三章 兄と桜と乱の先
「もしね、私たちがいるこの世界が、別の世界では小説の中の世界だったとしたら」
その言葉を聞いたのは、確か中二の秋だった。
「私は、作者を恨むよ。なんでこんなに辛い思いばかりさせるんだぁって。私は思いつく限り何も、悪いこと、していないのに」
見開いた瞳から涙がいくつもいくつも零れ落ちるのを、右手で握ったタオルで一つ一つぬぐってやった。左手で包んだ一回り小さな右手が、膝の上で震えている。
「ねぇ、どうしたらもとの平和な日々に戻るのかなぁ。どうしたら作者に届くかなぁ。私が諦めたら? 私が泣き喚いて助けを請うたら? 私が倒れたら? ……私が死んだら?」
瞳から涙を溢れさせながら口元に歪んだ笑みを浮かべるその蒼白の顔を、たまらなくなって自分の肩に押し当てた。バカを言うなと叱責した。死んだら、二度と会えないだろう。お前は、俺たちに会えなくなっても良いのか。俺たちが抜け殻になる姿を見たいのか。
すると彼女は肩に顔を当てたまま、呟いた。
「もし私の選択がおかしかったら、必ず元に戻してくれる人が現れる。今の理不尽を取り消して、私の死もなかったことにしてくれる。だから、大丈夫」
そのときは意味がわからなかった。ただ、泣きすぎて思考回路がどうにかなってしまったのかと思った。大丈夫ってなんだ。人の死がなかったことになるはずがないだろう。仮になかったことになったとしても、やっぱり俺はお前が死んだ姿は見たくないよ。そう言っておかしなことを言う彼女を説得した。
あれは恐らく〝つむろぎ〟の存在を示していたのだろうと、今ならわかる。
彼女が死なずに明るい顔で生きている今は、果たして〝つむろぎ〟が介入する前なのか、後なのか。どっちだとしても、少しだけ怖い。もし俺が体験しているのが別世界での〝物語〟だとして、もしここに歪みがあるとすれば、その元は多分……彼女だから。




