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つむろぐふたごのものがたり  作者: 燈真
第二章 兄と歌人と忍ぶ恋
25/73

2-10

 しかし、彼女の手は頬に触れることはなかった。

「気に入らぬ」

 その手を掴んで自分の元へと引き戻すと、若き定家は老いた自分をにらみつけた。

「内親王を知ったような口をきく主は何者だ。内親王はやらぬ。歌ごと全て、我が懐に抱きてゆくのだ」

 暗闇の中で瞳が不気味に光る。薄まりつつあった粘つく空気が、あっという間に濃さを取り戻す。吐き気がした。そうか、この歪みの核になっているのは、内親王自身に対する若き定家の狂気めいた執着心。

 歪みの中心で、声を失った内親王を抱えた彼は何でもないことのように哂う。

「何、歌など、どこででも歌えるではないか」

 次の瞬間だった。

「ふざけるなよ、小僧」

 その頬を勢いのついた右手がとらえ、殴り飛ばした。内親王を放して倒れこんだ彼の上に定家が乗り上げ、なおも胸倉を掴み上げる。底冷えのする声が彼を縛る。

「歌は、心ぞ。歌は、欲ぞ。歌は、叫びぞ。誰かの目に留まり、耳を打って初めて、その真価を発揮する。歌は、生きものぞ。数多の人の心に留まり磨き上げられて初めて真の姿を表す。何のために父上が主を内親王に逢わせたと思う。歌の生き様を学ばせるためぞ。断じて主の中に、内親王の中に眠る数多の歌を殺すためではない! 主と内親王の未来から歌を消し去るためでは、ない!」

 佇む闘将の像すら怖気つくほどの大音声だった。壮年の男が、若き己を圧倒する。

「良いか、藤原定家」

 自分が放った最後の響きが消えた頃、胸倉の手になおも力を入れ自分の鼻先まで持ち上げながら、定家は低く告げた。

「ゆめゆめ忘れるな。歌は、死ぬのだ。歌を殺した後、主の手元に一体何が残る。歌人である主が歌を軽んじた瞬間、主の生きる意味は、もはやない」

 荒々しく手を離して若者の上から退くと、彼は傍らで半身を起こした内親王に手を貸し、打って変わって壊れ物を扱うような手で居住まいを整えてやった。何かを言おうとした彼女に、しかし小さく首を振る。そして、いつになく真摯な声音でこう言った。

「お忘れになるが良い。貴女の歌を愛した男のことも、貴女を連れ出そうとした愚かな男のことも。そして命ある限り自由を夢見て、自由をお詠みになるのです」

 それきり背を向け、こちらに歩み寄ってくる。ちらりと孝己を見た、それだけで彼は理解したらしい。改めて姿勢を取り直し、厳かに述べた。

「我は〝つむろぎ〟の血を継ぐ者なり。我我が血に於いてこの世の歪み綻びを繕い紡ぎて正す事を宣す」

 光の糸が再び伸びてゆく。しかし今度は内親王だけでなく、隣の若定家にも巻きついた。清浄な気が重苦しい空気を退けていく。

「失われし道よ現れ示せ。

 失われし時よ戻り刻め。

 失われし人よ目覚め歩め。

 失われし情よ想いよ蘇れ。

 ― 失われし歌を今、口ずさめ」

 右手を勢い良く横に引こうとしたその時、転がったまま縛られている男が小さく呻いた。

「離さぬ」

 光に照らされたその顔は、苦痛と恨憤の情に満ちていた。濁った瞳が内親王に向けられる。

口元がにたり、と、歪んだ弓を描いた。

「我は、離さぬ。内親王、我が愛しの君。歌と共に必ず、あなたの御気持ち、この腕に……!」

 しゃり、金属が触れ合う音がすぐそばで響いた。

「……主は、黙れ」

 視界の隅に鈍い銀色の光をとらえるなり、俺は本能的に叫んでいた。

「孝己!」

 駄目だ、これ以上この男の悲しい狂気を定家に見せてはいけない。でないと彼は。

 静かに一歩踏み出した定家の右手にあるものに気づいた孝己が渾身の力で右手を振り抜いた。人差し指と中指を立てた左手を上に掲げ、素早く真っ直ぐに振り下ろす。

「― 了」

 切れた光の糸は僅かに二人に巻きつくと一際強い光を放ち、解放してふわり、と舞いあがった。その頭上へと浮上し、文字となってその動きを止める。


『 玉の緒よ 絶えなば絶えね 永らへば 忍ぶることの 弱りもぞする 』

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