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つむろぐふたごのものがたり  作者: 燈真
第三章 兄と桜と乱の先
30/73

3-3

「父さん!」

 不意に叫んだのは、その弟だった。目を丸くする親父に軽く頭を下げると、料理を避けながら大股でこちらへ歩いてくる。その歩みはどことなく不自然で、注意して見れば佳乃の定家への視線を遮っていることがわかった。近づくなり彼の腕を取って立たせる。

「酔っ払うなんて珍しいじゃん。仕事疲れてるんだろ。さっき俺良さげな撮影ポイント見つけたから、酔い覚ましがてらちょっと一緒に来てよ」

 うわずった声を懸命に抑えてはいるが、口数がいつもより多く速い。首を傾げるうちの両親や佳乃に巧妙に背中を見せつつ不満げな定家を有無も言わせず立たせると、こちらに底冷えのする一瞥をくれてから踵を返し、定家の肩を押しながら八重桜の向こう側へと歩いていった。それを見送ってから、親父が首を傾げた。零れ出た一言に冷や汗が流れる。

「なんだあいつ。酔って歌を詠む癖なんかあったか」

 孝己お前ちゃんと後始末していけよ! 内心で罵倒した直後、火種を巻いたのが自分だったことに気づいて肩を落とす。確かうまく取り繕う方法は、真実にちょっと脚色を入れること。

「最近仕事で和歌に触れることが多いらしいよ」

「へぇ。風流なこって」

 それ以上追究しようとしないくらいには、親父も酔っている。胸を撫で下ろした。隣ではなぜかお袋が相好を崩していた。

「孝己君、最近また『父さん』って呼ぶようになったのね! 思春期過ぎたのかしら。家の中がギスギスするのは嫌だもの。良かったね、佳乃ちゃん」

 呼びかけられた佳乃が満面の笑みでそれに応じる。先程の表情はあたかも存在していなかったかのように、影も形も見えない。完全にいつもの佳乃だ……と思う。

「佳乃」

 ひょいひょいと右手で手招きをすると、料理を避けながらやってきた。ぺたりと隣に腰を降ろした佳乃の頬を両手でつまむ。肌触りのよい柔らかなそれを軽く引っ張ると、あっという間に涙目になった。

「なにうるお~!」

 お返しとばかりに両手が伸びてきてこちらの頬を掴んで引っ張る。容赦の欠片もない痛みに襲われて、たまらず手を離した。彼女の手を振りほどいて、じんわりと痛みの残る頬を押さえる。さぞ赤くなっていることだろう。

「おま、手加減しろ!」

「よしのぉわるくないもん! けーいちがさきにひっぱったんだもん! せーとーぼーえー!」

「小難しい言葉使えば許されると思うな!」

 ひとしきりわいわいして自分の中に安心が芽生えたのを確かめてから、まだ警戒している佳乃に呼びかける。

「楽しいか?」

「けーいちにいじわるされるのぉ、たのしくない!」

「いや、そうじゃなくて。毎日、楽しいか」

 丸い目を更に丸くして首を傾げた佳乃は、それがまともな問いだと理解すると途端に笑みを浮かべた。

「たのしい! たかみがいて、パパがいて、けーいちがいて、おばさんとおじさんがいて、がっこーいけて、ぶかつにもはいれて、ゆうちゃんやみんなやせんぱいたちとおはなしできて、すごぉくたのしい!」

「そっか。良かったな」

 勢いよく首肯する彼女にためらいはなく、そのことに心底安堵する。佳乃がこんなに明るく学校のことを言うのはものすごく久しぶりのことだから、なおさら。

「こんどね、ゆうちゃんがおうちにあそびにくるの! おかいものして、おかしつくるの!」

「ゆうちゃんが? もうそんなに仲良くなったのか。楽しみだな」

「うん!」

 俺以外の誰かを家に呼ぶだなんて、それこそものすごく久しぶりだ。佳乃の中で新たな人生が鮮やかな色をもって動き始めている。

だから、だからこそ、聞けなかった。

「パパとたかみおそぉい」

「だな。ちょっと呼んでくる」

「よしのもぉ!」

「だめ。佳乃はお袋とお喋りして待ってろ」

 不平を訴える声を置いて孝己たちが向かった方向へ歩みを進める。ため息がこぼれた。

 先程佳乃が呟いた『てーか』という言葉。本当はその意味を尋ねたかった。なぜ佳乃が定家を知っているのか。なぜ『てーか』と呼ぶのか。どんな関係なのか。なぜ、普段はちゃんと父親の姿に見えているのか。聞いたら、きっと様々な謎が解ける。

けれど、尋ねたら佳乃は一体どうなってしまうのだろう。俺はおかしくなる前の佳乃を知っている。だから、楽しさを全身で感じながら日々を過ごしている今の姿を見るたび、真実の追究に二の足を踏む。佳乃が手に入れた『楽しい今』を壊すかもしれないその覚悟と勇気を、俺はまだ持てずにいた。そしてそれは多分、孝己も一緒だ。


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