつもりじゃ、なかったんだ」

 ただただ、佳乃が明るく何も憂うことなく笑って過ごしているのを、孝己と二人で見守りたかっただけなんだ。三人でいつまでも、誰にも否定されずに楽しく過ごしていきたい、ただそれだけだったんだ。いつか社会に出て別の道を歩む日まで、もしできるのなら、その先も。

「私の責任でもあります。ここまで大きくなる前に、あなたの歪みを正せば良かった」

 躊躇してしまったのだと、彼女は言った。大きくなっていく歪みの前で、満面の笑みを見せる佳乃が、本当はどんな人生を歩むべきなのか知っているから、余計に情にほだされてしまったのだと。

「孝己君はすごい人です。家族を取り戻すためだけに、どんな感情をも『歪みだから』と切り払ってしまえる。大切なものがはっきりしているから、躊躇わない。きっと笑われますね、私」

「……そうでもないさ。孝己は、苦しんでいた。ちゃんと、落ち込んでいたよ」

 成り行きで初めて孝己の仕事に同行した時、実朝を前に感情を吐露した孝己を覚えている。そうですか。少しだけ目を伏せた彼女は、す、と踵を返した。一瞬期待してしまう。どうかこのまま、去ってくれないか。佳乃と二人にしてくれないか。何だか少し疲れたんだ。ちょっと寝て、それからこの先を佳乃と一緒に考えるから。

 でも、やっぱり、期待通りにはならかった。

「私だけじゃ今のあなたの歪みは正せない。だから、助っ人を頼みました」

 ゆうちゃんの手によって扉が開かれ、もう一人が現れる。少し白髪の混ざった髪を後ろで一つにひっ詰め、黒縁の眼鏡の奥では僅かにしわの寄った一重が鋭く光っている。強烈な既視感が湧いた。俺はこの人を知っている。孝己と一緒に何度も会った。そう、ついさっきも。

そう、まるでいつも図書室にいる彼女の時を、そのまま数十年進めたような。

「初めまして、慧一君。それとも若い私には今さっきまで会っていたのだから、先ほどぶり、というべきか」

 少し衰えてはいるものの、つい先ほど聞いた声音と少しも変わっていない。

「慧一先輩、この世界は、清原先生が昔担当した弟子の活動を記録した、つむろぎの協会にあるレポートの中の世界なんです。劣化してしまったため発生した歪み、それが先輩です」

悠妃(ゆうひ)が『私』と連絡をとって一部始終を教えてくれたよ。……いい加減、現実に戻ろうか」

「ちょっと、待ってくれ」

 咄嗟に背後の佳乃に目をやる。軽く揺すっても、目を覚ます気配がない。焦った。まだ、まだだめだ。最後が拒絶の言葉なんて、嫌だ。佳乃と孝己と一緒に笑って、それからでなければ。だって、もし戻ったら、佳乃が屈託なく笑えるようになるのはいつになる。孝己と俺と三人で一緒に笑って学校に通う日々が、次はいつ来るって言うんだ。またあの陰鬱な日々に戻れと、そんな、そんな酷いことを、あんたたちは俺たちに強いるつもりなのか。


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