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八重桜がきれいな場所で花見をしよう。そう言い出したのは、久々に一日休暇が取れたと『報告してきた親父だった。
「お前の進級祝もしてねぇし、あの朴念仁のことだから双子の入学祝もろくにしてねぇだろ。せっかくだから、まとめてパーッとやろうぜ」
その勢いで買出しに付き合わされ、当日は早朝に叩き起こされ料理を手伝わされ、やれやれと一息つくまもなく車に乗る。双子の家に寄って三人を回収すると、一般道と高速道路を使って三十分ほど走らせた。閑静な住宅街が徐々に遠ざかり、代わりに山や田畑が目立ってくる。やがて、大きめの一軒家が建ち並ぶ只中に小さな高台が現れた。その麓に車を止め、荷物を分担してえっちらおっちら登っていく。視界が開けた途端、佳乃が駆け出した。
「きれい! おおきなさくらがたくさん!」
既に盛りを終え葉ばかりとなった桜の群れのその隣、桃色の大振りの花が無数に咲き誇る一角があった。本数こそ多くはないが貧相な感じはせず、まだまだこれからとばかりに華やかに風に揺れている。一目散に駆ける佳乃の後を、「転ぶよ」と言いながら孝己がゆったりと歩きながら続く。その後ろを「ほう」と感嘆の声をあげながら定家が続いた。その肩を親父が叩いて、何か話しかけ、そのまま幾度かやりとりをしながら並んで歩いていく。そう言えば、定家の姿で親父と会話しているのを見るのは初めてだ。違和感満載なのに本人同士全く違和感なさげに話しているのが怖い。怖すぎる。
お袋に急かされ後を追い、ブルーシートを敷いて料理と紙コップを取り出して、ジュースのキャップを空ける。大人は定家も含めてもちろんビールだ。
「遅くなったけれど、三人とも入学&進級おめでとう! 乾杯!」
「かんぱ~い!」
そうして宴会が始まった。最初は俺や双子の近況報告を皆でふんふんと聞いていたが、やがてそれもご飯と酒に紛れ、気づけばお袋と佳乃は女子トークに花を咲かせ、孝己は親父から仕事の話を興味深げに聞きだし、俺の隣には定家がちゃっかり腰を降ろしてビールを呷っていた。
「いやはや、この時代にもかような場所があるとはな」
缶を片手にくつろいだ様子で頭上の八重桜を見上げ、いたくご機嫌である。ふと、口ずさむ。
「『願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃』」
「その歌……聞いたことがある」
「西行の歌だ。願うならば、満月の夜、満開の桜の下で死にたい、とな。あやつらしい夢見心地の歌だが、その心はわからんでもない。事実そのようにして死したのだから、あやつの酔狂さは筋金入りよ」
それは……恐れ入る。
「定家は?」
「む?」
「定家も、桜を題にした歌、作ったんだろう?」
せっかく歴史的歌人が目の前にいるのだ。たとえ意味がよくわからなかったとしても、一回ぐらい本人の口から本人の作品を詠んでもらいたいではないか。
ふむ、と口の中で呟いた定家が姿勢を改める。正座をして衣服を整え、正面を向いてはるか遠くを望んだ。腹から響かせる浪々とした声が紡がれる。
「『桜花 うつろふ春を あまたへて 身さへふりぬる 浅茅生の宿』」
流れる空気の音も、揺れる花や葉の音も、親父たちの話し声も、鳥の声も、全てがその一瞬だけ掻き消えたような気がした。ただ定家の歌だけが、花の間をくゆり、花びらと共に空へと舞い上がるような、そんな感覚が辺りに満ちる。これが歌人の力か。
「……てーか?」
余韻に浸っていた俺の耳に、その声は届いた。掠れたようなか細い声。一度だけ、聞いたことがある。そう、確か少し前、入学式の日の晩に。声の主は、佳乃だ。
振り向くと、彼女は硬直したままこちらを凝視していた。あの日と同じだ。いつも裏表なくころころ変わる表情がごっそり抜け落ち、険しさだけが残っている。その中でぱっちりとした二重だけがどこか虚ろにこちらを向いているのだ。正しくは、今しがた歌を詠んだ定家の方を。
温かい気候のはずなのに、背中を冷気が撫でる。余韻など一瞬で掻き消えた。
佳乃。お前、一体何を見ている。佳乃。




