序ー3
その手が突然離されたのは、歩くこと十五分、二人の家が見えてきた頃だった。前に誰か立っている。そう認識した時には柔らかな髪が舞っていた。猛ダッシュをかけた佳乃が、先ほどよりも勢いを増してその影に飛びつく。
「パパおかえりただいまぁ!」
難なく受け止めた長身の影の笑み崩れた雰囲気が、こちらにも伝わってきた。
「ただいま、おかえり佳乃。学校はどうだった?」
穏やかに問いかける低めの声。肩から下げたカメラが揺れる。包容力のある優しい空気は、俺にとっても馴染み深い。……だが。
「……」
一方で隣の空気は一気に冷えた。ち、と鳴ったのはどう聞いても舌打ちだ。次いで良く似た、しかしこちらは明らかに不機嫌な声音が地を這う。
「……あの、クソジジイ」
剣呑に目を細める様子に思わず肩をすくめた。本当に、こいつは。
昔は見事なまでに父っ子の王道を突っ走っていた孝己は、数年前突然手を返したように毛嫌いするようになった。何があったのか。意見が食い違ったのか。ただの反抗期とは異なる様子にいくら尋ねても、尽く「別に」の一点張りだ。未だに原因を教えてもらえていない。
「じゃね、慧一」
「あ、あぁ、また明日」
さっさと挨拶を済ませるなり、能面を顔に張り付けたような表情で歩み寄ると、孝己は佳乃の首根っこをむんずと掴んだ。きゃぁ、という悲鳴を無視して父親から引きはがし、そのまま家の中へと引きずっていく。
「おかえり、孝己」
「……」
「たかみ、ただいまはぁ?」
「……ただいま」
眉間にしわをつくりながら小さく発せられた固い声。扉の向こうに消えた後姿を何となく見送っていると、耳が小さなため息を拾った。視線に気づいたおじさんが小さく苦笑を浮かべながら肩をすくめる。
「おかえり、慧一君」
「ただいま。珍しいですね、こんな時間に」
おじさんは仕事柄深夜を超える帰宅が多い。泊まりになる日も少なくなくて、基本的に双子の夕食はうちの母親のお手製だ。今日も後で持ってくるつもりだったが……帰宅が早いなら話は別だ。何せ、おじさんの料理にお袋は勝てない。
「今日夕飯いらないってお袋に伝えておきます」
「あぁ、お礼も伝えてくれ。いつも助かるって」
「良いんです。お袋も双子のために何かしていないと落ち着かないから」
親友だったおばさんがいなくなって取り乱したお袋は、双子の生活の世話をすることでようやく落ち着くようになった。当時の様子を知っているこちらとしては、お袋に役割が生まれたことにホッとしたくらいだ。……たとえそれが、本来ならあってはいけない役割であっても。
おじさんからの夕飯の誘いを丁重に辞退して、俺は四軒ほど先の自宅へと急いだ。
帰宅してお袋に伝えると、「遅い!」と一喝された。お袋の方の帰宅が早かったため、すでに作ってしまったというのだ。
「まぁ良いわ。持って行ってくれる? 最悪冷凍保存できるし、無駄にはならないでしょ」
かくしてパック片手に戻る羽目になり、玄関のチャイムを無視して直接戸を叩く。トントコトンのすっコンコン。『にゃんこ踏んじゃった』の最後につける情けないオチのリズムで叩くことが、なぜかこの家では俺の訪問を告げる合図として定着している。案の定、あっという間に足音が近づいてきた。
「けーいちだぁ!」
「っぶね!」
勢いよく開いた扉が危うく手荷物を直撃しそうになって、慌てて回避する。次いで飛び出してきた人影からも死守して両手を不恰好に頭上に持ち上げたまま、抱きついてきた眼下の生き物を叱った。
「危ないからゆっくり開けろっていつも言っているだろ!」
「ごめんなぁさいどぉしたの?」
全然懲りていない顔で小首をかしげた佳乃の頭に、腹いせにパックを乗せてやる。
「お袋から。お前らの分作ったから持って行けって」
そのまま玄関からひょい、と顔をのぞかせて、いつも追いかけて出てくる姿を探す。……が。
「あれ、孝己とおじさんは?」
足音一つ、物音一つ近づいてくる様子がない。
「でかけてんのか?」
「うん。だいじなようじ、だって。よしのおるすばぁん!」
佳乃が平然としているから、何かがあったわけではないらしいが……彼女を一人置いて行くなんて、珍しい。
「そっか。一人で大丈夫か?」
「だぁいじょぶ! でも、けーいちきたからもっとだいじょぉぶ!」
これは要するに、一緒に待っていろ、ということか。……しかたない。
「夕飯は?」
「たべてまってて、っていってた!」
「まだだな。じゃ、一緒に食うか」
「くうー!」
おじゃまします、と一声かけて上がると、先に上がっていた佳乃が元気よく叫んだ。
「おじゃまされまぁす!」
孝己があれだけ嫌悪しているおじさんと一緒に外出なんて、どれだけ大事な用事なのだろう。もしかしたらおばさん絡みのことかもしれない。笑いながら頭の隅で少し、思った。
孝己とおじさんが帰ってきたのは、夕飯を食べ終わりリビングで佳乃とトランプをしていた時だった。急に庭に続く硝子戸が開いて、すわ何事かと飛び出した俺の前にカーテンを割って二人が傾れ込んできたのだ。
「孝己!? おじさん!?」
「……慧一君か……良かった」
先に身体を起したのはおじさんだ。孝己は……動かない。
「孝己!? 孝己!!」
揺すろうとした手を、ひいやりとした手が静かに抑える。
「大丈夫、疲れて眠っているだけだから」
落ち着いて見れば、顔色こそ悪いが肩は規則正しく上下している。安堵に気を緩め、そこでようやく、こんな時真っ先に駆け寄ってくるはずの存在を思い出した。振り向くと、そこでは落ちたトランプもそのままに、棒立ちのままの佳乃が怖いくらいに二人を凝視していた。とても険しい表情の中で目だけが虚ろで、まるで俺には見えない何か別の次元のものを見ているような雰囲気を漂わせている。口が、かすかに動いた。
「……てーか?」
「佳乃?」
思わず声をかけていた。佳乃の瞳にこれ以上何かを映してはいけない。何故かわからないがそんな気がした。彼女は二度瞬きをして、それから大きく目を見開いた。
「たかみ! パパ!」
駆け寄った彼女をそっと抱き締めると、おじさんは僕に疲れ切った顔を向けた。
「慧一君、ごめん。孝己を、部屋まで連れて行ってくれないか」
「わかりました」
「よしのも!」
「佳乃はパパに水を持ってきてくれるかな。それから、孝己の靴を玄関に置きに行って」
「わかった!」
ぱたぱたと台所に駆けて行く佳乃を見送って、靴を脱がせた弟を背負う。鞄も一緒に持っていこうとしたが、それはおじさんにやんわりと断られた。
「すまない、慧一君。ありがとう」
自分だって気力体力根こそぎ奪われたような顔をしているのに、彼は何度もその言葉を繰り返した。……そうなった理由を何一つ言わない代わり、とでも言うように。