5-4
「けーいちは?」
「……え?」
ぽつりと零れた声を聞き逃した、その直後。左手首に強い力が掛かった。ペンダントを握っているはずの佳乃の手が、痛いくらいに俺の手首を握っていた。
「けーいちは、いてくれるんでしょう?」
「よしのがひとりぼっちになっても、けーいちは、いっしょにいてくれるんでしょう?」
こちらを見上げた彼女が、怖気が走るほどの無邪気さで問う。
もしかぞくがだれもいなくなってしまっても、けーいちだけは、よしののそばにいてくれるんでしょう?
だって、けーいちは、よしのの、おにいちゃんだもん。
「そ、それは、そうだ。当り前だろう。でも」
そのあとの言葉を聞く前に、佳乃の顔がほころんだ。それはもう、満面の笑みだった。
「じゃあいい! けーいちがいるなら、よしの、パパもママもたかみもいなくても、がまんする!」
ずっと、いっしょ。
そう言って彼女は、声をあげて笑う。どこまでも無邪気に、笑う。
……俺は何を間違えた?
打って変わって上機嫌になった佳乃。放り投げた着物を拾い上げ袖を通して喜ぶさまを、解放された左手をさすりながら、愕然と見ていた。
こんなはずではなかった。
彼女の方へ一歩踏み出した足がよろけて、しりもちをつくようにソファに体が埋まった。背もたれに頭を預けるが、頭の向きを変えたところで混乱が増すばかりで名案なんて浮かんでこない。
どうして、こうなった。何が、こうさせた。
『佳乃ちゃんが、最近孝己君のことを話さなくなってきたからです』
ふと、以前聞いた言葉が蘇った。それを教えてくれたのは、確かゆうちゃんだったか。
『入学したばかりのころはずっと孝己君と慧一先輩のことばかり話していたのに。でも、何かあったのってきいても不思議そうな顔で、なにもないよって。』
「……佳乃」
「なぁに?」
手招きすると弾むように寄ってきて、隣に腰掛けた。小首を傾げるその顔を、しっかり見据える。
「最近、孝己と何かあったのか?」
こちらを見る瞳が大きくなった。人差し指を口元にあてて、しばらく思い出すように目を伏せていたが、結局傾げた首は戻らない。
「なにもないよー?」
「じゃぁどうして! どうして、いなくて平気なんだ! お前ら、仲良かっただろ!?」
「しらないよー。けーいちうるさいなぁ」
耳を塞いで眉を寄せると、くるりと背を向けて丸まってしまった。だめだ、こういう時の佳乃は何言っても聞かない。こうしている間に孝己が戻ってきてくれないかな。淡い期待をこめて床に転がっている本を手に取るが、沈黙を続けるばかりだ。九十九番の頁を開いてみても、文字らしきものはさっぱり見えない。
なんだか、疲れてしまった。
おそらくこの世界に佳乃を強引に送り込んだら、彼女は今のままでいられなくなるだろう。今の佳乃は『百人一首』に関わっておばさんがいなくなって出来上がった佳乃だ。それ以前の佳乃が封印されてできた佳乃。辛いことや悲しいことや苦しいことを全て忘れてしまった佳乃。封印先がこの本だとしたら、もう一度関わらせることが過去の彼女を蘇らせる鍵になる。それは、それだけは―正直、嫌だった。
佳乃の記憶に触れないまま、全てが円満に終われたら良いのに。
元の佳乃に戻らないままで、皆が仲良く楽しく暮らせたら良いのに。
そんなこと、できるわけがなかったのだ。
歪んだ現実は、いつかきっと、ガタがくる。
「それでも」
丸まったままの佳乃の後姿を見ながら、やるせない思いでいっぱいになった。
それでも、俺はお前に、お前たちに幸せでいてほしかったんだ。
その時。
かちゃり、と音がして、部屋の扉が開いた。
「限界、ですね」
振り返り、逆光に一瞬、誰だかわからなかった。
「そばでずっと見てきましたが、流石にこれ以上の歪みを見過ごすわけにはいきません」
「……どうして」
どうして、君が、そこにいるんだ。
「慧一先輩には申し訳ありませんが、正させていただきます」
悲しげな表情で、ゆうちゃんが立っていた。胸元で、見覚えのあり過ぎる葉型のペンダントが揺れていた。




