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つむろぐふたごのものがたり  作者: 燈真
第三章 兄と桜と乱の先
36/73

3-9

「テイカぁぁぁ!!」

 先んじて轟いた咆哮と共にその勢いが殺され、光の糸がギリギリと音を立てた。支える孝己の体が揺れて、思わず両手をまわして体を抱える。鬼の形相とはまさにこのことか。身動きの取れない男が、鼻先で沈黙する男に噛みつかんばかりに迫ろうとする。肩越しに、顎から汗が滴るのが見えた。孝己の腕が、振り抜こうとしている方向とは逆の方に動きかけている。小さな呻き声が漏れ聞こえた。なぜ孝己がああも急いたのか理解し、背中が粟立つ。……不意をつかなければならないほど、力が、足りない。咄嗟に彼の手首に上から手を添えた。

「テイカ貴様、俺を裏切ったかぁぁ!!」

「否!」

 返す定家の横顔が、わずかに歪んだ。

「我は決して院を裏切らぬ!」

「ならば今すぐこれを解け!」

「ならぬ!」

「テイカぁぁ!!」

「院の歌を、英知溢れる剛毅で、しかし繊細さを残した歌の心をそのままに留めるために!

このような形をお取り申した! 何卒ご容赦いただきたい!」

 その瞬間、院の顔から一切の表情が消えた。ついで、眉が寄せられ、目元口元がきゅ、と引き絞られる。

「お前はいつもそうだ。口を開けば歌、歌と……」

 先程の勢いと傲然とした態度からはかけ離れた、あまりにか細い声音に虚を突かれる。定家が初めて動揺したのが揺れた肩でわかる。手の下で孝己の手に力が入り、慌てて己の力を加えた。多分今、少しだけ糸の力が緩んでいる。消耗している孝己に、これ以上力は使えない。逃せば、負ける。負けたらどうなるのかわからないが、聞きたくも考えたくもなかった。

「ぅおりゃぁぁぁっ!」

 力任せに孝己の腕を右へと引く。院が目を見開き、定家がこちらを振り向く。定家、お前まで、なんでそんな、驚いた顔をしているんだ。頭の隅でそんなことを考えながら、先程より動くようになった孝己の手を引き寄せた。すかさず彼の左手が縦一文字を描き糸を切断する。

「了!」

 掠れ気味の孝己の声に応じて院を縛る糸が眩く光り、ふわりと舞い上がる、その一瞬。院の目が、確かに俺を見た。孝己ではなく、俺を。その口元がゆるりと弧を描く様を、寒気を感じながら目を離せずに見続ける。その口が開き、しかし紡がれるべき言葉を聞く前に、周囲が早回しに時を進め始めた。光に照らされ、赤く染まり、闇に覆われ、再び光が表れて、時に雪雨が降り、その中を、武士が、貴族が、商人が、駆けるよりも早いスピードで出入りしていき、その中で、金色に輝く文字がゆっくりとその形を成していく。響いた声は、院のものではなく、より深く老いた声だった。


『花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは 我が身なりけり』


 するすると解けて孝己の胸へと収まるのと同時に、周囲が正常に時を刻み始める。抱えていた孝己の体から力が抜けて、突然加わった重みに耐えられず共にずるずると座り込んだ。

「孝己?」

 軽く頬を叩いてみたが反応がない。手首を取って脈を計り、額に手を当てて熱がないのを確かめてから、やれやれと肩を落として周囲を見る。先ほどまで確かに後鳥羽院と対峙していたはずなのに、今はこの部屋どころか屋敷全体がしん、と静まり返っている。床も壁も天井も数段古ぼけているがきれいに磨き上げられており、この屋敷に未だ主がいる、ということがわかる。ここが天皇家の住居だとしたら、こぞって花見や行事に出かけているのかもしれない。もしかしたら数名残っているかもしれないが、とにかくここに誰もいなくて良かった。もし誰かいたら完全に不審者扱いされる。

孝己を背負って振り返ると、定家はまだ背中を向けていた。少し前まで後鳥羽院がいた場所に、相対したまま立ち尽くしている。途方に暮れているようにも見えた。

「定家」

 両手が塞がっているので呼びかけると、のろのろとこちらを向く。やけに覇気がない。

「どうしたんだ、ぼぅっとして」

 首を振って歩き出す姿が、いつもより小さく見える。ひょっとして、先程の後鳥羽院の言葉が堪えているのではないか。つむろぐ寸前に院と共に振り向いた彼の顔は、驚くと同時に何故と訴えかけていた。院の力ない言葉に意表を突かれた彼はあの時、何か言い返そうとしていたのだろう。いつもならそれを待てるだけの余裕があった。けれど今回は。

 定家。入口で靴を履く小さな背中を見ながら思う。この先待っている光景は、定家が望んだものではないだろう。それを知ったとき、定家、あんた、何を思うんだろうな。

「定家」

 今日何度目かの言葉を代弁すべく、初めて俺の口から告げる。

「覚悟しておけ。歪んでいないこの世界は、紛れもなく、あんたの未来だ」

 返事は、なかった。


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