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鈴の鳴るような声が像の間を涼やかに、そして切なげに駆け抜けていく。光の文字が例によって孝己の胸元へと吸い込まれるように消えていった頃、その響きの残滓も消えた。と、不思議なことが起こった。内親王の傍らから、若定家の姿が光と共に消えたのだ。思わず孝己を見ると、彼は多分、と前置きして述べた。
「本来なら彼はここにいてはいけない。彼女と逢う以外にここにいる理由がない。だから、戻されたんだよ。今頃呑気に邸宅で寝こけているんじゃないかな」
かすかな呻き声が聞こえて視線を下げると、定家に支えられて立ち上がろうとする内親王の姿があった。男三人の視線に気づいた内親王が、我に返り警戒心を露にする。
「……あなたたちは、誰ですか」
「私たちは― 「藤原俊成様の弟子である」
前回と同じように孝己が取り成そうとしたのを定家が遮った。その声を聞いた内親王が彼を見上げる。そこで初めて支えられていたことに気づいたらしい。慌てたように離れて、しかし視線は彼から離れない。一向に離れないので、たまりかねた定家が眉間に皺を寄せた。心なし、動揺しているようにも見えた。
「……何か」
「……いえ」
言いながらも首を傾げる彼女は、やがてその首を小さく振った。
「私が知っている者によく似た声をしていたような気がするのですが……気のせいですね」
何故か彼女は人を呼ぶようなことはしなかった。では、と一言残してそのまま踵を返し、お堂の外へと歩き出す。
俺は和歌に詳しくない。さきほどの歌がどのような意味か、さっぱりわかっていない。だが、一つだけ聞きたいことがあった。その後姿を追いかけ、引き止める。静かに振り返った彼女に、言葉を選びながら尋ねた。
「もし、もしあなたをどうしようもなく好きな人がいて、本人隠しているつもりでもあなたが気づいてしまったとしたら、あなたは、どうしますか」
後ろで息を呑む気配が二人分。制するように肩を掴まれたが、口にしてしまった言葉はもう戻らない。そうね、と手を口元に当て思案していた彼女は、やがてゆっくりと頷いた。
「さり気なく伝えるわ。私はあなたの気持ちを知っています、と。その上でこう言うの。忘れて、生きなさい。生きて、私には詠めない歌を沢山詠みなさい」
私に恋をしたって、決して叶うことはないんだもの。彼女は少し寂しげな笑みと共に言い切った。奇しくも、定家が彼女に伝えた言葉と似通った答えだった。もういいかしら、と問われて、深く頷く。しなやかに身を翻して、内親王は今度こそ三十三間堂を後にした。
残された俺は振り向いた瞬間孝己の怒号に見舞われた。
「何してんのバカ慧一! 下手に干渉したらまた歪みが生まれるんだ!」
今にも拳が飛んできそうな勢いで噛み付かれる。さらにくどくどと説教に入りそうな雰囲気をどうにかかわそうとして、やけに静かな定家に気づいた。
「定家?」
呼んでも反応がない。手を振ってみても変わりなし。軽く揺すってようやく、小さくもれた呻き声を拾えた。
「どうしたんだよ、定家」
先程まで独壇場だったのに、この静まりようは一体なんだ。何度も問いかけてようやく、彼は一言吐き出した。
「……やられた」
「何を」
「あの歌よ。全く気づかなんだ。判明してしまえばそれ以外ない。まんまとやられた」
「だから何をだよ」
更につつくこと数回、渋る定家からようやく聞き出せた。
「先程の歌は『忍ぶ恋』を題としたものだ。歌意は
『命よ、絶えるなら絶えてしまえ。このまま生きていては恋心を隠しきれなくなってしまう』
内親王が誰かに己を重ねて詠んだものだが、内親王自身の想いであるという説もある。しかしな、『忍ぶ恋』は普通、男性の立場から詠むものなのだ。内親王は男性に自身を仮託してあの歌を詠んでいる」
男性に重ねて詠む。男性に。誰に?
隣で、あぁ、と納得したような声がした。明らかに笑みを含んでいる。
「どういうことだよ」
いくら尋ねても、これ以上口を開くまいと決めたのか、定家は苦い顔をしたまま答えてくれない。仕方ないので孝己に説明を求めると、薄情にも一言だけが返ってきた。
「内親王の方が一枚上手だったってこと」
慧一のおかげでわかった、なんて言われても何のことだかさっぱりわからない。結局俺は今回役に立ったのか。苦い顔の定家と満足げな孝己に挟まれて首を傾げるも、答えはない。
「閉じよ」
定家の苦い初恋と歌への並々ならぬ思いを知った三十三間堂は、孝己のその一言であっさりと姿を消した。
定家が『新古今和歌集』を一応完成させたのは、式子内親王が亡くなった四年後だと後で知った。彼はどのような思いで編纂に臨んだのだろうか。内親王の歌をどのような思いで選び取ったのだろう。彼の成長の証を、どれだけ姉弟子に、初恋の相手に、見せたかっただろう。
俺はあまり和歌に詳しくない。どこがどのように良いのかなんて、多分見てもわからない。けれど、定家と内親王が送りあい評しあった歌を知ってみたいと、この日強く思った。




