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「……んだと?」
それまで半身だった院が、その瞬間定家へと体を向けた。同じように立ち上がった定家を、穴をあける勢いで凝視する。辺りを取り巻く空気が、ひたり、と動きを止めた。
「今、何といった」
「諸侯の一人である我が、院の元を去ると申し上げても、断行するのかと問うたのだ」
今度は定家が即答した。その声は厳しく鋭い。院の背がぶわりと膨らんだように見えた。上座を降りてつかつかと寄ってくると、息を飲む俺の視線の先で定家の胸倉を掴んだ。
「テイカ! 貴様、貴様も俺を捨てるか!!」
思わず肩が竦んだ。怒号が空気を震わせ、障子が小さく震える。握った孝己の手がピク、と動く。粘ついた空気が重く、しかし速く波となって押し寄せる。その圧力に、そして波に乗り荒れ狂う痛々しい感情に押し流されないよう耐える。だがそれを、定家は一刀のもとに切り裂いた。
「否!」
胸倉を掴まれ射殺さんばかりに睨みつけられながら、引かずに声を張り上げる。
「考え直せと申し上げておる! 諸侯を従えんとする者が諸侯を震え上がらせて如何する! 恐怖の元に心底忠誠を誓いついて参りたいと思える者がどれだけいるとお思いか! ましてや人に怯え心に怯え狭まった御心で、良い歌を詠めるわけがなかろう! 院とて、その程度のこと、とうにおわかりのはず!」
息を整えるためか、一度長口上が止まる。一方、院の肩は小刻みに震えていた。
「お前は……」
地を這うような声が、院の噛みしめた歯の間から漏れる。
「この状況で歌も何もあったもんじゃねぇだろうが!」
「歌も何もとはどのような意味か! こんな状況だからこそ歌を詠む余裕と心の広さを持てと申し上げている!」
「そのままの意味だこの歌馬鹿が! そんな呑気なことやってたら鎌倉に攻められるわ!」
「その歌馬鹿を登用したのは誰かお忘れか! 院が一首二首詠んだくらいで攻めてくるほど鎌倉も暇ではなかろう!」
何なんだこの主従。一転ぎゃいぎゃいと言い合いを始める二人を半ば呆気にとられて眺めながら、しかしつくづくと思った。定家は、ぶれない。どこであっても、相手が誰であっても、たとえピラミッドの頂点にいる院であっても、否と感じたら否と言う。そこに恐れも何もない。
「……けー、いち」
ふと左側から肩を叩かれた。振り返ると、億劫そうに膝に手をつき、俺の肩に乗せた手に力を入れる孝己の姿。支えて立ち上がらせ、男たちの姿が見えるように位置を入れ替える。
「定家が、説得している……というか、喧嘩している」
「何となく聞いてた。そろそろ、やる」
半分俺に寄りかかりながら、右手で刀印を作った。
「院よ」
一区切りついたらしい。大きく息を吐いた定家が、己を睨む男に一転静かな声で呼びかけた。
「もし院が公経の命までは取らぬとおっしゃるのであれば、この定家、引き続きお仕えいたそう。この先何があれど、……どこに行こうと、院と共に歌を詠み交わそう。我は為政者ではなく歌人。何よりも院のあの豊かな歌の才が、裏切りへの報復に歪んでしまわれるのが、たまらなく許せぬのだ」
「……テイカ」
眼光の鋭さが少し和らぎ、揺れる。手の力が緩んだのが、定家越しにわかった。そして、張り詰めた重い空気が、緩んだのも。
「慧一!」
鋭く叫んだ孝己がぐい、と前に出る、それに引きずられるように一歩踏み出し、控えていた障子の後ろから定家の後ろ、院の正面へと姿を現した。
「我は〝つむろぎ〟の血を継ぐ者なり、我我が血に於いてこの世の歪み綻びを繕い紡ぎて正す事を宣す!」
まるで早口言葉のような詞を一息に言ってのけると、即座に避けた定家の向こう、目を見開いた院に刀印を突きつける。光の糸が伸び、彼に巻きつく。いつもならきっちりと絞めるところまで見届けてから次の詞を紡ぐ孝己が、今日は止まらない。
「失われし道よ現れ示せ。失われし時よ戻り刻め。失われし人よ目覚め歩め。失われし情よ想いよ蘇れ。失われし歌を今、口ずさめ!」
告げ終わるや否や電光石火の勢いで腕を振り抜こうとした。しかし。




