2-9
連れてきた若定家は、床に座り込んでいる内親王を見つけるなり悲鳴をあげて駆け寄った。屈んで背中に手を当てながらこちらを睨みつける。
「内親王に何をした」
孝己はその問いに答えず、灯りに照らされたその顔をまじまじと見つめていた。やがて俺の方にこそり、と囁きかけた。
「厚顔不遜は昔からなんだ」
返す言葉がない。
「何をしたと聞いている!」
「聞きたいのはこちらの方だ」
無視されたことに腹を立てて荒げられた声に鋭い声を被せて封じ、孝己は仁王立ちしたまま、彼らと交互に視線を合わせた。
「何を、しようとしていた?」
沈黙が落ちる。当然だ。若定家の存在に思い当たった段階で俺も気づいたから、孝己が気づいていないわけがない。気づいていてわざと聞いているのだからこいつも大概性格がねじれている。無論本人の口から言えるわけがない。皇家の御所内で一歌人と皇女が逢引などと、自ら口にしてしまえば定家の地位が危うい。それでも孝己はどうしても言わせたいらしい。上から無言で二人に視線を注ぎ続ける。先に音を上げたのは短気な男だった。
「内親王を、自由にして差し上げようとしたのだ」
「自由に?」
思わず問い返すと、彼は大きく頷いた。自分は間違っていないと言わんばかりに胸を張り、滔々と語りだす。
「この御方が賀茂の斎院を務められたのは存じていよう。斎院を務められた方は生涯独身でなければならない。皇家の中で死するまで息をするか出家するか、いずれかしか生きる道はない。」
思わず定家を見た。暗がりの中では彼の表情はわからない。定家の初恋は、絶対に実らないものだった。身分という差があるが故ではなく、内親王の務めに伴う定めが故に。
「この方はずっと自由を求め続けていた。若宮様からもご相談をお受けいたした故に、我がお連れいたそうとしたのだ。源平の混乱に乗じ、このまま二人で、縛られぬ場所へ行こうと」
それって駆け落ち!? 喉元まで出かかったその言葉は、変化した空気に押し留められた。どろり、粘りのある空気が二人から湧き出して辺りを埋める。息が詰まる閉塞感。言いようのない不安感。冷や汗が出る。実朝殿の時と同じ感覚が全身を包みこむ。……これだ。これがこの人の、否、この人達の歪み。
「定家が私を自由にしてくれる。諦めていた自由を彼がくれる。戦乱の世に於いて誰もが明日をも知れぬ身よ。ならば直情に身を任せたって良いでしょう? わずかでも定家の与えてくれる自由に浸りたいのよ」
だから、このまま行かせて。有無を言わせない威厳に満ちた声が暗闇に響く。手に手を取った二人が、自分達を阻む者を見上げた。気圧されたように一歩引いたのはしかし、俺だけだ。そして一歩前に出たのは、孝己ではなかった。
「歌は、どうする」
孝己を抑えて二人の前に立ちはだかった定家が問う。孝己が静かに後ろに下がった。
「歌を、捨てると言うか」
震える声からは強い怒りが感じられた。
「歌人の主が、歌を捨てると、そう言うのか。歌を愛するこの御方に、歌を捨てよと申すのか!」
最後は空気を振るわせるほどの怒号となった。粘りのある空気が押しやられるほどの凄まじい気が、小柄な身体から溢れ出ている。
「我はこの御方の歌が好きであった。不自由の中だからこそ生み出される自由を貪欲に求め表す歌が好きであった。諦観に浸るのではなく、諦観をも自由への武器にされる彼の御方のたくましさが好きであった。羽ばたこうともがきながら歌を詠むこの御方が、好きであった!」
定家の背中が大きく震えた。天を仰いで頼む、と呟く。
「歌を、捨ててくれるな、内親王……」
吐息と共に零れたその言葉が、静かに彼女の上に降る。これが、歌人・藤原定家。これが、彼の歌への執着心。呆然と聞きながら、俺はある事実に気づいていた。定家が「好き」を過去形で語っている。これが示すものは、もしかして。
「孝己、定家の時代で、内親王は……」
「……亡くなっている。鎌倉時代に入ってすぐ、病気で」
「……そうか」
それきり何も言えなくなって、ただ彼の後姿を見守る。その声音に込められた思いを、彼の正体をわからないながらも感じ取ったのだろうか。その時、思いをぶつけられた内親王が真っ青な顔で彼を見つめ、そっとその頬に手を伸ばした。
「……あなたは」
定家の向こうで、涙が一粒、頬を伝うのが見えた。孝己が静かに二本指を立て、つむろぐ姿勢をとる。その手を咄嗟に押さえた。待て、まだ、せめて、あの手が彼の頬に届くまでは。




